63(世奈) 歪な三角形
初めて会ったときから、沢木彰の隣には、いつも栄夕里がいた。
元宮VBC――獨楢ともパイプを持つ、県内最大規模の小学生バレークラブ。あたしがその元宮VBCと最初に対戦したのは、五年生の冬。六年生の部と五年生以下の部が同時に開催される小学生版『新人戦』の、県大会だった。
当時、彰はキャプテンでレフトのウイングスパイカー。夕里はセンタープレイヤーとして出場していた。
このセンタープレイヤーというのが、まったく非常識なポジションだった。レセプション(サーブカット)時はコートの中央で広範囲のレシーブを受け持ち、隙あらばそのままフロントセンターとして攻撃に加わる。相手の攻撃時にはブロックの後ろに控えてフロントゾーンの守りを担当する。また、ラリー中、自身がファーストタッチをしなかった場合は、ネット際に上がってセッターをも務める。
守備の要であり、遊撃のセンターアタッカーであり、司令塔のセッターでもある――しかもその三役のどれであろうと全国級の戦力たるという、文字通りの万能選手。小五の時点で既に、栄夕里は突出した怪物だった。実際、小学生時代、あたしたちの学年の県MVPと言えば夕里以外にいなかったし、中学でも、二年生で県選抜メンバーとなったのは夕里だけだった。
一方の彰はといえば、当時はそこまでずば抜けているわけではなかった。もちろん県代表チームのレフトエースなのだから順当に県内最強ではあったのだが、町川縫乃、与志田天那、狭川輝美、江本瞑、小田鹿子、山岡真歩といった同期のアタッカーたちとの間に、今ほど明確な差はなかった。
彰が実力的にも体格的にもぐんと伸びたのは、中二の秋頃から。中三の夏には、すっかりエースの肩書きが似合うようになった。冬の県選抜では、全国でその名が通るほどのアタッカーになっていた。
まあ、そういうわけだから、小五で初めてあたしが二人と戦ったとき、とにかく印象的だったのは夕里だった。レシーブは上手いわ、トスは上手いわ、スパイクも綺麗にコースを決めてくるわ、とんでもないヤツがいると目を丸くした。彰のことなんて、あたしがあたしのクラブのキャプテンで、試合前に挨拶さえしていなければ、名前も知らなかっただろう。
あの頃は……そう、むしろ、「栄の近くによく沢木ってヤツがいるわね」と思っていた。それが中学生になって、あの二人と仲間になって、いつしか「いつも彰の隣には夕里がいるのね」に変わっていた。目で追う対象が、変わっていた。
理由は簡単。なぜなら、あたしはセッター。あたしにとって二人が倒すべき敵ならば、最も警戒するのは同業者である夕里のほうで、あたしにとって二人が信頼できる仲間ならば、最も思慮するのは取引先である彰のほうになるのは、とても自然なことだろう。
それに、あたしと彰は、先輩たちがいる間は同じ控え選手だった。あと、あたしたちは二人とも夕里教に入団していた。つまり、あたしたち世代のMVPで、先輩に混じって試合に出て活躍する夕里に、強く惹かれ、憧れていた。いずれ夕里と同じコートに立つときまでに、あたしたちは少しでも夕里に近付かなければならなかった。
必然、あたしと彰は、暇さえあれば一緒に練習する間柄になった。
彰の身長が伸び始めたことに最初に気付いたのも、あたしだった。先輩たちが部を引退したあとの、中二の秋。夕里は、二年生唯一の県選抜メンバーとなり、そちらの練習に参加するためにたまにいないことがあった。夕里は獨楢の高校のほうの本拠地――第二体育館で、先輩たちや高校生とともに技術を磨いていた。あたしと彰はそんな夕里に負けないよう、中学の体育館で練習を重ねていた。
その日は休日だった。昼間の通常練習が終わったあと、次の時間帯のコート使用枠が空いていたから、あたしたちはそのまま自主練をすることにした。夕里は県選抜の練習でいなかった。他のメンバーも誘ったけれど、用事があったりでその日はみんな帰ってしまった。だから、コートにはあたしと彰だけが残った。隣では卓球部と剣道部が練習をしていた。
ピンポン玉の爽やかで軽い打音や、面打ちの甲高い声が響く中、あたしたちは黙々と練習した。あたしがトスを上げ、彰が打つ。その繰り返し。足元にボールが転がってないか気を付けつつ、ボール籠が空になるまで打つ。空になったら二人で散らばったボールを拾って、また打つ。
何度目かのボール拾いを終えたところで、あたしと彰は軽く休憩を取った。持ち込んだドリンクを飲みながら、体育館の壁際に二人で並ぶ。
「ねえ、彰。平行なんだけど、もっとゆっくりのほうが打ちやすいかしら?」
「ん……ああ、いや、今のままでいい。むしろ、わたしがもっと早く入る」
自分がトスに合わせるから問題ない、とも受け取れるぶっきらぼうな言い方。なによアタッカーに合わせるのがセッターの役目なのに、と最初は不満に思っていた。けど、そのうちに、これが彰のやり方なのだとわかった。
例えば、明らかにあたしのミスでトスが乱れたとき――つまりあたしに非があるときには、たとえ僅かなズレでも彰は遠慮なく指摘してくる。だから、もしそうではないときに彰が「自分が合わせる」と言ったなら、それは純粋に自分のプレーに納得がいっていないときなのだ。ここで気を遣ってこちらが合わせようとすると、さっきまでのに戻してくれ、とにわかに不機嫌になる。
変なヤツ、と初めは思った。でも、よくよく考えてみれば、変でもなんでもなかった。彰にとってセッターの基準とは夕里なのだ。夕里の上げるトスはいつも完璧。だから、コンビが合わないとすれば、原因はアタッカーのほうにある。普通の(つまり不完全な)アタッカーとセッターのように、互いに歩み寄りながら完璧を目指すやり方を、彰はしてこなかったし、できなかったんだ。夕里の上げるトスこそが至高で、それを彰の側に『合わせさせる』ということは、夕里の価値を引き下げることを意味するから。夕里教信者で意地っ張りで自尊心の強い彰が、そんな堕落を許すはずがない。
……にしても、この愛想のなさはどうにかならないのかしら? いや、愛想のある彰はそれはそれで気色悪いけれど……と、石像のように静謐なその横顔を眺めているうちに、あたしはふと気付いた。
「彰、あんた――」
言いながら、あたしはドリンクを床に置いて、彰の肩を掴んでこっちに顔を向けさせた。さっきまで石像みたいだった彰は、急に命が吹き込まれたみたいに驚いて顔を赤くした。
「お、おい、世奈?」
「ちょっと、動かないでよ」
あたしはぐいぐいと彰の肩を押して壁際に追い詰め、額と額を寄せた。そして、確信に至る。
「……やっぱり」
「だから、世奈。なんなんだいきなり」
「彰、あんた、かなり背伸びてるわよ。あたしのこと抜いてるわ」
「は? 背……?」
彰は不思議そうに目を丸くして、自分の頭をぽんぽんと触った。それから、まじまじと目の前のあたしを見つめる。
「……本当だ。おまえと目線が合う」
至近距離でやたら大真面目にそんなことを言うもんだから、あたしは少し恥ずかしくなった。でも、先に接近したのはあたしなので、なんとなくここで引いたら負けな気がして、あたしは彰を壁に押さえつけた体勢を維持したまま、余裕たっぷりに微笑んでみせた。
「よかったね。やっとあたしを越えられて。セッターより低いエースなんて格好つかないもの」
「……そうだな。これでまた一歩、近付ける」
口元を綻ばせ、喜びを噛み締める彰。普段は見せない緩んだ表情。これはきっとあたしが見ていいものではない。そう思って、あたしは俯いて彰から離れた。
「あ、夕里……」
小さく呟く彰。あたしは体育館の入口に振り返る。ジャージ姿の夕里が軽く手を振っていた。県選抜の練習が終わって、その足でここへ来たのだろう。
たんっ、
と軽やかな足音。彰が夕里の元へ走り出す。その時生じた風があたしの伸ばし途中の髪を揺らす。あたしは彰の背中を目で追う。
本当に、あの二人は、いつも一緒だ。夕里が彰を、彰が夕里を、互いに引き合っている。だから、二人の間に働く力は、他のどんな組み合わせの間に働く力より強い。あたしが何をしようと、彰は、夕里が姿を見せただけで、容易くあちらへ引きつけられる。あたしの力では彰を繋ぎ止めておけない。
こういうとき、どうしてあたしはセッターだったんだろう、って思う。もしアタッカーなら、もしリベロなら、もしマネージャーなら……きっと、こんな気持ちにはならなかったはずなのに。
一人のエースと、二人のセッター。それがあたしたちの関係――ううん、そうじゃないわ。二人一組の彰と夕里。そして、なんでもない一人のあたし。
歪な三角形。あたしはいつだって、彰と夕里の外側にいた。あたしたち三人がついに同じコートに立つようになってからも、彰の隣には常に夕里がいた。夕里の対角であるあたしは、彰の、二つ隣。その配置は実にあたしたちの関係をよく表していた。
もちろん、だからといって、夕里にマイナスの感情なんて抱かなかった。そもそもあたしほど熱心な夕里教信者はいないといっていい。同じセッターとして、夕里はあたしの憧れであり、理想。そんな存在をずっと肌で感じてきて、プレーが上達しないわけがない。最終的にあたしが全国で戦えるほどの選手になれたのだって夕里のおかげだ。
わかっている。あたしが逆立ちしたって、夕里に叶うはずがない。そんなことは最初からわかっていた。あたしの入り込む隙なんてない。すっぱり諦めてしまえばいい。同じコートに立てただけで満足――そうでしょ?
あるいは、あいつが、夕里くらい遠くにいるヤツだったらよかったのよ。あの二人のどちらもが天空に輝く星だったなら、隣にいたいなんて思わなかった。七夕に夜空を見上げて、織姫と彦星の間に割って入ろうなんてバカなこと、誰だって思うはずがない。
でも……現実はそうじゃなかった。夕里一人だけが天空に輝く星だった。あたしたちはその星に憧れて手を伸ばす地上の二人だった。ただし、二人は二人でも、あたしはセッターで、あいつはアタッカー。同じくらいに想っていても、同じようには想っていない。
あたしたちの願いは、別々のもの。あたしは星になりたい。あいつは星を掴みたい。あいつの願いはいつか叶うときがくるかもしれない。きっと叶うわ。でも、あたしの願いは、いつまでも決して叶わない。
敵として戦っていた小学生のときも、仲間として同じコートに立った中学生のときも、高校生になって、夕里があたしたちの元を離れてしまった今も――。
『獨楢に戻ってこい、夕里』
叶わないとわかっているのに、振り向いてくれることはないとわかっているのに、どうしてあたしは想ってしまうのだろう。
あたしはあの星になりたい。けれど、トスを上げるたびに思い知る。あたしは夕里にはなれない。
あたしはあの星になりたい。けれど、その視線の先を追うたびに思い知る。あたしは夕里にはなれない。
あたしはあの星になりたい。そう強く願うたびに思い知る。あたしは、あいつの星には、なれない――。
――ぱすっ。
気付くと、あたしはネット際の定位置で、ボールを両手で受け止めていた。誰の目にも明らかな反則。複数の声や足音が飛び交っていたコートから一切の音が消える。みんな唖然とあたしを見ている。突然のことに主審の先生さえ笛を吹くのを忘れている。
あたしは掴んだボールを腰元まで下ろして、そのまま指を離した。ボールは重力に従って、ぽーん、ぽーん……と所在なさげに床を跳ね、やがて、あたしの爪先にぶつかったのをきっかけに、ぴたりと動かなくなった。
時が止まったようなその空間の中で、最初に動き出したのは監督の村木天馬先生だった。先生は副審の副審の柿崎悠斗先生に声を掛ける。柿崎先生は少し戸惑いつつも、主審の先生へハンドサインを送った。
少し間があってから、ぴぃ、と控え目に笛が鳴った。コートの外では、村木先生に促された久保由紀が、困惑の表情を浮かべてサイドライン際に立っていた。あたしは意味を理解してそちらへ向かう。途中で彰とすれ違ったときに何か言われた気がするけれど、よく聞こえなかった。あたしは由紀と頭の上で手を合わせ、コートの外へ出る。待ち構えていたマネージャーの軍場ゆふるさんが、あたしの頭にタオルを被せ、肩を抱いてベンチまで歩かせてくれた。
村木先生とゆふるさんに挟まれる形で、あたしはベンチのパイプ椅子に腰を下ろした。瞬間、張り巡らせていた諸々の糸が切れた。
ぽたり、と顔から水滴が落ちる。それは緑色の養生シートにぶつかって飛沫となる。水滴は、それからしばらく、ぽたぽたと止まらなかった。




