62(由紀) 小技《テクニック》
明正学園VS獨楢新人チーム。
通算三セット目、午後はこれが初となるその対戦を、私はコート後方のアップゾーンから見ていた。
スコア、8―7。
無茶なローテのおかげで連続得点を成し遂げた明正学園は、やはりと言うべきか、無茶なローテのせいで連続失点を喫していた。しわ寄せ、というのはまさにこういう状況のためにある言葉だ。あのボサっとした髪の人……名前は知らないけど……少しシンパシー。私も何かとしわ寄せを受けることが多いからだ。まあ、私の場合、黙してちゃんと自己主張をしないせいだから、自業自得なんだけれど。対して、あのボサ髪の人はむしろそういう立ち回りは得意そうに見える。が、恐らくはあのキャプテンさんに目をつけられたのが運の尽きだったのだろう。いいように振り回されている。おいたわしや。
「うわああああああんっ!!」
泣いているような叫びを上げて、ボサ髪の人はまたライトセミを打った。その鬼気迫る様子が功を奏したのか、ボサ髪の人の放ったボールはレフトブロッカーの狭川輝美の左手を弾き、ブロックアウトをもぎ取った。
スコア、9―7。
精根尽き果てたボサ髪の人がよろよろと後衛に下がり、栄夕里が前衛に戻ってくる。
こちらのコート全体に、ぴりぴりと緊張が走る。夕里が前衛にいる――ただそれだけのことで、場の空気が変わる。それは決して過剰反応ではないだろう。私もあの場にいたら、同じように夕里を最重要視する。
笛が鳴り、ボサ髪の人のサーブ。少しでも休む時間が欲しいのか、八秒たっぷり使って呼吸を整え、フローターを打った。しかし、結果はネットに掛かり、サーブミス。
スコア、9―8。
向こうのサーブミスは、これで三度目。五人中三人がミスしている――しかも普通のフローターサーブで――というのは、偶然ではない気がする。考えられるのは、全員がサーブで際どいところを狙う、という作戦。チーム力の差は歴然としているから、総力戦となるラリーで勝ち目はない。その状況下で連続得点をしようと思えば、「サーブで相手を崩す」のは妥当で有効な戦術といえる。
下手にこちらにチャンスサーブを与えてしまえば、手痛い反撃を喰らうのは目に見えているのだ。サーブは思い切って打ったほうがいいに決まっている。相手のレシーブを乱せれば良し。ミスはそのための必要経費。そう割り切ることができれば、気持ちの切り替えだってスムーズにできる。最初のサーバーだったキャプテンさんの打ち方なんて、まさにその体現だった。最後にサーブミスで締めたのも半分くらいわざとだろう。指揮官が作戦に殉じてミスをしたのだから、続く他のメンバーがミスを恐れる理由は何もない。
そっか……獨楢に本気で勝とうとしているんだ、あの人たち。
ここに至って、ようやく私は状況を正しく理解した。あの明正学園というチームは、一見無茶なようでいて、実に巧妙に狡猾にうちを攻略しようとしている。そして実際、それは成功している。午前中は一桁の点数しか取れずに完敗していた彼女たちが、今やこちらに先んじて二桁に乗ろうとしているのだ。
かなり際どい勝負になるかもしれないな……。
もちろん、それは練習試合としては大いに歓迎すべきことだ。でも、今に限ってはあまり望ましくない。最悪、このチーム――獨和大附属楢木高校の新入生全体が、空中分解するかもしれない。
私たちの世代で燦然と輝く三つの星――沢木彰、森脇世奈、栄夕里。
この対決であの三人の関係にどういう決着がつくとしても、それはきっと私たちに大きな影響を及ぼす。それが良い結果に繋がるのなら問題はない。でも、今は、見るからに悪いほうへ向かっている。試合が進むにつれ世奈のトスの精度が落ちているのだ。まだぎりぎり踏み止まっているけれど、これ以上は、いけない。
私は応援もせずにじっとコートを見守る。セッター対角の江本瞑がサーブを放ち、相手コートのFR。へろへろのボサ髪の人がややなげやりにカットを上げる。ライトへ流れるBカット。レフトサイドからネットに沿って定位置に向かっていた夕里は、カットがズレたのを見てそのままツーアタックの踏み込みを始めた。わかりやすい誘いだ。レフトの狭川輝美とセンターの小田鹿子の二人がレフトに寄ってブロックの構え。夕里はライト側へ少しオーバーランして切り返し、内側へ捻りを加えて跳ぶ。そして利き腕ではない右手で柔らかくボールを捉えると、輝美と鹿子の手を避けるように山なりのフェイントを放った。
……この流れは、まずい。
「えっ! なんか言ったか、由紀?」
無自覚に呟いていたらしく、隣の桐ヶ谷烈に聞き返される。でも今ラリーから目を離すわけにはいかない。悪いと思いつつ無視してボールの行方を追う。夕里のフェイントに、バックレフトの彰はしっかり反応していた。綺麗なフライングレシーブ。掬い上げられたボールはぴったりと定位置にいる世奈の頭上へ。
ツーをした夕里はライトにいて、センターの人はまだサーブカットの位置から動かず棒立ち、レフトには背の低いキャプテンさんだけ。見上げれば打ち頃の絶好球。ツーアタックを得意とする世奈にとって、あまりにも、おあつらえ向き――。
ぱあんっ!
汗の滲んだ手の平と艶めくボールが激しく衝突する、少し湿った打音。それが刹那のうちに『二度』鳴った。そして数瞬ののち、
――だんっ、
とボールと床とが触れ合う音。だんっ、だん、だんだだだ……とボールが跳ねて転がっていく。私たちのコートの床を。
世奈を初めとしたチームの全員が、幽霊にでも遭遇したみたいに目を剥いて転がるボールを凝視めた。世奈のツーアタックがシャットされるという異常事態に理解が追いつかないのだろう。外から見ていた私だって自分の目が信じられない。
やがて、ぴっ、という笛の音が凍結していた空気を溶かす。キャプテンの彰が真っ先に我に返り、唇を引き結んでボールを拾いに走った。世奈は着地した位置から動けずに俯いている。そして、たった一人で私たち全員を黙らせた怪物は、こちらに背を向けて、今のチームメンバーの輪に紛れていた。
「おっ!? またあっちの得点かー! 見てなかったけど何があったんだ?」
烈が大きな声で私に聞く。さすがに今度は無視するわけにはいかない(烈が今のプレーを『見てなかった』のは私に原因があるからだ)ので、きちんと答える。もちろん、周りに注目されない程度の声量で。
「夕里がライトからツーでフェイントを落として、それを彰が拾ってチャンスにして、世奈がツーして、夕里がシャットした」
「ん? ちょっと待ってくれ、由紀! 聞きながら状況を思い浮かべていたんだが、私の中で夕里が瞬間移動をしたぞ!」
「烈のその想像は間違っていない。そういうことが今実際に起こった」
「えええっ!? 夕里って瞬間移動できたのか!? くそおっ、見たかった!!」
悔しそうにトサカ頭を抱える烈。私は特に誤解を正そうとは思わない。……いや、別に面倒だったからではなく、「夕里は瞬間移動できる」という認識でいても現実的にあまり差し支えないからだ。夕里はしばしば、あの手の瞬間移動としか思えない動きを見せる。あれは彼女の無数にある小技の一つなのだ。
例えば、今の場面。烈に瞬間移動と言わしめた一連のプレーで夕里はどういう動きをしたか。最初は、ライト方向に乱れたカットをツーで返した。
夕里>ツー
―――ネット―――
輝美・鹿子 世奈
このとき、初期位置であるレフトからライトへ走っていた夕里は、一旦ボールの落下点よりライト側へオーバーランしてから、素早く切り返し、身体を反時計回りに捻って右手でボールを捉えた。そして、そのフェイントを、彰が拾う。
夕里
―――ネット―――
輝美・鹿子 世奈
彰>フライングレシーブ
彰の返球はぴったりとセッターの定位置にいる世奈の頭上へ。ただし、輝美や鹿子のコンビ攻撃を考えると、彰のレシーブは高さが不十分だった。特にミドルブロッカーの鹿子は、あのタイミングだと普通の速攻には間に合わない。つまり、ブロックに跳んだあと、助走のために一度アタックライン付近まで下がるだけの時間的余裕がないのだ。もちろん、それならそれでセッターに向かってネットと平行に踏み込み、移動攻撃の要領で速攻を打てばいい。私はそうするし、鹿子もそうしていた。
しかし、実戦では、レシーブの軌道を見て世奈はすぐツーアタックのモーションに入った。コンビ攻撃をするには高さの足りないレシーブでも、ネットより上に上がっているならツーを打つのに支障はない。そして世奈のツーアタックの威力は輝美のレフト平行や鹿子の速攻に決して劣らない。また何より、レシーブが上がったあの瞬間、夕里はライトにいて、センターの人はネット際におらず、世奈にとって障害となりうるのは150センチ前後のキャプテンさんだけだった。言い換えれば、完全にフリー。ツーをしない理由がない。
だから、世奈はツーを打った。そして夕里がそれをシャットアウトした。
夕里→→→→→夕里>ブロック
―――ネット―――
輝美 鹿子 世奈>ツー
かくして、夕里は瞬間移動としか思えない動きでコートを駆け抜け、世奈を止めたのだ。横断の途中で、世奈に向かって速攻の踏み込みをしていた鹿子を追い抜いていることからも、その速度のほどが伺える。
この瞬間移動。種の理屈そのものはシンプルだ。というのも、あのとき夕里は、自身がツーをするより前から既に、世奈のツーをブロックするための助走を始めていたのだ。
乱れたサーブカットを追うときにわざわざ一度ボールの落下点よりライト側へオーバーランしたのも、わざわざ身体を反転させて利き手と逆の右手でフェイントをしたのも、どちらも着地後にレフトへ向かって駆け出すための予備動作。
さらに細かく見ていけば、ツーを打つときに本気でジャンプしていない(滞空時間を短くしてロスを減らすためだ)とか、ジャンプした時点で重心をレフト側に寄せている(着地後スムーズに走り出すためだ)とか、それと連動して着地は片足だけでしている(これもスムーズに走り出すため)とか、全ての動作が世奈のツーをシャットすることを目指して行われているのがわかる。
やっていることは、本当に単なる小技でしかない。大雑把に言えば「次にどこへ移動するかを考慮に入れてジャンプしているから着地後の動き出しが速い」――ただそれだけ。別に今回初めて見せる必殺技でも何でもない。似たようなことを夕里は中学時代から日常的にやっていた。そういう「上手さ」が持ち味の選手だってことは私たちもみんな知っていた。
いや……でも、知っていた気になっていた、だけなのかもしれない。
私が夕里と県選抜で一緒のチームになったとき、そこには彰と世奈もいた。夕里が小技を多用せずとも、彰や世奈、それに他のメンバーの力があればそれで十分だった。夕里が中心になって動く場面もあるにはあったけれど、それだって今ほどなりふり構わないものではなかった。
こういう形で敵に回して、ようやく、栄夕里の持っていた牙の大きさがわかる。味方のサーブカットが乱れた瞬間にあの結末までの流れを思いつく構成力もそうだが、それを実現してしまう技術力が突き抜けている。大体にして、瞬間移動以前に、あのフェイントが神業そのものなんだ。世奈にツーを打たせるためには程よい軌道のチャンスボールが上がらなければならない。この『程よい軌道のチャンスボール』を彰から引き出すためには同様に程よい位置にフェイントを落とさなければならない。それも輝美と鹿子のブロックという障害を前にして、なおかつ後々のシャットへ向けた予備動作をきっちり行いながら、だ。これを夕里は利き腕ではないほうの手で実行している。まったく尋常じゃない。
本当に、なぜ彼女ほどの選手が獨楢から出ていかなければならなかったのか、と思う。
けれど同時に、彼女ほどの選手だからこそ、獨楢を出ていってよかったのではないか、とも思う。
鶏口牛後とは少し違うけれど、夕里の持ち味を最大限に活かすなら、彰や世奈はかえって近くにいないほうがいいのかもしれない。彰や世奈がその力を存分に発揮している場面では、夕里はきっと埋もれてしまう。逆に夕里が今みたいなプレーを恒常的にしていたら、彰や世奈の存在が霞んでしまう。
……っていうのは、まあ、外野の一意見でしかないけれど。本人たちの思うところはまた違うだろう。それはそれで構わない。ただ、少なくとも、現状、あの三人の思うところは噛み合ってない。そして、それが今、大きな問題となっている。
試合のほうは、夕里が世奈を止めてから、明正学園へとサーブ権が移り、後衛に下がった長身の(恐らく)初心者がサーブを外して、すぐまたこちらへサーブ権が戻ってきたところだった。ローテが回って、彰が前衛に上がる。本来ならエースの前線回帰に沸く場面だが、今は正直、不安しかない。
そして、その不安はすぐに現実のものとなった。
――だんっ!!
デジャヴと表現してもいいだろう。またしても夕里が完璧なシャットアウトを見せた。今度の犠牲者は彰だ。今日一日何本となく決めてきたレフト平行が不発に終わった。この流れでそれはまずいというか……シャットされた主因が彰ではないことが、控え目に言って最悪だった。
スコア、11―9。
こちら同様、明正学園のローテも最初に戻って、夕里とダブルエースが前衛に並ぶ。彼女たちの放つ気迫がこちらまで伝わってくる。夕里はもちろん、ダブルエースの二人も、視線の動きや声掛けといった行動の一つ一つにちゃんと意味を込めているのが見て取れる。たぶん全体か個人かに具体的数値目標が設定してあるんだ。また飢えた狂犬みたいに喰い付いてくるに違いない。
立ち上がりの連続得点――アレは、いわば奇襲みたいなものだった。こっちもスターティングメンバーを変えたばかりで隙があった(あるいは、そういう言い訳の余地があった)。
でも、二度目となるここで同じことが起こるのはいただけない。明正学園にとってあのローテが最強の切り札なら、こちらにとっても、彰と世奈が揃っている今のローテが最強の布陣なのだ。正面衝突して撥ね除けられるようなことがあれば、全体の士気に関わる。その隙を逃す夕里ではない。きっと全力で試合を決めにくる。
あちらのサーバーは、キャプテンさん。明正学園では夕里の次に安定したプレーを見せている。一周前のようなイージーミスは期待できないだろう。
笛が鳴る。キャプテンさんはすぐには打たず、入念にこちらのフォーメーションに弱点がないか探している。澄ました顔のわりにいやらしい――などと思っていると、烈に「なあなあ!」と肩を叩かれた。
「ごめん、烈。今試合から目を離すわけには……」
「いや、違うぞ、由紀! 私じゃなくてだな!」
よくわからないが無視する方向で――と心の中で決めかけたところで、視界の端に烈が声を掛けてきた理由を見つけ、同時に烈の言いたいことを理解した。
ぱしっ、とキャプテンさんがサーブを打つ音。けれど、さすがにこの状況で試合を見続けるわけにはいかない。私は『その人』に振り返った。
「ちょっと……みんなに相談があるんだけれど」
そう切り出したのは、軍場ゆふるさん――今日は私たち新人チームの専属マネージャーとしてサポートしてくれている小柄な先輩が、ベンチを離れて、私たちの目の前に来ていた。
「その、相談というのはなんですか、ゆふるさん?」
町川縫乃が私たちを代表して応じる。ゆふるさんは一重の細い目で私たちを見上げて簡潔に言った。
「この中で、誰か、仮でいいからセッターができる人はいる?」
想定外の質問に、誰も何も返せない。ゆふるさんはそんな私たちを一通り見回して、なぜか与志田天那に向き直る。
「天那、どう?」
ゆふるさんの中では彼女が第一候補だったらしい。私にしてみれば謎の判断基準だったが、すぐに縫乃が「ああ……」と思い出したような声を上げた。
「そうだ、天那ちゃん、小学生のときはセッターもやってたよね」
「いやいや、ぬいちー! あれはセッター違う! ただネット際にいて時々オーバーハンドパスでそれっぽいところにボールを繋ぐだけの人!」
「天那、仮でもいいんだって」
「仮でもいいなら、私はそれこそぬいちーがいいと思います!」
「えっ、わ、私は……でも、ちょっと……」
「わかったよ。たよたよ。ここは間を取って私が」
「あっ! そうだ!!」
天那と縫乃の譲り合いにリベロの薬師寺香華が割り込んだところに、さらに烈が割り込んだ。いや出しゃばるのはやめたほうがいいよ烈……と止めようとしたら、いきなり烈が私に振り返った。満面の笑みで。
「私は由紀がいいと思うぞ! だって由紀は自主練で私によくトスくれるんだ! 打ちやすいぞ!」
あらいやだ! いきなりなんてことを言い出すのかしらこのトサカ頭!
なんて、もちろん口には出さないけど……けどさあ烈あのさあ……。
「由紀」
ゆふるさんが私に目を向けた。その瞳の真剣さにコンマ二秒で観念して、私は無言で頷いた。
「……ありがとう。詳しい指示は村木先生が出すから。一緒に来て」
言って、たっ、と踵を返してベンチへ走るゆふるさん。私は黙ってその後を追う。途中「頑張れー! 由紀!」という底抜けに明るい声援が背後から聞こえた。私は誰にも聞こえない小さな声で、なんだかなぁ、と呟いた。




