4(芹亜) 見たことのない景色
四月。
私立明正学園高校入学式、当日。
突然だけれど、私は、見たことのない景色が好きだ。
知らない道。曲がり角の向こう。降りたことのない駅。高台の上。
初めての景色は、いつだって私を、ふわふわと、魔法にかかったような気分にさせてくれる。
高校でも、そんな、新しい景色を見てみたいと思っている。
具体的には、まだ、全然決めてないのだけれど。
何かしたいって気持ちがあるだけ。
何をしたらいいのかは、わからない。
今の私は、そんな感じ。
「芹亜ー? 何ぐずぐずしてるのー? 早くしなさい」
「はーい」
私は姿見の前から離れ、鞄を持って部屋を出る。もう朝食も着替えも終わって、いつでも出発できる状態だった。ただ、なんとなく忘れ物があるような気がして部屋に戻って、なんだっけと考えているうちに姿見の中の自分と目が合って、ちょっと襟元とか髪の毛とかが気になって、母を待たせてしまっていた。
階下に降りると、母は既に玄関で、靴を履くところだった。その姿を見て、私ははたと気づく。
「あっ、そうだ、財布だ」
「ええっ? なんのために部屋戻ったのよあなた」
「ちょっと待ってて」
つい数分前にも言った台詞を残して、私は降りたばかりの階段を駆け上る。部屋の扉を開けて学習机の上を見ると、財布と携帯が置いてあった。確か、昨日寝る前に、忘れないようにと貴重品をまとめておいたのだ。これで大丈夫――という昨日の安心感が、今日の油断を生んだのである。
それらを鞄の中に詰め込んで、私は階段を駆け降りる。母は腰に手を当ててモデル立ちしていた。
「他に忘れ物はないんでしょうね?」
「うん、大丈夫……たぶん」
曖昧な返事をする私に、母はポーズとしての溜息(うちの母は、実際、そんなに口うるさい方ではない)をついて、形ばかりの苦言を呈する。
「あなたも高校生になったんだから、もっとしゃきっとしなさい、しゃきっと」
「うん」
そんな一幕を経て、私たちは家を出た。
で、それから約十五分後、桜田駅の東西連絡通路に入ったところで私は思い出す。
「あっ……」
「えっ? 今度は何?」
「あ、いや、髪、結んだほうがよかったかなって」
私はさらさらと色の抜けた自分の髪に触れる。中学の頃は短くて、部活を引退してからずっと伸ばしっぱなしだった。今は首を覆って、肩に届くくらいの長さ。見映え的には下ろしていても変ではないが、確か、肩口より長い髪は結ぶようにって注意書きがあったような、なかったような。
「結ぶの? 結ばないの?」
母は目を細めて短く訊く。
「どうしよっかな……」
「というか、あなたヘアゴムは?」
「あっ、持ってない」
母は(たぶん外国語で)小さく呻くと、腕時計を確認した。
「コンビニで買って、あとで自分で適当に結びなさい」
ちなみに、母は私が物心ついたときからショートカットなので、ヘアゴムの類いは持ち歩いてない。
「うん、そうする」
私たちは連絡通路を抜けて、駅の西側に出た。コンビニはすぐ近くにあった。母は私に千円札を渡すと、「一服してくるわ」と喫煙所に行ってしまった。
私はコンビニに入り、とりあえずヘアゴムを籠に確保したあと、母が戻ってくるまでの時間潰しに店内を見て回ることにした。
ぐるっとお菓子やドリンクのコーナーを回って、雑誌売り場の前へ。
そこには、同じ明正の制服を着た、女の子がいた。
チョコレート色の髪に、赤いリボン。可愛い感じの子。私がお店に入ったときからいて、ずっと熱心に何かの雑誌を読んでいる。
何を読んでいるのだろう――さり気なく誌面に目をやってみる。
と、そのとき、入口のほうで誰かが騒ぐ声がした。私がコンビニに入ったときにレジに並んでいた背の高い母娘だ。
見ると、その娘のほう(明正のブレザーを着ているので、たぶん私と同じ新入生)が、知り合いらしい誰か(やっぱり同じ明正の制服姿の女の子)と言い争いをしていた。
二人は、そのまま、学校のある方向へともの凄い勢いで歩き始めた。そのあとを、二人の親御さんが慌ててついていく。
……なんだったのだろう?
雑誌を読んでいたチョコレート色の髪の子も、彼女たちのことが気になったのだろう、雑誌を置いて、コンビニを出ていった。
私も彼女たちのことは気になった。けれど、ヘアゴムの会計がまだだし、母も戻ってきてないし、なにより彼女が棚に戻した雑誌がとても気になっていたので、その場に残った。
そして、私はチョコレート色の髪の子が読んでいた雑誌を、手に取った。
「……月刊……バレーボール……?」
雑誌の名前を口に出してみる。
バレーボールのユニフォームを着た人たちが表紙に映っている。見出しからすると、たぶんトッププロの選手。
ぱらっ、とページをめくってみる。
それは、ちょうど、さっきのチョコレート色の髪の子が読んでいたページ。
『高校バレー界の〝女王〟、ユースへの誘いを拒否!?』
そんなタイトルの記事だった。
カラー写真があったので、その〝女王〟をよく見てみる。背が高くて、凛々しくて、緋色のユニフォームを着た人だった。
『私には、この北鳴谷で成さねばならないことがあります』
その人の名前は、九条綺真。
『それを遂げるまでは、今のチームを大切にしたいと考えています』
ふっ――、
と、胸の中に何かが芽生えた気がした。
私は雑誌を閉じて、表紙をもう一度見てみる。
選手の人が持っている、黄色と青に彩られたボール。
「……バレーボール……」
体育の授業で習ったから、ルールは知っている。たまに世界大会がテレビで放送されているのを目にしたこともある。じっくり見たことはないけれど。
私はもう一度、本を開く。さっきと同じページ。私と一つしか年の違わない〝女王〟の姿。
そして、私はそのままその雑誌を持って、レジへと向かった。
※実際の『月刊バレーボール』は、恐らくコンビニには置いていません。
*
登場人物の平均身長(第五章):165.6cm




