◆首締め事件(後)
後編は昼の12時に投稿すると言ったな?あれは嘘だ…
ハッピーエイプリルフール!
(……静かだ)
ほかの孤児たちが全員、短期奉公や買い出しで出払った昼下がり、ブルーノはぼんやりと、日当たりのよい広間の床に寝そべっていた。
広間にある暖炉は、この冬にあってもまだ火を入れられないが、古ガラスから射し込む陽光のおかげで、まだなんとか、人が凌げる寒さに留まっている。
しん、と、針の落ちる音さえ聞こえそうな静けさの中、ブルーノはぼんやりと、天井を見つめた。
(静かだ)
口論のあった日から、もう十日近く。
レオはブルーノと口を利かないどころか、なにかにつけ、姿を隠すようになった。
それまでは買い出しも食事も一緒だったというのに、巧みに時間をずらして、一緒にならないようにする。
そしてその時間、エミーリオたちにひそひそと耳打ちしては、ちらりとブルーノを見てほくそ笑むのだ。
時には、わざわざブルーノを撒いてまで、エミーリオたちと小部屋に籠もり、何事か話し込んでいる様子もあった。
最初は金儲けの算段でもしているのだろうと、ブルーノは自身に言い聞かせた。
だが、徐々に日数が長引き、レオがこちらに向ける一瞥に、苛立ちが混ざるようになると、さすがにそうも思えなくなった。
ブルーノは間違いなく、避けられていた。
敬虔な精霊教徒であるエランド人は、基本的に静寂を好み、礼節を持って人と接する。
だから、孤児院に移ってから始終悩まされていた、わめき声や笑い声といった騒音から解放され、周囲と距離を取っているこの状況は、ブルーノにとって快適なはずだった。
(いや……)
ごろ、と寝返りを打って、ブルーノは胸の内で否定する。
精霊教の徒として、嘘は避けよう。
彼は、この異様なまでの静けさを、持て余していた。
(知らぬうちにずいぶん、軟弱者になったものだな)
レオが傍にいないこの日々で、ブルーノはその事実を痛感していた。
たとえば、市場に買い出しに行くとき。
たとえば、教会にパンの配給をもらいに行くとき。
食事するとき、道を歩くとき、要は、生活のあらゆる場面で。
ブルーノはレオと一緒にいることで、ずいぶんの悪意や敵意から守られていたようだ。
日に焼けた浅黒い肌、真っ黒な瞳は、フードを被ってなお、この国では目立つ。
だがレオが隣にいれば、人々は陽気な彼の雰囲気に引っ張られ、ブルーノのことを「顔の広いレオの、異国の友人」としか見なかった。
寡黙な雰囲気も、ぎこちないヴァイツ語も、ぺらぺらとセールストークを繰り広げるレオが隣にいれば、まったく問題とはされなかった。
だが、レオたちから離れ、一人で道を歩いた途端にどうだ。
人々は、ブルーノの風貌にぎょっと振り返り、警戒心を滲ませて姿を追う。
これまで遠慮していたのだろう、悪意ある囁きや小声の野次も、次第に大きく、そして多くなってきた。
これまでに積み重ねてきた「狩り」のせいで、ブルーノに向けられる視線はただでさえ敵対的なものが多い。
レオという、脳天気にへらへら笑っている存在を失った今、彼に笑みを向けるものなど、誰もいなかった。
惜しみなく注がれるものがあるとしたらそれは、恨みと、罵倒だけ。
そうだ、今朝は寒さに耐えかねて、朝日を求めて外に出たら、以前伸した商人の用心棒に狙われたっけ。
一撃でやり返しはしたが――なんだか、とても疲れた。
(寒い)
日向に寝転がっているはずなのに、一向に体が温まらなくて、ブルーノは顔を顰めた。
温まっている床を探り、横たわったまま掌を緩慢に滑らせる。
だが、その手がすっかり血に染まっているように見えて、そのまま目を閉じた。
泥のように、疲れが全身を覆っている。
(この国は寒すぎる)
かつて、ブルーノはこの国で生きていくことを選んだのだ。
ささやかな居場所を勝ち取って、そこで得た「友人」とやらのために、闇の精霊に身を捧げた。
後悔なんてない。
だって、必要なことだった。
誇らしいことのはずだった。
ああ――だが、ずっとこうやって、自分は暗がりで過ごしていくのだろうか。
誰からも敵愾心を向けられ、ずっと「よそ者」のまま。
血に狂ったように人を襲い、恨んだ人によって襲われる。それを繰り返し。
守るためにブルーノがすべてを懸けた存在は、たった一度、ボタンを掛け違えただけで、あっさりブルーノを見捨てる。
あの、よそよそしい態度――。
全身がゆっくりと床に沈んでいく。
このままでは悪夢を見るな、と、すでに夢うつつで思った、そのときだ。
「たっだいまー。って、あれ……」
なじみの声の持ち主が、無遠慮に扉を開けて踏み入ってきて、ブルーノは咄嗟に身を強ばらせた。
広間にやって来たのは、レオだった。
「レオにいちゃーん? 入らないの? さむいよー」
「しーっ。今ブルーノ寝てっから」
レオの背後には、エミーリオたちも一緒らしい。
眠気など瞬時に吹き飛んでいたが、この状況でどう身を起こしていいかわからず、ブルーノはレオたちに背を向けたまま、寝たふりを続ける。
すると、あれだけブルーノを避け続けていた一行は、忍び足で近付いて、こちらを覗き込んできた。
「ねてる? ゆかで?」
「うん、ねてる、ねてる。ぐっすり」
「ふはは、なんて無防備な姿だ。こいつぁ……来ちまったな、千載一遇のチャンスってやつが」
狸寝入りを見破ることのできない素人たちは、ブルーノが熟睡しているものとあっさり決め込んだようだ。
(チャンス?)
目を閉じたまま、ブルーノが怪訝に思っていると、レオが予想も付かない行動に出た。
「エミーリオ、あれを」
「イエッサー!」
弟分に何事か指示し――なんと、ブルーノの首に手を差し入れてきたのである。
(…………!?)
首に、紐のようなものが巻き付けられようとしている。
それを悟るや、ブルーノは本能のまま、レオの腕を払いのけそうになった。
だが、
「やれやれ、こいつ、隙がちっともないんだもん。ようやく一泡吹かせられると思うと、笑いが止まらねえなあ」
レオの心底愉快そうな呟きを聞き取ると、心臓がすっと冷えた心地がして、全身から力が抜けてしまった。
(殺すのか)
首を絞めるといったら、そうとしか思えない。
体格でも武技でも敵わないから、レオはずっとこうして、ブルーノが隙を見せる瞬間を待ち構えていたのだろう。
レオは、ブルーノのことを、絞め殺そうとしているのだ。
(たった一度、楯突いただけで)
思わず、乾いた笑いが漏れそうになった。
彼の大事な弟分たちを、たった一度「みすぼらしい孤児」と罵っただけで。
たった一度、ぼろきれのようなセーターを断っただけで。ブルーノはレオの仲間ではなくなってしまった。
それとも、「狩り」を繰り返すブルーノを恨んだ誰かから、寝首を掻いてくれと金でももらったのだろうか。
(馬鹿馬鹿しい)
く、と細い紐が首に食い込むのを感じながら、ブルーノはじっとその場に横たわり続けた。
なにもかもが、馬鹿馬鹿しかった。
こんな紐では、窒息するまでにずいぶん掛かるだろうが、もういい。
もういやだ。
ずっと、この暗がりで、寒い思いをしつづけるくらいなら、今、彼の手に掛かり、果ててしまいたい――。
「いよーし、首回りの数字ゲットォ!」
だが、その瞬間、紐がするりと解かれ、押し殺した歓声が響いたので、ブルーノは硬直してしまった。
(……は?)
薄目を開けたブルーノには気付かず、レオとエミーリオたちは喜びの囁きを交わし合っている。
「見ろよ、案の定こいつの首、めっちゃ太いぜ! 普通のサイズじゃ窒息するって。ほらほら、俺の目ってたしかだろ? 浅黒いから引き締まって見えるけど、こいつ太いんだよ、基本的にさあ」
「頭のはちの大きさもはからなきゃ、レオにいちゃん。セーターをかぶるときは、けっきょく、そこでしょ?」
「かおは小さいんだよね……みとめたくないけど。脳みそ少ないって思えばいっか」
三人は好き勝手に言い、今度はブルーノの頭を持ち上げようとする。
そこで呆然としていたブルーノと目が合うと、「うひゃああああ!?」と大げさな悲鳴を上げて、揃って尻餅をついた。
「ブ、ブルブル、ブルーノ! おまえ、起きてたのかよ!」
「……首に紐を巻き付けられて、寝続けられるほうが、どうかしている」
首をさすりながら起き上がり、ブルーノはまっすぐに、レオを見つめた。
「なにをしていた?」
「へっ!?」
久々に言葉を交わしたレオは、不自然な角度に視線を泳がせ、わざとらしすぎる口笛を吹き始めた。
「えっ、あ、いやー。そのー。疲れて寝てるようだったから、最新の健康法を試してやってた? みたいな?」
「健康法」
「そうそう。ほら、首絞め健康法っつーんだけど。かの有名な」
この少年は、こと金儲けが絡まない限り、致命的に嘘が下手だ。
ブルーノが、その黒い瞳でじっと見つめ続けていると、レオは天井を見つめ、壁を見つめ、やがて床に向かってうなだれた。
「……さーせん。採寸してました」
「採寸」
ぽつりと呟いたのは、驚きが勝ちすぎたからだ。
だが、子どもたちはそれを、疑いによるものと思ったらしく、粛々とした表情で、「この通りです」と、背後からあるものを取り出した。
粗末な布に包まれていたのは、編みかけのセーターだ。
身頃は複数の色の糸で丁寧に編み上げられ、襟ぐりだけが、糸がほどけたままになっていた。
「これは……?」
「劇的ビフォーアフターセーター。よれっよれの古着から、きれいな部分だけ集めて、編み合わせたんだ。言っとくけど、普通の編み方とは全然違えし、めっちゃすげえ技術がいるんだからな?」
レオいわく、これを作るには、全国から集められた汚古着から、ほんの一部しか取れない希少部位を集め、ときにすべての糸をほどいて編み直すという、凄まじい作業が発生するらしい。
「本当は、早々に襟回りの情報を知りたかったんだけど、おまえって全然隙がないし」
「……聞いてくれれば」
「なーんでサプライズプレゼントを、こっちからゲロんなきゃなんねえんだよ! おまえ、撒いても撒いてもすぐに背後を取るから、俺たちがどれだけ苦労してこいつを隠してきたか、わかるか!?」
「ぼくは、結構たのしかったけどー」
レオがぷりぷり怒った風に叫べば、エミーリオたちはきゃらきゃらと笑う。
「サプライズ、プレゼント」
「あ、意味わかる? 相手をびっくりさせるために、直前まで隠して渡す贈り物」
呆然としたブルーノをどう取ったのか、レオは端的に説明し、隠すことは諦めたのか、堂々と採寸を始めた。
紐をぴんと張って、肩や腕に這わせ、あちこちに結び目を付けていく。
「ま、もうバレちまった今、単なるプレゼントになっちまったな!」
目測で編んでいた寸と大差なかったのか、彼は満足げに頷き、ぽんとブルーノの肩を叩いた。
「数日以内に、超あったかい無料セーターをやるから、一生感謝しろよ!」
「…………」
「そいつを着りゃ、おまえの考えも変わるさ」
いちどきにいろいろな感情が浮かびすぎて、ブルーノはつい、途方に暮れたような声を出してしまった。
「考えが、変わる?」
「そー。羊毛、それも等級の低いやつは、そりゃ獣臭えよ。でもな、めっちゃ温かいんだ」
にかっと笑うレオに、やはりブルーノはこう呟くしかできなかった。
「……は?」
「一度着ちまえば、精霊教ガチ勢だって、羊を見るたびに、毛を狙って襲いかかりたくなるって。保証する!」
そこでようやく、レオの言う「考えが変わる」というのが、どの発言を指しているのかを理解した。
――羊毛がなんだ。獣臭いだけだ。
――今の、撤回しろよ。おまえがそういう態度なら、こっちにも考えがあるんだからな。
どうやら、彼は、ブルーノの羊毛を蔑む発言を撤回してほしかったようだ。
羊毛のよさを理解させるために、セーターを用意した。
ブルーノに隠し通してまで。
(……そこなのか?)
レオの相変わらずすっとぼけた価値観に、ブルーノはがくりとその場に崩れ落ちそうになった。
あの剣呑なやり取りの中、彼の記憶に最も残ったフレーズは、そこなのか。
だが、編みかけのセーターを掲げながら、レオが付け足した言葉を聞き、ブルーノは言葉を失った。
「お望み通り、おまえのために仕立てられた、清潔な部分だけ集めた服だぜ」
「…………!」
思わず顔を上げたブルーノに、レオは悪戯っぽく笑いかけた。
「そりゃあさ。孤児たちでお揃いのセーターって、嫌かもしんねえよ。でも仕方ねえじゃん、材料が一緒なんだもん。コスパのよさに興奮して過ごそうよ、そこはさ」
袖の長さを確かめるため、セーターの一部を押し当ててくる。
初めて触れる羊毛は、うっとりするほど温かかった。
「そりゃ、孤児はみーんな、はぐれ者だよ。理不尽に厄介がられて、ちょっと寄付をもらうだけで逆恨みなんかもされて、臭い臭いって言われてさ。たしかに、みすぼらしい」
羊毛は、エランドで慣れ親しんだ綿や麻に比べれば、奇妙な匂いがした。
けれど、間違いなく、寒さに凍えるブルーノの体を、優しく包み込もうとしていた。
レオは小さく、「似合う」と呟くと、重大な秘密を告げるように笑った。
「これ、俺たちみんなとお揃いだからな」
この温かさを知ったブルーノにはもう、セーターを撥ねのけることなど、できなかった。
レオは少しだけ悩んだように唇を歪めると、小さな声でこう続けた。
「おまえって、いつも寒そう。そんな寒がりが、一緒にするな、なんて言うなよ。一緒のほうが、あったかいじゃんか」
その瞬間、レオが一番なにを気にしていたのか、理解した。
――みすぼらしい孤児と、一緒にしないでくれ。
吐き捨てた言葉の「みすぼらしい孤児」ではなく、「一緒にするな」という部分。
レオはただ、ブルーノの拒絶こそを、撤回させたかったのだ。
「…………」
ブルーノは、押し当てられたセーターの身頃を、無言で握り締めた。
脳裏には再び、闇の精霊の予言が蘇っていた。
――おまえ、ろくな死に方はせぬよ。恐怖と、嫌悪と、恨みにまみれ、汚らわしい獣の臭いをまとって、静寂とはかけ離れた終焉を迎えるだろうよ。
(ああ、そうだな)
きっとブルーノは、潔癖な精霊から見れば、ろくな死に方はしないだろう。
孤児仲間として、市民からは嫌悪を向けられる。
伸した相手からは、恐怖と、恨みをぶつけられて。
汚らわしい獣の臭いだってまとっていることだろう。
けれどそれは、仲間の思いのこもった、温かなセーターだ。
そうして、絶えず笑い声と、喧噪を周囲に伴って、寒さや静けさとはかけ離れた終焉を迎える。
(きっと、大往生だ)
心から、そう信じられた。
「レオ」
じわりと、心臓に灯る炎。
人はこれを、なんと呼ぶのだろう。
寒い冬、どこまでも続く暗がりでも、これをよすがに歩いて行けると――そう人に信じさせる、この温もりを。
「……あたたかい」
ブルーノは、ただ一言、そう告げた。
すると、レオは、エミーリオは、アンネは、びっくりしたように目を見開き、それからみるみる、得意げな顔になる。
「だっろー!?」
こうして、レオによる「首絞め事件」は、温かな結末を迎えたのだった――。
「ほぉーん」
懐かしい思い出を話し終えたとき、レーナは塀の上で、げんなりとした様子で頬杖をついていた。
「なによ、首を絞められたとかいうから、どんなわくわくする修羅場話かと思えば……甘ったるい友情話を披露されただけとか。どんな拷問よこれ」
「ちなみに、今俺がこのローブの下に着ているセーターは、昨年のレオの作だ。温かくてな」
「聞いちゃねえわ」
「レオのやつ、初年にこっそり採寸できなかったのが地味に悔しかったらしくて、冬前になるといつも、寝ている隙を突いて、首に紐を巻き付けようとするんだ」
レーナのドスの利いたツッコミをさらりと受け流し、ブルーノはわずかな笑みを含んだ声で続けた。
「こちらも寝たふりをするんだが、いつも途中で、やつが見抜いてしまう。まったく、茶番に付き合うのも大変だ」
巷ではそれを、自慢、と呼ぶのかもしれない。
無表情だが――明らかにまとう空気の緩んだブルーノに、レーナは「おええ」と舌を出した。
「はいはい、よかったですねえ。一生言ってれば?」
「そうだ、レーナ。聖堂に大量の毛糸が寄付されているだろう。あれをレオに横流しすればいい。きっとレオは嬉々として、おまえまで含めてお揃いのセーターを編んでくれるぞ」
「いらないわよ、お揃いなんて!」
レーナはカッとなって、塀をばしんと叩いた。
が、桶水を拭き取ったブルーノは、小さく肩を竦めるだけだ。
「そうか。残念。皇室御用達の毛糸ならさぞ温かいだろうに」
「お揃い、っていう友情ごっこがお寒いって言ってんの! ああもう! 見てよ、今鳥肌が立ったわ!」
ほら! とまくった腕を突き出すレーナに、ブルーノは愉快そうに片方の眉を上げ、「可哀想にな」と嘯いた。
「俺はちっとも寒くない」
真っ黒な瞳が、リヒエルトの夜を見据える。
青ざめた月、あちこちでうごめく闇、いつまでも渦巻く怨嗟、絶えぬ喧噪。
血と、戦。
ブルーノの、生きる場所。
「なにせ、冬が近付くたびに、首を絞めてくる仲間がいるからな」
泥臭くも、温かで、賑やかな――ブルーノの居場所。
「……ふん。暑苦しいこと」
忌々しげに毒づくレーナに、思わず小さく笑ってから、ブルーノは孤児院へと、踵を返した。
寒々しさとは無縁の、彼の家へと。




