◆首締め事件(前)
時系列としては、本編完結後(レオノーラ出家後)のブルーノ&レーナのやりとり、
からの、レオたちが苦しんだ飢饉の翌年です。
ブルーノの「狩り」は、最近では夜に限ることにしている。
そのほうが動きやすいし、かつ、返り血を浴びた姿を、周囲――つまりは、孤児院の仲間たちに目撃されにくいからだ。
初冬の凍えるような寒さをやり過ごし、裏庭に汲んでおいた桶水で、体をすすぐ。
リヒエルトに移住して、もう十年近くの歳月が経とうとしていたが、相変わらずこの、水の冷たさには顔を顰めてしまった。
寒いのは、嫌いだ。
「寒々しい光景だこと」
と、不意に、裏庭の奥にある塀から、つんとした少女の声が掛かる。
とっくに気配を察知していたブルーノは、慌てることなく振り返った。
青い月光が降り注ぐ夜、塀に腰掛けてぶらぶらと足を揺らしていたのは、レーナであった。
いや、塀の向こうの聖堂では、レオノーラ・フォン・ハーケンベルグとして認識されているのであったが。
「それが例の、闇の精霊に血を捧げる儀式? 想像以上に派手にやるのね。塀のこっち側まで血臭がする」
艶やかな黒髪に白い肌、紫水晶を嵌め込んだような瞳。ほっそりとした体を月光に浮かばせた彼女は、まるで精霊のような美しさだ。
だがブルーノが思うに、彼女が「レオノーラ」として学院にいたときに比べれば、その表情に神聖さはない。
どちらかと言えば、攻撃的な知性や、皮肉っぽい感情のほうが伝わってくる。
ひとえに、中身の違いだろう。
そう。入れ替わりの解消後、レーナは、それまでレオが演じてきた「レオノーラ」を引き継いで、聖堂暮らしをしているのであった。
引きこもり気質の彼女には最高の生活だそうだが、それでも時々暇を持て余すと、こうやって、塀を乗り越えてこちらの孤児院に遊びに来る。
それで、元の姿を取り戻したレオときゃんきゃんやり合って、満足して戻っていくという寸法であった。
おおかた彼女は、深夜の侵入を試みたところだったのだろう。
「ねえ。あなたがそうやって闇の精霊に尽くすのって、レオのせいなわけでしょ? よくやるわね。あんなポンコツ馬鹿のために。後悔しない? 私ならするわね。今日、あいつごときのために二時間待ちぼうけを食らったのすら許せないもの」
いや、それとも、侵入したのに空振りを食らって、不機嫌で帰るところだったのかもしれない。
レーナは、日頃レオを馬鹿にしきっている癖に、構ってもらえないとひどく動揺する、そんな性格だから。
「……残念だったな、いそいそ遊びに来たのに、あいつに振られて。レオは内職の賃上げ交渉のために、明日まで留守だ」
「なっ! べ、べつに、いそいそなんてしてないし、残念でもないわよ!」
ブルーノが淡々と声を掛けると、図星だったのか、レーナは声を裏返らせた。
それから、ばつの悪さを攻撃性にすり替えたのだろう。
つんと顎を上げて、意地悪な視線でブルーノのことを上から下まで見回した。
「っていうか……見れば見るほどひどい格好。健気よねえ。友情のために、自らを血に染めるなんて。愉快な人生だことね、ブルドゥル・ノーリウス・アル・エランド? レオがあなたを褒めてくれるわけではないのに」
ブルーノを真の名で呼ぶ彼女は、その過去を知っている。
かつて命を落としかけたレオを救うために、ブルーノが闇の精霊の愛し子となったことを。
血と禍々しさを好む精霊のために、時々暴力行為を働いては、「それ」を精霊に捧げていることを。
――そんな日々が、死ぬまでずっと続くことを。
「……ああ」
かつての自分であれば、こんな挑発を受けたら、相手の首をへし折っていただろうなと、ブルーノは少しおかしく思った。
同時に、おかしく思える自分のことを、感慨深く思った。
「そうだな。闇の精霊からも、ろくな死に方はしないと予言されている」
「……本気? なのに、そうまでしてレオに尽くすの? 見返りもなしに?」
「見返りか。そういえば、レオには礼を言われるどころか、首を絞められたこともあったな」
ふと懐かしい思い出が込み上げて、ブルーノはぽつりと呟く。
「く、首を……!?」
レーナがぎょっとした様子なのが、おかしかった。
「そう、首を」
ブルーノは、この記憶を思い出すとき、いつもしてしまうように、かすかな笑みを閃かせた。
「あれは……飢饉と病が去った、翌年の冬のことだった」
その日、ブルーノは苛立っていた。
べつに珍しいことではない。冬になると、彼は大抵そんな調子だった。
とにかくこの国の冬というのは、寒すぎるのだ。
冷えた体は動きが悪い。寒い。
孤児院は相変わらず食料も少ない。寒い。
友人のレオは今日もがめつい。寒い。
闇の精霊は飢えた雛鳥のように、なにかにつけては「血を寄越せ」と訴えてくる。
今日はとうとうその声に負けて、手頃な男を数人血祭りに上げてきたところだった。
数日前に、ハンナに不当な請求を寄越してきた、柄の悪い商人だ。ちょうどよかった。
殴る相手としては申し分なかったのだが、しかし、タイミングが悪かった。
物陰に引きずり込んで、立てなくなるまで伸してやったのはよいものの、返り血を浴びた姿で孤児院に戻らねばならなかったのだ。
初冬の穏やかな日差しが降り注ぐ往来を、血だらけの異国人が歩くのは、大層注目を集める光景だった。
遠巻きにした人々の、恐怖を宿した視線。
ブルーノの歩みに呼応するように、次々と鎧戸の落とされる窓。
寒い。
――のう、ノーリウスの末裔よ。帰り道のことも考えずに、流血沙汰に手を染めるとは、ひひ、おまえもだいぶ、血に酔いはじめたようだのう。
道の暗がりから、腰の曲がった老人が、欠けた歯を見せてにやりと笑った。
皺の寄った醜い老人。
彼こそ、ブルーノが血と怨嗟を捧げている闇の精霊だ。
――よいぞ。実によい。そのまま、血に狂ってゆけばよい。なあ、ブルドゥル。ノーリウスの末裔よ。予言するが、おまえ、ろくな死に方はせぬよ。可哀想になあ。
先ほど伸した男たちの血で、彼は満腹であるらしい。
上機嫌に体を揺らし、目には黒い炎を愉快げに踊らせていた。
――おまえはこんなに頑張っているのに、誰からもそれを感謝されぬ。おまえは、恐怖と、嫌悪と、恨みにまみれ、汚らわしい獣の臭いをまとって、静寂とはかけ離れた終焉を迎えるだろうよ。
「うるさい」
ブルーノは低く呟き、孤児院に引き返す足取りを速めた。
後悔なんてしていない。
あのときレオを助けるのは、自分のためにも必要なことだったのだから。
――覚えておくがよい。おまえの居場所は、光溢れる土地にはない。わしが、わしだけが、暗がりでおまえを抱きしめてやれるのだからなあ。
「黙れ」
孤児院の門が見えてくると、その軒先で、大量の古着を選別している少年たちが、こちらに気付いて顔を上げた。
「おう、ブルーノ、お帰りぃ! なあなあ、笑えるくらいの、過去最高にきったねえ古着を寄付されたんだけど、おまえどれかいる?」
気安い表情で、真っ先に手を振ってきたのは、レオだ。
だが彼は、目深に被ったフードの内側で、ブルーノが血まみれになっているのを見て取ると、げんなりしたように口を引き攣らせた。
「おいおい……また血まみれかよ、このトラブルーノ……」
首の裏に片手を当てて、「たはー」と息を吐く彼は、まるでブルーノが、血を見ずにはいられない戦闘狂とでも思っているようだ。
「勘弁してくれよなあ。おまえが荒ブルーノするたびに、ご近所さんはブルブルーノしちゃって、巡り巡って院長が昂ブルーノで俺の小遣い及び懐もブルブルーノなんだわ」
風が吹けばなんとやらってやつなんだぞ、と得意げに人差し指を立てるレオは、周囲の弟分たちがブルーノに向ける表情に気付いていない。
恐怖と警戒心、そして敵愾心に満ちた、表情に。
「いいか、喧嘩ってのは体力を使う。これってつまり、巡り巡ってカネが掛かるってことだ。喧嘩なんかにカネを掛ける暇があるなら、その時間、俺と一緒に内職でも――」
「レオにいちゃん」
なんの気なしに、ブルーノに向かって手を差し伸べようとしたレオを、傍らのエミーリオたちが遮った。
「それより、古着をはやくえらんじゃおうよ。はやいもの勝ちでしょ?」
「あ、これってちゃんと羊毛だわ。わたしこれがいい。レオにいちゃんとおそろい!」
院長ハンナは子どもたちにげんこつを落とすが、基本的に非暴力の教えを貫いている。
そのせいか、年少組は特に、流血沙汰を起こすブルーノに対して強い忌避感を抱いているようだ。
あどけない瞳には、血まみれのブルーノに対する軽蔑と、嫌悪が浮かんでいた。
(べつに、こいつらに嫌われたところで、なんてことない)
ブルーノは心底そう思う。
誰に嫌われたところで、爪弾きにあったところで、命には関わらないのだから。
「んー、まあ、でもおまえらには大きすぎんじゃね? ブルーノに譲れよ。こいつ、寒がりのくせに、ろくな冬着を持ってねえんだから」
レオははしっこい鳶色の瞳を瞬かせ、そんなことを言う。
「喧嘩ですぐ服を破いちまうんだぜ。まったく、カネばっか掛かる、恐ろしい所業をする男だぜ!」
ぶるぶる、と大げさに震えてみせたレオに、なぜだかその瞬間、猛烈な怒りが湧き上がった。
誰のために。
いったい、誰のせいで。
だがすぐ、その考えを打ち消す。
レオは、こちらの事情を知らない。
すべては、ブルーノが勝手にしたことだ。
「ってわけでブルーノ、このセーターはおまえにやろう――」
「いらない」
怒りは打ち消したはずだったが、答える声は硬くなってしまった。
レオの陽気な瞳に、ごく一瞬、戸惑いの色が浮かぶ。
ささくれだった気配に敏感な子どもたちは、すぐにブルーノに食ってかかった。
「なんだそれ、かーんじわるっ」
「いっつもボソッとしか話さないよねー。いつになったらヴァイツ語を覚えるわけ?」
他愛もない悪口だ。
普段なら気にも留めない。
だがその日、ブルーノは疲れ切っていた。
リヒエルトの冬は寒かった。
「まあまあ、いいじゃんか。ブルーノがいつまでもエランド語を覚えてくれてるから、俺はエランド語のエロ本翻訳で稼げてるんだぜ? 金ヅルーノに敬意を払えって」
「でもレオにいちゃん、こいつ、きもち悪いよ。無ひょうじょうだし、だまってるし」
「私、いっしょにいたくなーい」
子どもたちの発言は単純で、いつも残酷だ。
中間地帯を持たない、好悪のはっきりした物言いは、ただでさえささくれだったブルーノの心を、ざらりと撫で上げた。
さりげなく、レオを一部に含んで円陣を描くように、こちらに背を向けた立ち姿。
彼らが無意識に意図するところは明らかだ。
“入ってくるな”。
(うるさい)
耳の奥で、また闇の精霊の笑い声が聞こえた気がして、ブルーノは内心で毒づいた。
べつに、彼らに排除されたところで、痛くも痒くもない。
レオ当人に、こちらの献身を感謝されなくたって。
「ねーレオにいちゃん。このセーター、ぼくがもらってもいいでしょ? ぼくも、レオにいちゃんとお揃いがいいー!」
「いやいや、だから背丈を考えろって。これはブルーノ――」
「やだ! こいつにあげても、どうせすぐ、血まみれにされちゃうよ」
これからずっと、血みどろの日々を過ごすことになったって。
どうせ元から、人の体を蹂躙することには慣れていた。
得意でもあった。
――だからといって、好きというわけでは、なかったけれど。
「ねーねー。いいでしょ? 汚れはひどいけど、これ、絶対あったかいもん」
「おまえの泣き落としはレベルが高いが、無料である限り俺には通用しねえからな、エミーリオ。ブルーノだって、セーターの一枚もなきゃ、可哀想だろうが――」
「いらない」
可哀想、の言葉を聞いた瞬間、ブルーノはレオを遮っていた。
全身を、恥辱と怒りが貫く。
なにもかもに、うんざりしていた。
「誰が、そんな、臭いセーターなど、欲しがるものか」
そう、うんざりだ。
戦闘行為に明け暮れるのも、誰かに支配されるのも。
理不尽な敵意を向けられるのも、騒ぎ立てられるのも、孤児から――レオ当人から見下されるのも。
「お揃い? 泥臭い友情になんか、浸りたくもない。羊毛がなんだ。獣臭いだけだ」
「おいおい、そこまで言わなくたっていいじゃんか。そりゃ、精霊教ガチ勢からすりゃ、羊の毛はアウトかもしれないけど」
レオがむっとしたように、そばかすの散った鼻に皺を寄せる。
その表情に、ますます苛立ちが募った。
「精霊教徒でなくても、そんな薄汚れた古着、誰が着るものか。エランドで俺は、俺のために仕立てられた、清潔な服を着ていた」
「はあああ!? なんだよそれ、金もちじまん!? かんっじわる!」
「レオにいちゃん、こいつ、むかつくー!」
エミーリオたちがいきり立つ。
ブルーノはべつに、金持ち自慢をしたいわけではなかった。
ただ、向こうから排除される前に、こちらから相手を切り捨ててしまいたかったのだ。
自分は彼らとは違う。自分は彼らが嫌いだ。
だから、自分が相手を捨てる。
エミーリオたちが、ではない。ブルーノが。
そうとも。
いつまで経ってもよそ者でいつづけることに、傷付いてなんていない――。
「みすぼらしい孤児と、一緒に、しないでくれ」
ブルーノが睨みつけると、エミーリオたちのあどけない瞳に浮かんでいた憎しみもまた、色が深まるように見えた。
舌っ足らずな罵倒にも、次第に、本物の憎悪が滲みはじめている。
それを聞きながら、ブルーノはぼんやりと、闇の精霊の予言を思い出した。
――おまえ、ろくな死に方はせぬよ。恐怖と、嫌悪と、恨みにまみれ、汚らわしい獣の臭いをまとって、静寂とはかけ離れた終焉を迎えるだろうよ。
きっとその発言は、正しいのだろうなと思う。
ブルーノはよそ者だ。
孤児院の仲間のために、こんなに尽くしてさえ、周囲は永遠に、恐怖と嫌悪を向け続ける。
「ブルーノ。今の、撤回しろよ」
ふと、レオが静かに切り出した。
いつもの騒がしい話し方とは打って変わり、真剣そのものの様子だった。
弟分のエミーリオたちを、あるいは自分自身を「みすぼらしい孤児」と呼ばれたことに、腹を立てたのだろう。
彼とエミーリオたちの間に横たわる、たしかな絆がまた、腹立たしかった。
「……撤回など、するものか」
「あっそ。おまえがそういう態度なら、こっちにも考えがあるんだからな」
ブルーノが顔を背けると、レオはいよいよ口調を荒らげて、くるりと踵を返した。
「ばーかばーか、馬鹿ブルーノ。今に見てやがれ! エミーリオ、アンネ、行くぞ! 作戦会議だ! でもその前に、東市でタイムセールがあるからダッシュだ!」
そうして、彼らはちゃっかり好みの古着だけを抜き取って、足音も高らかに走り去ってしまった。
去り際のレオの口調が意外に朗らかだったことに、ブルーノは密かに――自分ではけっして認めなかったが――安堵していた。
金以外には興味を示さないレオのことだ。
侮辱程度、少々腹を立てたところで、一晩経てば、けろりとしているだろう。
それで、やれエランド語の卑猥な訳し方を教えろだの、俺って肉はよく焼き派なんだけど焦げると途端にアウトなんだよねだの、どうでもいいことをぺらぺら話しながら、まとわりついてくるはず。
その頃には、血にまみれたせいで荒れてしまった心も落ち着いて、きっと寒さもほんの少し和らいで――とにかく、今日よりはましな状況になるはずだった。
だが、その日以降、レオとエミーリオたちは、あからさまにブルーノを避けるようになった。
長くなってしまったので分割!
続きはお昼の12時に^^




