◆たったひとつの贈り物(後)
(……っぶねーーー! 感じ悪く振る舞えってレーナの指令、完っ璧忘れてた!)
一方その頃のレオと言えば、差し出されたチョコレートを前に、どっと冷や汗を掻いていた。
ここまでは、エミーリアの放った「値引き」の言葉に我を忘れ、完全に商人モードがオンになってしまっていたが、今になってようやく理性を取り戻したのである。
というのも、ちょうど去年の今ごろ、還俗を終えチョコレートの土産を持ち帰ったレオに、レーナがこう言ったのを思い出したからだ。
あんたね、そんな愛想振りまいて贈り物を受け取りまくって、どうするのよ、と。
(感じ悪く断る、感じ悪く断る、感じ悪く断る……)
たしかに、この数年というもの、贈り物を受け取るたびに自分が大はしゃぎするものだから、翌年には一層もてなしが過剰になる、というサイクルを繰り返してばかりだった。
ここらで一発、びしっと断ってみないことには、来年はどんな騒ぎが起こるか知れない。
タダで高級な品々を頂けるというのに、それを断るなんてとんだ苦行だが、ここは心を鬼にして臨まねばならないだろう。
「ど、どうしたの、レオノーラ? あなた、チョコレートは好きでしょう?」
向かいに掛けたエミーリアが、困惑した様子で立ち上がる。
彼女を驚かせてしまったことに、早速申し訳なさを覚え、
「あっはい、大好き、です――」
と訂正しかけてしまったが、なんとか踏みとどまって顔を背けた。
「が、このチョコレートは、いやです」
我ながら支離滅裂だ。
顔を背けた先で、衝撃に青ざめている職人・ヤヴァンと目が合う。
(ごめん、おっちゃん! あんたにはなんの罪もねえんだよ!)
いたたまれなくなったレオは、思わず顔を歪めてしまった。
「なぜなの、レオノーラ? そんな風に言われたら、わたくしは悲しい。職人だって、きっと傷付くわ。せめて理由を言ってちょうだい。体の具合でも悪いの?」
体調不良、と聞いた途端、背後でクラウスがガタッと立ち上がり、「担架を取ってこい!」とカイに命じる。
レオは咄嗟に、
「いえ、体の問題では、ありません!」
と声を張った。
が、時すでに遅く、カイは広間を出てしまった後だ。
伸ばした手の行き場を失い、言葉すらも、どう続けてよいのかわからなくなってしまった。
「そうではなくて……」
「では、このチョコレートのなにかが気に入らないというの?」
「ええと」
冷や汗を滲ませながら、ぐるぐると素早く思考を巡らせる。
(くそっ、与えられたものにはがっつくばかりで、断ったことなんかねえから、どう言えばいいのかわかんねえ! ひとまず、難癖つけりゃいいのか?)
値切るために、商品のちょっとした瑕疵を突くなんて、数え切れないほどやってきた。
だが目の前に差し出されているのは、難癖など付けようもない、完璧に仕上げられた高級菓子だ。
どこから批判していいのかわからなかったレオは、ふわっとダメ出しをした。
「なにかこう……だめです!」
「どこがなの?」
「こう、すべてというか! なにもかも、だめです!」
人がタダでくれようとしているものをこき下ろすなんて、吐血しそうだが、やると決めた以上やるしかない。
レオは、かっと目を見開き、チョコを見据えた。
なんでもいい。とにかく観察し、とにかく難癖をつけられそうな点を探し出すのだ。
(チョコ……チョコの特徴ってなんだ……黒い……黒いな!)
それしか思いつかなかったレオは、びしっとチョコレートを指差した。
「だって、このチョコレートは、闇を、感じさせる色を、しています!」
「そ、そうね。まあ、良質なカカオ豆をふんだんに使ったからこその色だけれど……」
「ふ、深い闇です! 想像もつかないくらいの、深~い、闇です!」
あまり動じてくれない祖母相手に、形容を重ねて凄んでみせる。
が、エミーリアは取りなすように、「ほら、食べてみて」とチョコレートを摘まむだけだったので、レオはもうひとつ、気付いたことを言い添えた。
「エミーリア様の手、汚れてしまいます!」
口溶けよく調整されたチョコレートは、指で摘まめばたちまち溶けてしまうのだ。
「それはそうだけれど……後で拭けばよいのではなくて?」
「そ、そういう、簡単な問題では、ありません……っ」
いやいや、エミーリアの言うとおり、簡単な問題である。
(く、苦しい……)
レオは、自分が、値切りでもない場面では難癖をつけられない人間なのだと痛感した。
(くそっ、こうなりゃチョコ本体じゃなくて、作り手批判だ!)
勢いよく立ち上がり、再びヤヴァンを見下ろす。
ぎょっとしている職人に、内心で「すまねえ!」と謝りながら、ひとまずレオは、目に付いたおしゃれな髭を批判した。
「その髭、ないです!」
「レ、レオノーラ。たしかに料理人は衛生に気を使うべきだけど、べつに髭なんておしゃれの範疇だわ」
「いいえ! 許されません!」
窘めるエミーリアを遮り、レオはあえて高慢なお嬢様風に、ぴしりと言い切ってみせた。
「彼の作るチョコレートなんて、自分は、食べたくありません!」
***
あまりに一方的な言いがかりに、広間はすっかり困惑の雰囲気に包まれていた。
『おいおい、どうしてしまったんだ、レオノーラ様は』
『癇癪をお持ちの方だったのかしら?』
『慈愛深いって噂だったのに、あんなにこっぴどく贈り物を拒否するなんて』
『あれじゃ夫人も面目が立たないぞ』
徐々に、当惑から不快へと傾いていく空気。
金盥越しにもそれを感じ取ったレーナは、怪訝さに眉を寄せた。
「な、なによ。たしかに感じ悪く断れとは言ったけど……予想以上にうまくやるじゃない。あいつ、チョコ嫌いだったっけ?」
――なにを言っているのよ、レーナ。
すると、呟きを拾った金の精霊・アルタが、呆れたように指摘する。
――あなたのためじゃない。
「はあ!?」
まったくもって予想外の言葉だったので、レーナは金盥を掴み、揺さぶってしまった。
「どういうことなの、それ?」
――あら。あなた、なぜレオが「夫人からの贈り物を感じ悪く断る」ことに決めたのか、理由がわからなかったの? タダの贈り物大好きな、あのレオがよ?
がくがくと盥を揺さぶられたアルタは、ゆらりと金色の光を漂わせながらこう告げた。
――思い出して。あなたがそう求め、レオが頷いたとき、あなたたちはどんな会話をしていたか。
ちょっと責めるような口調に、レーナは首を傾げた。
「会話ですって?」
ついで、記憶をたぐり寄せる。
あれはたしか、ちょうど去年の今ごろだったはずだ。
そう、例によって大量の土産を持たされ、荷車を何台も連ねて帰ってきた「レオノーラ」に、レーナは呆れてもの申したのだった。
“あんたね、そんな愛想振りまいて贈り物を受け取りまくって、どうするのよ、”と。
それは、ずっしりとした重量を誇る荷車が、侯爵夫妻の執念の象徴のように見えたからこその、焦りというか、漠然とした恐怖が言わせた言葉だった。
“あんたがにこにこ笑って、喜んでみせてばかりだから、あいつらも一層調子に乗るのよ。こういうのって、際限がなくなっていくんだから”
そうとも、ブルーノの言うとおりだ。
あの時点でレーナも、侯爵夫妻の剥き出しの好意に、レオが絆されてしまうことを無意識に危惧していた。
だからこそ、もっと気を引き締めろと伝えたのだ。
“あ、これ、「サロン・ド・モブリス」のものじゃない! 私、もーらい”
行きとは違って、貴族からの贈り物を身に付けた「レオノーラ」は、それはそれは優雅で美麗だった。
うっかり、そのまま貴族社会に溶け込んだきり、帰って来ないのではと思わされるほどに。
だからこそ、レーナは「レオノーラ」像に爪を立ててやるつもりで、一番手前にあったチョコレートの箱を取り上げた。
菓子は好きだが、別に大好物というほどでもない。モブリスのチョコも、外装のセンスがイマイチで、好みではなかった。
それでも、むしゃくしゃした思いのまま、手当たり次第に口にしてやると、馬車から降りてきたレオは、御者に聞かれないようにか、小声でレーナに告げた。
“おいおい、それ、俺が後でじっくり食べようと思ってたのに!”
そんな気遣いができてしまう相手が、妙に腹立たしくて、レーナはそっぽを向いたのだ。
“いいじゃない。そもそもこれは「レオノーラ」――私に向けた贈り物でしょ”
と。
――あの夜ね。レオ、しばらく考え込んでたわ。
「え……?」
アルタが少し、悲しげに言う。
――そうだよな、って呟いてた。この贈り物ぜんぶ、元はレーナのものだよな、って。
レーナは思わず目を見開いた。
レオが鳶色の瞳を伏せ、ぽつんと呟く様子がなぜかありありと想像できてしまい、唇が震えた。
――翌日にあの子、あなたに「来年はちゃんと断るから」って言ったでしょう? それって、単に騒動を恐れたからじゃないわ。あの子は、泥棒になりたくなかったのよ。
泥棒という言葉が、やけに重く、胸に響いた。
がめついレオ。けれど義理堅いレオ。
院長に厳しく育てられた彼は、誰かのものを横取りしてしまうことを、ひどく恐れていた。
たとえば――他人になりすまして、家族の愛情を受け取ってしまうようなことを。
――特に食べ物は、絶対断るって決めていたみたい。だって、絨毯や食器はまだ共有できるけど、一度食べてしまった食事は、二度と他の人にはあげられないでしょう?
レーナは、思わず金盥の向こうを振り返った。
値引きの言葉にくらくら来たくせに、チョコレートと見たとたん、感じ悪く振る舞いはじめたレオ。
――チョコレートは、一番最初に侯爵家に保護されたとき、夫人が出してくれたものなのですって。だから、なお一層、「横取りしちゃだめだ」って、思ったみたい。
『ねえ、レオノーラ。どうしたの? あなたがチョコレートが好きだと思ったから、わたくしは――』
『いいえ、いりません!』
金盥の向こうでは、レオがまだチョコレートを突っぱねている。
『去年、モブリスのチョコレートをもらったときから、思っていたんです。自分は、こんなチョコなんて、いりません!』
頑なな物言いをする姿を見ているうちに、うっかり、レーナの目には涙が滲みそうになってしまった。
「馬鹿……」
なんて馬鹿な男だろう。
そんな筋、通さなくていいのに。
エミーリアとレーナは、ただ四分の一、血が繋がっているだけ。
会ったこともない、言葉すら交わしたことのない存在だ。
夫人はきっと、不憫な孫娘を夢想して何度も涙を流しただろうが、その涙だって、レーナに向けられたものとは言えない。
彼女の前に登場し、その言動で心を掴み、行き所を失っていた愛情を解放してあげたのは、他ならぬレオ自身だというのに。
「馬鹿ね……」
金盥の向こうで、「レオノーラ」はつんと顔を上げ、チョコレートを拒絶している。
凜として見える姿も、状況が状況なだけに、ひどく高慢に見えた。
広間を埋める人々も、一方的な糾弾に、いよいよ不快さを隠せなくなっている。
『なんであんなに、スーゲの職人を責め立てるんだ』
『そうよ、彼がなにをしたって言うの? 夫人も悲しそうだわ』
『なにが慈悲深く真実を見通す、「無欲の聖女」だか――』
レーナは拳を握った。
もう見ていられない。
「ねえ、金の精霊――」
介入を決意し、アルタに向かって口を開いた、そのときである。
『大変です、侯爵閣下! 侯爵夫人!』
ばん! と扉が開き、外から勢いよく青年が飛び込んで来た。
誰かと思えば、この数年でずいぶん背丈を伸ばした元レオノーラ付き侍従・カイである。
彼は、すっかり美青年と呼んで差し支えなくなった面差しを歪め、侯爵に向かって叫んだ。
『どうかただちに、スーゲの職人に扮した、その厚顔な男を捕らえてください!』
***
クラウスは一瞬たじろいだものの、職人が「ひえっ」と腰を浮かせたのを見逃さず、すぐさま衛兵に指示を飛ばした。
「捕らえよ!」
「はっ!」
「ひ、ひえ……っ! 侯爵閣下! わ、私が、なにをしたと言うのです!」
「なにをしたか、ですって?」
両側から腕を取られ、もがきはじめた男に、カイが冷ややかな視線を寄越す。
「それは本物のスーゲの職人に聞くことですね。僕が今さっき担架を取りに倉庫に向かったら、両手足を縛られて転がされていましたよ。なんでもあなたに襲われ、身ぐるみを剥がされたとか」
カイは、執事教育の成果を遺憾なく発揮し、取り押さえられた男の衣服を摘まんだ。
「だからサイズが合っていない。それに――」
ついで、男の顔を掴み、なんとあるものをむしり取った!
「こんな変装をしてまで、言い逃れできると思わないでください!」
広間がざわつく。
「まあ!」
「髭が……ない」
そう、ヤヴァンを名乗る男は、付け髭をしていたのである。
「これはどういうことなの?」
エミーリアは呆然とつぶやき、それから、あることに気が付いて、傍らの孫娘を振り返った。
「レオノーラ。あなた……さっき、『その髭、ないです』と言っていたわね? まさか、このことを意図していたの?」
「えっ」
対するレオは声を上擦らせた。
言った。
言ったけれど、そんな意図は込めていない。
というか、一生懸命感じ悪く振る舞っていただけなのに、いきなり緊迫しだしたこの状況が、わけがわからないのだ。
「いえ、ええと――」
「『去年モブリスのチョコレートをもらったときから、今年は受け取らないと決めていた』。まさか……そういうことなの!?」
どういうことでしょう。
レオは絶句するしかできずにいたが、なんと、カイがきっぱりと頷きを返した。
「その通りです、大奥様。この男は、今年躍進したサロン・ド・スーゲの職人ではない。今年のレオノーラセレクションに漏れ、見当違いの恨みに燃えた、サロン・ド・モブリスの職人、モブリスなのです!」
「――……っ」
(どぅおええええええええ!?)
レオは素っ頓狂な声を上げかけて、見事失敗し、結果的に喉を焼いた。
(えっ!? 嘘、モブリス!? 誰!? っていうかなに!? レオノーラセレクションって!!)
カイの発言中にツッコミどころが散りばめられすぎていて、どこからケアしていいかわからない。
そうこうしているうちに、カイはすっとその場に跪き、説明をはじめた。
「この男、モブリスは、過去二回レオノーラセレクションに選定されたことで調子に乗り、多額の借金を重ねていたようです。それが原因で、原材料の価格をごまかし、過剰に高額な商品を売りつけていたのは、大奥様もご存じのところ」
「そうね、カイ。だからわたくしは、今年の選定から彼を外したのよ」
「ところが彼はそれを逆恨みし、新たに選ばれたスーゲの職人を襲って昏倒させ、彼に成り代わったのです」
カイは蔑むように、むしり取った付けひげを見せつけた。
「もっとも、真実の瞳を持つレオノーラ様は、即座に彼の正体を見破ったようですけれどね」
「――……っ」
喉焼き、再び。
(いや全然見破ってねえっすけどーーーーー!?!?)
レオは顔を引き攣らせたが、隣に立つエミーリアは納得の表情を浮かべるばかりだった。
「だからレオノーラは、彼の番になった途端、こんなにも受け取りを拒否した……。わたくしが食べさせようとすると、『手が汚れる』と言って、それを止めたのね」
「さようでございます」
(さようじゃないってば!)
ただいちゃもんをつけていただけなのに、いつの間にか名探偵役に祭り上げられそうで、居心地の悪くなったレオは席を立とうとする。
だがそれよりも早く、今度は縛られたままのモブリスが、自嘲で肩を揺らした。
「はっ、『真実の瞳』は伊達じゃねえってか。闇が深いだとか、ことは簡単じゃねえとまで言われた以上、……俺の余罪も何もかも、見通されてんだろうなア」
(なんか自白しはじめたーーーー!?)
被害者も探偵役も不在だというのに、勝手に犯人の自白劇場が始まるのはなぜだ。
レオが滝のような冷や汗を流している間に、実質的な探偵・カイが「もしや」と声を低めた。
「襲われたスーゲの職人が言っていましたが……借金返済のために、あなたが違法に孤児を長時間労働させたり、果ては、売り子を使って売春の斡旋までしているというのは、事実なのですか」
「ふん。高級品のブランドを維持するには、それなりのコストってもんが掛かるんだ。あんたら貴族は、そういう下々の者たちの、労働やら苦渋やらの末にやっと一粒生み出された甘露を、ばかすか飲み食いしてんだよ。それくらいわかるだろ?」
「なんということを!」
声を荒らげたカイに対し、モブリスは「あーあ」とせせら笑うだけだった。
「後ろ暗いことをしてようが、天下のハーケンベルグ夫人のお墨付きさえ貰えりゃこっちのもん。スーゲの職人のふりをして、紫の薔薇の旗をかっぱらえば、いくらでも侯爵家を強請れると思ったのによお」
どうやら彼は、自らのチョコレートをスーゲのものと偽って認証を得て、味の違いすらわからなかったという悪評を盾に、エミーリアを脅そうとしていたらしい。
卑劣なやり口に、侯爵も夫人も、瞳に怒りを燃やして席を立ったが、そのときモブリスが、ぽつんと漏らした。
「だが、まさか、食べる前から見破られるなんてな」
いやらしい笑みではない。圧倒されたような苦笑を、彼は浮かべていた。
「うわべだけを見るんじゃなくて、本当に真実を見抜く貴族が、いたなんてな」
静かに項垂れた彼を見て、やがて、ギャラリーの一人が呟いた。
「『真実を見通す瞳』だ……」
その言葉は、唸りを立てるような勢いで、広間全体に広がっていった。
「一目見ただけで真実を見抜くなんて!」
「いいや、去年モブリスのチョコをもらったときからこの事態を見通していたということではないか!?」
「見目よく装われたチョコレートになんか目もくれなかったわ」
「やはりレオノーラ様は、『無欲の聖女』なんだ!」
わああっ! と歓声が盛り上がる。
「いや、あの、違……」
おかげで、もはやレオのか細い反論など、誰の耳にも届かない。
「レオノーラ! ごめんなさい! あなたは最初から忠告してくれたというのに、それに気付けなかったわ!」
と、感動の涙を浮かべたエミーリアが、強くレオを抱きしめてくる。
「てっきりわたくしの贈り物が拒絶されてしまったのかと、動揺してしまって……。でもそうではなかったのね。あの男の罪を伝えようとしていただけだったのね」
小柄な彼女の体からは、柔らかな花の香りがした。
彼女はそっと両手を伸ばし、「レオノーラ」の頬を優しく包んだ。
「レオノーラ。わたくしは、あなたが『真実の瞳』を発揮したことよりも、あなたがわたくしを受け入れていてくれることが、本当に嬉しいの」
無欲の聖女だ、と沸き立つ周囲をよそに、彼女はそんなことを言う。
思いがけない言葉に胸を衝かれ、レオは黙り込んだ。
(俺だって)
こっそりと、思う。
信じられない手触りの高級絨毯も、宝石みたいな高級食器も、庶民ではありつけない高級菓子も、もちろんもらえたら嬉しいが、本当は、こうして抱きしめて、名前を呼んでもらえることがとても嬉しい。
「レオノーラ」は偽物だけど、中にはレオの名前も含まれている。
それを、エミーリアの優しい声で呼ばれると、まるで春風を浴びたような、陽だまりの匂いのする布団に飛び込んだような、夢見心地になれるのだ。
本当は、自分のものにしていいわけではないのに。
考え込んでいると、エミーリアはさっと観衆を振り返り、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「さあ、皆の者。モブリスを別室に連れて行きなさい。こんな悪事を知ってしまった以上、見過ごすわけにはいかないわ。モーニングパーティーは散会。取り調べを優先します」
孫馬鹿のエミーリア、ではなく、侯爵夫人としての顔だった。
クラウスもまた頷くと、不満の声を上げるゲストを統制し、さっさと広間を空けさせてしまう。
結局「レオノーラ」に与えられたのは、個人では使いようもない大きさの絨毯と、いくつかの食器と装飾品だけだった。
「ごめんなさいね、レオノーラ。贈り物を用意するための会が、こんなことになってしまって。あんなにたくさん用意したのに、今年は、去年の数分の一も贈れなかったわね」
すっかり静かになった広間のテーブルで、エミーリアは目にハンカチを押し当てる。
「本当に、だめな祖母ね。小さいあなたを守れなかったし、やっと現れてくれたあなたのことも、精霊に攫わせてしまった。今もまた、聖堂に戻るあなたに、ろくな贈り物も持たせられない」
彼女はしきりと、贈り物が少ないことを詫びる。
ごめんなさいね、と声を震わせるエミーリアのもう片方の手に、レオはおずおずと手を重ねた。
「全然、気にしないでください」
覚悟を決め、付け足す。
「お祖母様」
ぱっと顔を上げたエミーリアに、レオは心を込めて告げた。
「お祖母様に会えるだけで、十分です」
胸の内で、ここにはいないレーナに話しかける。
(なあ、レーナ。贈り物は、ちゃんと断ったよ。最終的によくわかんねえ事件になっちゃったけど、俺はちゃんと、断った。だから……だからさ)
重ねた手から、エミーリアの体温が伝わってくる。
老年の彼女の肌は、仲間の子どもたちのものと比べれば、やや低い。
熱気を発するのではなく、じわじわと優しさを滲ませるような、穏やかな温度は、レオには未知のものだった。
(この人を「お祖母様」って呼ぶ権利だけ、俺にくれねえ?)
贈り物はもういい。
去年の数分の一だろうが、数百分の一だろうが、そんなのはどうでもいいから、たったひとつの、リボンすら掛けられていないそれこそが、レオのほしいものだった。
「レオノーラ……!」
エミーリアがくしゃくしゃに顔を歪める。
レオもまた、唇を引き結んで、体の内側から溢れる感情を飲み下した。
エミーリアがごく自然に体を抱き寄せてくるのに、身を委ねる。
もしかして、母親が子どもを抱き寄せるときというのは、こうなのだろうか。
自然で、躊躇いがなくて。
温かくて、いい匂いがして。
回された腕は、女性のものなのに、びっくりするほど力強い。
「お祖母様」
レオは、今日だけだと言い訳をして、おずおずと、エミーリアの体を抱き返した。
***
「なんだか、結果的にまた聖女伝説が強化されてしまったが、いいのか、レーナ?」
金盥越しに光景を見守っていたブルーノが尋ねたとき、レーナはむすっとして、しばし答えなかった。
「しかも、贈り物を断ったはいいが、肝心の夫人の愛情は、増すばかりのようだが」
これぞ試合に勝って勝負に負ける、と呟く男の脇腹を、レーナは勢いよく小突いた。
「うるさいわね!」
その通りだ。
きっと来年は、今年の失態を取り返そうと、夫妻は例年の倍は張り切るだろう。
だがもう、どうでもいい気がしてきた。
どうせ、どんな小細工を講じようと、夫妻の「レオノーラ」への愛情は無限大なのだ。
無限が二倍になろうが三倍になろうが、そもそも無限なのだから、値は変わらない。
だとしたら、制止しようと足掻くだけ、労力の無駄遣いというものだ。
(それに)
ちらりと、金盥に映る光景を見下ろす。
ようやく身を離したレオは、目も当てられない、頬の緩みきった顔をしていた。
(うっわ間抜け面)
我が顔ながら、どうしてそんなに無防備な表情ができるのか不思議だ。
だが、頓珍漢な決意を固め、人を罵っていたときの表情よりかは、いくぶんマシに見えたので、レーナはもうそれでいいと思うことにした。
(あんたはせいぜい、そうやってへらへら笑っていればいいのよ)
人はそれを、「幸せそうな顔」と呼ぶのかもしれないけれど。
長時間金盥を見守っていたせいで、すっかり肩の凝ってしまったレーナは、うーんと伸びをした。
「まあ、もういいわ。だって侯爵夫妻は、執着が強すぎて面倒臭いけど、敵にはならないもの。やっぱり私は、皇子のほうが問題だと思うわ」
ついでに、敵意の矛先を、さっさとアルベルトに限定してしまう。
権力ある金髪男を敵に回すぶんには、レーナの心はなんの痛痒も覚えない。
「さーて、残る一日半、皇子とのイベントをどう防ぐか、心しなきゃね」
「嘘だろう。まだ一日半も残っているのか」
「そうよ」
レーナとブルーノは軽口を叩き合いながら、休憩に入る。
金の精霊アルタは、静かに微笑みながら、残る還俗期間の光景を紡ぎ続けた。
今年もお付き合いくださりありがとうございました!




