166.マリーナとアリス
暫くの間、シーンと静まり返る室内。
ポツリとフランクが言葉を溢す。
「皇太子妃様付きの侍女殿まで彼の言いなりになっていたとは……」
「彼女は恋人を奪われたと言っていたわね」
きっとそこに付け込まれ、恋敵を――。そして札に恋敵の魔力を閉じ込めたのだ。それをヤハに差し出した。たまたま今代償を払わされたのだろう。
ヤハのように黒魔法を使ってすぐに命を失うものもいれば、ケイトやクレアのように何ヶ月も生き続けるものもいる。
黒魔法は本当に理解不能だ。理解したくもないが。
「心を操るのは私たちより上だったというわけね…………っ!」
「アリス様!大丈夫ですか!?」
ふらつくアリスをフランクが支える。
「大丈夫ではないけど、そんなこと言ってられないでしょう?」
二人はマリーナに視線を向ける。
そのとき廊下からこちらに近づいてくる複数の人の気配がした。
ガチャ……
バン!
『うおっ、あっぶな。アリス様、アリス様!ご無事ですか!?』
開けてる途中の扉が急に閉まり、焦るイリスの声がする。
「これを見られたらヤバイわよね?」
「ヤバイです。でも、これどうにかできますか?」
「……………………やるしかないでしょう?」
扉を魔法で閉めたのはアリスだった。アリスは体調不良によるものか、この現状に対するものか自分でもよくわからない冷や汗が流れるのを感じた。
「イリス!誰もそこを通すな!」
『は、はあ!?いや、えーーーーい!わかりましたよ!』
フランクの大声にイリスが戸惑いつつも了承の返事をしたのを確認した二人は再びマリーナに目を向ける。
長い睫毛が震えるとゆっくりとその瞳が開いた。
「……アリス?」
「はい」
「……久しぶりね」
「はい」
「見て、あの子が戻ってきたのよ?」
「…………マリーナ様、それは……」
「あなたの子と同時期くらいに産まれそうね」
「…………マリーナ様」
「この子は男の子だけど、あなたの子は男の子かしら?女の子かしら?ふふっ、楽しみね」
「……マリーナ様!」
アリスが発した大声に目を見開いた後、緩やかに微笑むマリーナ。
「どうしたのアリス?そんな大声を出して……それにしても凄い汗、大丈夫?」
立ち上がり持っていたハンカチでアリスの額の汗を拭くマリーナ。アリスは思う。どうしてこの優しい人が辛い目に遭うのか。この事実を伝えて良いものか……だがそのままにはしてはおけない。
「マリーナ様、そのお腹はお子様がいるわけではありません。魔法で膨らんでいるだけです。魔法は人を生み出せません」
それができるのであればアリスの魔法でやっている。どれだけの魔力が必要であろうとも、どんな痛みを伴おうとも。でもそれは不可能なことだった。
今マリーナのお腹にはあの男の魔力が渦巻いている。命をかけた魔法は本人が亡くなっても残った。無理矢理取り出すにもヤハの強い思いをマリーナが受け入れてしまった為か無理な状態だった。
「嫌だわアリス、そんなわけないでしょう?この子はあの子よ」
ふふ、可笑しいと笑うマリーナにアリスは虚しさを感じる。
「では…………なぜ撫でてあげないのですか?」
「あ、ああ。嬉しくて忘れていたわ」
そう言って自らの手を腹部に近づけるがあとちょっとというところでその手は止まり震え始めた。
「どうされたのですか?」
「あら?おかしいわね」
その瞳からはポロポロと涙が零れ落ちる。
「ふふ、はははは……はははははははは!」
急に笑い出すマリーナにアリスはかける言葉が見つからなかった。その表情はあまりにも哀しみに満ちていたから。
「わかってる。わかってるわよ!これがあの子じゃないことくらい……でも…………でも!もしかしたら本当に戻ってくるかもしれないじゃない!」
泣き笑いながら叫ぶマリーナは狂気に満ちていた。
でもどこか哀しくアリスは胸が痛かった。
「だからヤハの言葉を受け入れた。でも、やっぱりこれはあの子じゃない!あの子じゃない!でも、でも、もしかしたらと希望が消えないのよ!!!」
マリーナの強い視線がアリスを射抜く。
「ねえアリス」
「はい」
二人の視線がピッタリと合う。
「なぜなの?あぜあなたは新たな命を宿し、私は失ったの?そんなの不公平よ」
「はい」
「あなたは何もかも持っている美しさ、頭脳、魔法、子供たち!全て私より素晴らしいものを持っているわ!なのに、なのになぜ天はあなたからではなく私から奪うのよ!?」
「はい」
「この国のことを考え、夫を支え、自分を律して真面目に生きてきた!好き勝手に生きるあなたの方が恵まれるのはなぜなの!?」
「はい」
アリスはひたすら頷く。
「ねぇ、その子ちょうだいよ。他にもいるからいいじゃない。いえ、無理よね。じゃああなたも……あなたも同じ思いをすればいいのに…………」
マリーナの視線がアリスの膨らんだ腹部に向かう。危険を感じたフランクが前に出ようとするのをアリスは視線で制する。
張り詰める空気。
ゆっくりとマリーナの手が上がりふるふると震えながらも拳の形になる。
そして
その手は
勢いを持って
アリスの腹部に向かった。
アリスは動かなかった。
「…………………………」
「…………………………」
マリーナがドサッと座り込む。ドレスのスカートがふわりと広がる。
「羨ましい……憎いほど羨ましい。
でも、やっぱりできない」
「マリーナ様にはそんなことできませんよ。私と違ってお優しいから」
アリスはマリーナの側に座るとその背を撫でる。
「アリス、ごめんなさい。私酷いことを……言葉を……」
涙でびしょ濡れの顔を青褪めさせたマリーナにアリスは笑いかける。
「溜め込み過ぎですよ。あのくらいの言葉が酷いなら普段の私の言葉は何でしょう?」
「凶器じゃないですか?」
余計なことを言うフランクを黙っていろと睨みつけるアリス。
「溜め込みすぎると心は壊れます。吐き出せたので少し楽になったのでは?」
マリーナは少しだけ頷いた。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい。お腹の赤ちゃんも……」
そっと優しくアリスの腹部を撫でるマリーナ。ドクンドクンと感じる確かな鼓動。
「ふふ、生まれる前から愛しいわね」
「マリーナ様……」
「ええ、お願い」
「はい、失礼します」
アリスがマリーナの腹部に手をかざすと、膨らみは無くなった。それを見たマリーナは一瞬悲しそうな表情になったが、まっすぐアリスを見ると言った。
「ありがとう」
と。
その胸に過るは亡き子のことか――――
マリーナの切ない心を大切にしたい。心を……
だが
「マリーナ様、申し訳ありません」
「え?」
「限界です」
そう言ってアリスは気を失った。




