132.狂気
トキをブランクと双子に紹介した日の翌日。
はあ……はあ…………
ルビーは目の前の光景に動くことができなかった。
頭がまともに働かない。
あれ?息ってどう吸うんだっけ?
これは…………なに?
目の前の光景は
どういうこと?
今日は修道院に行く途中で忘れ物に気づいて引き返して……トキと甥っ子がどうした?と迎えてくれるはず。
そうそのはず……
なのに、なんで…………
なんで…………夫はベビーベッドに眠る甥っ子の首に手を?
どうして…………どうして…………………
トキは……最愛の夫はなにを?
「あ……な…………に……なんで……」
はっ!言葉を吐き出したことで頭が少し動き出す。
あの子、あの子を助けなければ!
トキに体当たりをしようとして躱され倒れ込む。
だが、彼の手は甥っ子の首から離れた。身体は痛むが慌てて立ち上がり小さな身体を抱え込む。大声で泣き始める甥っ子に安堵の息が漏れた。
安堵……緊張から安堵という一瞬の気持ちのゆらぎが恐怖と合わさりルビーの足から力を奪った。ガクンと膝が崩れる。
「!」
動け!動いてよ!
よくわからない。もう何が起こっているかわからないが逃げなければならないことだけはわかる。
なのに…………
座り込むルビーの顔を覗き込むと彼女と視線を合わせるトキ。
「なんで帰ってきちゃったの?」
「なんでって……忘れ物して…………」
自分は何を素直に答えているのか。
「ふうん、まあいいや。その子をこちらに渡してくれるかな?」
「な……なにをする気?」
自分は何を聞いているのか。わかっているのに……自分の考えを否定して欲しくて尋ねてしまう。そんなルビーの気持ちなどお構いなしにニコリと笑うと言い放つトキ。
「さっきの続きに決まっているだろう?」
さっきの続きって……この子の命を…………!?
「な…………なん……で?」
「なんでって……。君が幸せそうだからだよ」
ニッコリとさも当然だと言わんばかりに紡がれた言葉に理解が追いつかない。
「幸せじゃいけないの?私何か悪いことした?あなたに憎まれるようなこと……した?」
「ううん、何もしていないよ。でも愛する心はちょっと薄れてきちゃったけれど。でも大丈夫だよ!君はこれから大切に育ててきた甥っ子を義姉から預かっている甥っ子を失うんだから!そうしたら君への愛もまたたくさん湧き上がると思うんだ!」
「な…………何を言っているの?」
わけがわからない。どうしてしまったの?優しい彼はどこへ行ってしまったの?魔法?誰かに操られでもしているの?
「君こそ何を言っているんだい?」
「なにって……いつものあなたに戻ってよ!優しくてこの子のことが大好きなあなたに!」
「?僕は別にその子のこと好きではないよ」
「何言って……」
「可愛がってる振りをすると周りからの評判もいいしね。体調の悪い姉に代わって育ててるなんてめっちゃいい人だよね、僕って。まあ姉が手と足の骨折ったのは僕が階段から突き落としたからなんだけどね?誰も気づかないから笑っちゃうよね?ああ!君は自分の子でも血の繋がりがあるわけでもないのに子育てさせられて可哀想だったね!ねぇねぇそれって不幸だよね!?」
「……なんなの?なんなのよ!?あなたの言ってることがわからない!!!」
「僕はね不幸な人が大好きなんだよ!惨めだなぁ、哀れだなぁって胸が高鳴るんだよ!不幸なやつを見てると可愛くて可愛くて……幸せな気分になるんだあ!あと、そんな不幸なやつに優しい僕って素敵だろう?」
恍惚な表情を浮かべるトキ。
不幸な人が好き?
よくわからない、わからないが……
彼が自分を選んだのは
「私が不幸だから私と一緒になったの?」
目の前で起きていることは現実であると認識しているのに、どこかでまだ信じきれないでいる。
「そうだよ?君はさ宰相家の孫娘で王子様の婚約者だっただろう?そんな高貴なご令嬢が平民に、しかも修道院で扱き使われてるんだよ?めちゃくちゃ不幸じゃないか!」
「そうだけど!私以上の不幸な人なんていくらでもいるじゃない!」
修道院に来る患者たちを見ていて思った。自分はまだ幸せな方だと。寝床もあり食うところにも困らない。身体を売るわけでもなければ、誰かに乱暴されるわけでもない。
「まあね。実際に君よりも大変な思いをしている人はたあくさんいるよね!そう!たあくさんね?でも君みたいなケースはなかなかないじゃない?ぜひ手に入れたいと思ったんだよ!」
「もしかして助けてくれたのも」
あれは運命ではなかったの?
「いや違うよ!あれは運命だよ!」
運命……そう運命。でも自分と彼の言葉の意味は違うのだろう。
「修道院で働く君を見てどうやって近づこうかと思っていたらボスさんと仲良くなっちゃったし。焦っていたら友人を喪い、男にも捨てられちゃうんだもんなぁ」
その表情には嬉しさが隠しきれないでいた。
「本当に君は輝いていたよ!仲間に馴染めず、やっとできた友人はあの世に行き、男には他の女に乗り換えられて、しかも相手は君の友達……君には様々な不幸が襲いかかってきたよね!本当に本当に憐れで可哀想で輝いていたよ!」
目を輝かせ興奮気味に話すトキに心臓が早鐘を打つ。
なんなんだこいつは
狂ってる。
「でも君の光はどんどん萎んでしまった。僕と結婚したから?甥っ子を引き取ったから?王家に迷惑かけた分際で最近では王孫と仲良くなって、王子には幸せそうで良かったって言われてたよね?この前なんか、隣のババアにルビーちゃんがお嫁さんであなたは幸せね、だなんて言われたんだぞ!この僕が!?不幸なお前を引き取ってる僕がお前のお陰で幸せってどういうことだよ!?ふざけるな!!!」
「…………………………」
何か言わねば、だが言葉が出てこない。身体も動かない。
「あああああああああああ!!!」
トキが急に叫んだ。
「幸せそう?そうだ君は幸せになってるんだよ!幸せになっちゃったんだよ!そんなのは僕の求めた君じゃない!だから君を不幸にしようと思ったんだよ!預かっている甥っ子を失った女、なぜ守れなかったと非難されるかな?それとも気の毒に思われるかな?君が幸せだなんてだあれも思わなくなるよね?」
その滅茶苦茶な言い分はなんなのだ。なぜそんな狂ったような目で自分を見るのか。
おかしい。
間違いなくトキはおかしい。
「でもなんかもう君めんどくさいや……もう強盗に見せかけてまとめて二人に消えてもらうよ。最近ね、すっっっごい良い子見つけたんだよ!産まれてすぐに捨てられて施設でも旦那にも暴力を受けていてね――――――――――」
新しく見つけた不幸な人を嬉々として語るトキは子どものようだ。目を輝かせ本当に楽しそうだ。
だがその光景は異様としか言えない。
「――――――てなわけで消えてね?」
振り下ろされる剣を避ける術はルビーと赤子にはなかった。




