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咄嗟に茜は千夏に声をかけようとする純の腕を引っ張り、純を守る様に矢面に立った。そして後ろに立つ純の方へ振り返って面と向かうと真剣な表情で、でもどことなく愉しそうに茜は純のためを思って進言する。
「純さん、彼女は下賤な女狐です。エキノコックスにかかっても知りませんよ」
病原菌扱いされて怒ったのは言われた千夏ではない。純が茜の頬を、思わず叩いたのだ。
快活な響きを聞かせると共に
「ごめんなさい」
叩いた張本人が、叩かれた茜に謝罪する。茜はか弱い女性らしく頬を抑えるというよりも、信じられないといった様子で叩かれた頬にそっと手を添えていた。
その光景を見ていた千夏も自分のために純が怒ったと言う事実よりも、純が女性に暴力をふるった光景を信じられないといった様子で目を丸くさせていた。
「叩いてごめんなさい」
純は再度申し訳なさそうに頭を下げながら茜に言った。しかしそれでも今の純の姿は、茜にとって早々許せるモノではなかった。その姿はまるで恋人を守る彼氏だ。まるでハイヒールのかかとが折れて座り込む彼女を心配する彼氏の様に甘く、「立てる?」と千夏に声をかけて手を差し伸べる純の姿を見た茜は、面白くなさそうに仏頂面へと変化していく。
「え、あ、はい」
そんな茜の様子を知りながら千夏は内心ガッツポーズを見せる。それを気取られぬように、与えられた役割に千夏は徹した。促されるままに純の手を取り立つと、健気な女子を演じる様にひたりと純に寄り添う。千夏は茜を、別れた男を未練がましく追い回す女の様だと心の中で形容した。思わずほくそえんでしまう。選ばれたのは私だ。あの高慢知己な茜に、私は勝ったのだと喜んだ。
純は夏と冬にサンドイッチされたような得も言われぬ不穏な空気が流れを感じる中、彼女のように腕を絡めて寄り添う千夏を茜はそれとなく引きはがそうと試みる。結果は失敗に終わった。
家に上がる仲になったからだろうか、純の初対面のころより彼女に対するガードは緩んでいた。行為をすべて受け取ることはないにせよ、刺々しく彼女に接することが出来なくなってしまった。純はべったりくっついてくる千夏の幸せそうな顔を、恋人と重ねてみてしまった。
こんな事はダメだ、頭ではわかっている。けれど自分はこの笑顔を壊してよいのだろうか。自分に問いかける純に対し、その甘い考えに水をかける女がいた。
「許すわけないでしょう」
茜には純が千夏に寄り添う様に見えたのか怨念がましく、ゆったりと地の底から吐き出した様な声で純の謝罪に返答する。その姿に純はびくりと背を震わせる。背を震わせる純を心配するように、守る様にギュッと純の体を千夏が抱きしめる。その口元は歪に笑っていた。
茜がそれを見逃すはずがない。身の程を弁えない女狐に殺気立つ茜を見た純は、慌てた様子で茜の怒りを鎮めようと試みる。
「茜さん、すみません。本当にごめんなさい」
「えー、何で純が謝るわけ? 先に言ってきたのこいつじゃん」
指を指して茜を批難する千夏の姿は子供の様で、けれど純は千夏を窘めるか悩んでしまった。千夏が茜に言われたことから彼女が茜を批難したくなる気持ちもわからないでもなかったからだ。けれどこれでは余計二人の仲が拗れるばかりだ。




