第60話 尼子勝久と山中父子(解説編)
前半部はまとめの続きに、事実上は成ります。
事実上の解説編は、後半部です。
だが、その一方で、尼子勝久にしても、どうにもならないことがあった。
保守党の派閥というのは、基本的に地域の繋がりから形成されているのだが、中国地方には中国保守党が存在することから、保守党の議員は極めて少なく、勝久の派閥は小派閥にならざるを得なかった。
(勿論、彼奴が上杉派なので、自分は北陸出身だが尼子派に入るとか、勝久の思想に共鳴したから尼子派に入るといった議員等が全くいない訳ではない。
だが、派閥の基盤の多くが地縁である以上、尼子派は少数に止まらざるを得なかったのだ)
その為に保守党の党首には縁が遠い、と勝久は見られていたが。
1602年の保守党党首選挙で勝久は巧みに保守党内の派閥間の合従連衡に成功、最大派閥の島津派等の後押しを受けて、保守党党首に就任した。
更には大日本連邦帝国への移行に不満を抱いたり、労農党の長期政権に飽いたりしていた世論を活かして、1606年に衆議院議員総選挙に勝利して保守党政権を樹立、自らは首相に就任した。
そして、保守党伝統の宥和政策を展開し、ユーラシア大陸横断鉄道建設を提起する等の行動で世界三大国の協調を進める等、世界平和を推し進めた名政治家として首相在任時から世界に名を遺した。
だが、1610年の衆議院議員総選挙勝利直後の「保守合同」に失敗したことから、尼子政権は陰りを見せることになり、1614年の衆議院議員総選挙で保守党は敗北、保守党党首を勝久は辞任することになり、1618年に高齢を理由に政界から勝久は引退した。
尚、幸盛は1600年に既に没しており、首相就任時に勝久はこの晴れ姿を幸盛に見せたかった、と心から嘆いたと伝わる。
(作者としての呟き)
本当に保守党の議員というか、首相を誰にするか、本編執筆中は頭を痛めることになりました。
それなりに知名度があって、更にこの世界でも出世しておかしく無くて、更に日本にいるとなると。
誰がいるだろう、と何度も頭を抱え込むことに。
それこそ東北地方の面々の多くが、中南米に赴いていますし、史実でこの頃に活躍した織田、豊臣、徳川の人材の殆どは、北米共和国やローマ帝国に赴いているこの世界の現実があります。
そして、1540年前後から勢力を保ち続けて、戦国時代を生き延びて、江戸時代初期でも名を遺せそうな名家の人物となると。
私の記憶を懸命に掘り起こしては、様々にネット検索を掛けた末に、やっとの思いで見出したのが、尼子勝久でした。
最初は尼子義久にしようかな、と考えたのですが、私が調べる限り、どうにも野心家には思えず、それに勝久にすれば、山中父子を自然に登場させることもできる、と考えた末に、尼子勝久を登場させることにしました。
尚、本編では山中幸元がこの世界で蓄財に成功した事情をほぼ描けなかったので、まとめ編でそれなりに描くことになりました。
それから、勝久と幸盛の選挙活動をまとめ編で、少し描こうともしたのですが、いざ私が描き出すと、幸盛の暴走を勝久が懸命に止めるドタバタコメディが展開してしまったので、横道に入るにも程があるし、色々な意味で台無しになる、として描くのを止めたという事情があります。
そうした事情から、どんな選挙活動が為されたかは、読者の皆様の御想像にお任せします。
後、本来の家、佐々木氏の本家といえる京極本家当主、京極忠高との和解の話も描きたかったのですが、何だか横道に逸れそうで、これ又、描くのを止めたという事情があります。
そして、本来の尼子宗家は義久の家系になりますが、この世界では勝久が首相として名を馳せることになったことから、日本の国内外で勝久の家系が尼子家の宗家のような扱いを受ける事態が起きそうです。
ご感想等をお待ちしています。




