第58話 二条昭実
二条昭実 1556年生 1619年没
二条晴良の次男として生まれる。
九条兼孝は実兄(九条稙家の養子になった)であり、鷹司信房は実弟(絶家になっていた鷹司家を再興した)になる。
三兄弟の中で最も政治的手腕に長けていた、と評されており、そうしたことから、織田信長夫妻に気に入られてその娘婿に迎えられた。
(家格の問題から、清華家の三条家の当主代行である美子の娘を正妻に迎えたという形式が執られた)
更に言えば、九条兼孝の正妻の敬子は、織田(三条)美子の義妹であり、鷹司信房の正妻の輝子は、九条兼孝夫妻の養女であることから、労農党系が貴族院に勢力を張る一因にも、この縁組はなった。
1585年にローマ復興戦争の和平特使として活躍し、その功績から1586年に兄の兼孝の後を継いで内大臣に就任し、1590年に木下小一郎政権誕生に伴い内大臣を辞任する。
1598年に木下首相死去に伴う首相選任に際し、木下首相の遺言により労農党等を準与党にして首相に就任し、中継ぎの軽量内閣と組閣当初は評される。
だが、実は大首相で1601年の対建州女直戦争を断行して勝利し、更には1603年の大日本連邦帝国移行を成し遂げる大成果を挙げる。
1606年の衆議院選挙の労農党敗北に伴い、首相を辞任する。
そして、1614年の伊達政宗首相誕生に伴って内大臣に復帰、1619年の薨去まで務める。
これは摂家に人が乏しい状況で止む無く行われた内大臣人事であり、本人としても苦渋の決断だったが、義理の姪になる尚侍の鷹司(上里)美子と連携して、若い後水尾天皇陛下を良く支え続けた。
尚、信長夫妻の娘である妻との仲は睦まじかったが実子に恵まれず、複数の愛妾にも子が無かったので、兄の兼孝の孫になる康道を養子に迎えて、二条家の後継者にすることになった。
(作者としての呟き)
本当に木下小一郎の死後、労農党が与党である形で誰を首相にすべきか、散々に悩んだ末に選んだ人材なのですが、私の筆が奔った結果として、超大物政治家に成長してしまいました。
何しろ日系植民地の自治領化を果たし、この世界の日本を連邦国家に移行させる大事業を完遂し、又、将来の対ローマ帝国戦争を見据えて、対建州女直戦争を行い、後金を建国させるという布石までも打っています。
更には、晩年には薨去するまで内大臣を務め、後水尾天皇陛下を支え続けるとは。
この世界では、織田信長夫妻が娘を是非とも嫁がせたいと望んだ程の超有能な政治家として、後世まで高く評価され続ける気がします。
それに私が調べる限りですが、この当時の摂家の面々の中で、二条晴良、近衛前久の後を継げる最も有能な一人の気がしてならず、そうしたことからも首相として選ぶことになりました。
実際に私が史実を調べる限りですが、九条兼孝にしても、鷹司信房にしても長命はしているのですが、どうにも政治的に有能なイメージが湧いてこないのです。
又、一条家は内基の後継者に悩む史実があり、この辺りはこの世界でも同様です。
尚、近衛家は前久の後、信尹が後を継ぎますが、史実と似た状況から外甥の信尋が後継者となります。
更に言えば、信尹にしても、私が見る限り、どうも有能なイメージが湧きません。
そういった事情が相まった末に、この世界の二条昭実は摂家の一員として、史実以上の活躍を強いられる(?)事態が起きました。
更に考えれば、織田(三条)美子を近衛前久が鍛えたように、鷹司(上里)美子を二条昭実が鍛える事態が作中で起きたような想いが、今になって私はしてなりません。
それにしても、鷹司(上里)美子が中宮に成ったのを、あの世で知った昭実は、どんな想いがしたのか、ちょっと気になります。
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