第56話 島津義久と亀寿(まとめ編)
島津義久と亀寿の登場部ですが、作者の私自身が考えてみると、想わぬところで登場していそうな現実があります。
そんなことから、申し訳ありませんが、登場部は省略します。
後、義久よりも亀寿の方が、本編では登場している現実があり、そうしたことから、このような話になりましたが、どうか緩く見て下さい。
(更に言えば、本編で亀寿と広橋愛が何とも言えない関係にもなっています)
島津義久 1533年生、1611年没
島津亀寿 1571年生、1630年没
島津義久は、日本の第2代首相に成るが、そこまでは有為転変を究めることになった。
そもそも論になりかねないが、義久の少年期の記憶は「皇軍来訪」による島津家の没落と絡んでいる。
1542年に「皇軍来訪」があり、それが一段落した結果、1543年に島津義久の父、島津貴久は薩摩と大隅、2国の国司に成ったが、その一方で皇軍に対する面従腹背が明らかになった為に、琉球交易における島津家の様々な特権は剥奪され、奄美諸島は琉球王国の領土として認められることになった。
どうのこうの言っても、2国の国司に成った以上は文句を言えない立場に島津家はあったが、そうは言っても、日本と琉球との交易は島津家が取次といってよい立場にあり、又、奄美諸島についても島津家が領土化しようとしていたのが共に完全に潰される等、様々な怨恨のタネが出来たのは間違いなく、義久はそれを胸に刻むことになった。
そのことが、皇軍関係者と手を組んだといえる織田信長を義久が敵視することになり、敵の敵は味方の論理から近衛前久と手を組んで、1578年に保守党を立ち上げる事態を引き起こすことになった。
その頂点と言えるのが、1582年の衆議院総選挙の勝利だが、この時、義久なりの野心から、義久は自らが首相に成る路を選び、このことが前久と疎隔する原因となった。
(とはいえ、お互いの利害関係から完全な敵対には至らず、微妙な関係が続くことになった)
そして、1590年の衆議院総選挙敗北に伴って、義久は首相を辞任し、更には保守党党首を北条氏政に譲ることになり、それから1598年まで保守党で最大の島津派を率いて、保守党の有力議員を務めた後、1598年に三女の亀寿に衆議院議員の地盤を譲って政界を引退した。
さて、島津亀寿だが、島津義久の三女になる。
義久は息子に恵まれず、娘ばかり3人の子を儲けたのだ。
そして、散々に悩んだ末に、弟の島津義弘の息子の久保、久保が早世した後は、その弟の忠恒を亀寿と結婚させて、その間の子を島津本家の後継者にしようとしたのだが。
亀寿は女性不妊症で、子を産めなかった(とされる)。
だが、その一方で亀寿の性格は豪快で、父譲りの有能な政治家として生涯を送ることになった。
(尚、島津本家の後継者だが、亀寿は自らの長姉の孫を忠恒の愛妾として勧めることになり、それによって、忠恒の息子として光久が産まれ、光久を亀寿の養子にした上で、島津本家の後継者に光久が成った。
又、亀寿の死後、光久の実母は忠恒の継室にもなり、色々な意味で落着することになった)
1598年に亀寿は衆議院議員になって、更に父の義久の後見があったのも事実だったが、その性格等から、保守党の最大派閥の島津派の領袖にすぐになり、1606年から1614年に掛けて副首相兼蔵相を務め続けたが、その間を大過なく過ごすことになった。
更に言えば、1603年の日系植民地の自治領化移行についても、諸般の事情から表立って行動することはできなかったが、二条昭実首相が主導した大日本連邦帝国建国、植民地からの自治領移行について、亀寿が暗躍する事態を引き起こすことになり、大物政治家として名を遺した。
そうした一方、亀寿は自らの不妊症に苦悩し続けており、忠恒も妻の苦悩に寄り添い続けたと伝わる。
亀寿の実父の義久は、
「跡取りの子どもを産めない女は無価値だ」
と公言する有様で、亀寿にしてみれば完全な毒父だったのだ。
そうしたことから、亀寿は自らの姪孫を夫の愛妾として勧め、それで産まれた光久を養子にした。
そして、亀寿が没した後、忠恒と光久は手厚く供養した。
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