第53話 近衛前久(まとめ編・上)
この世界では、上里家、松殿家が摂家に加わっているので、五摂家ではなく七摂家になっています。
又、北米独立戦争を始めとして様々な戦争を主導したのが労農党であることから、保守党は反戦主義を唱える政党、と自他共に任じる政党になっています。
近衛前久 1536年生、1612年没 (第4部から最終部まで登場)
現在では七摂家になったが、当時は五摂家の筆頭だった近衛家当主の近衛稙家の嫡長子として1536年に生まれる。
尚、出生時には知る由も無いことだが、同年にシャムのアユタヤにおいて、結果的に40年以上に亘って抗争を行ったライバル、宿敵となる織田(三条)美子も生まれている。
片や日本の戦国時代で衰微していたとはいえ、格式から言えば五摂家筆頭の地位が産まれていた時から約束されていた近衛前久と、何も無ければアユタヤの下町で貧乏生活の生涯を過ごす筈だった美子を、ライバル、宿敵にした発端が、1542年の「皇軍来訪」だった。
「皇軍来訪」によって、足利幕府は崩壊したが、更にそれによって足利将軍家と姻戚関係を結んでいた近衛家も朝廷、政府内で冷遇されるのは止むを得ないことだった。
その為に20年に亘って、近衛家は雌伏を余儀なくされ、父の稙家は散位で過ごすことになり、前久は切歯扼腕しながら、少年期を過ごすことになった。
更に言えば、しばしば誤解されているが、この当時の前久は対外強硬論を唱えて、衆目を集めている。
例えば、有名な言葉、
「以後、明帝国政府を相手とせず」
は、ライバルの美子の口癖とされることが多いが、実はこの頃の前久の発言が発端なのが好例である。
そして、1562年に主に中南米大陸を舞台として、日本対スペイン戦争が本格的に始まることになった。
この当時の日本政府は、「皇軍来訪」後に試行錯誤の末に太政官政治制度を確立し、名目上は今上陛下を、事実上は太政大臣をトップとする政治制度を確立しており、九条稙家が太政大臣を務めていたが、老齢であることに加え、文字通りに世界を舞台とする大戦を遂行せねばならない事態から辞職することになった。
そして、二条晴良と抗争の末に、前久は太政大臣に就任して、対スペイン戦争を遂行して、勝利を手中にしつつあったが、そこに起きたのが、1568年のエジプト独立戦争だった。
この問題解決の為に、前久は美子を三条公頼の正式な死後養女として更に尚侍に任じて、自分を正使に美子を副使にして、オスマン帝国に乗り込んで事態解決に当たり、それに成功したのだが。
政治を知らない庶民の唯の女性、とこの頃の前久は美子のことを考えていたのが。
前久曰く、
「自分の生涯の一大痛恨事だ。九尾の狐に完全に儂は騙された」
と永く嘆く事態が、この直ぐ後で引き起こされた。
美子は密やかに晴良と手を組んで、前久を太政大臣から辞任止む無しの事態に追い込んだのだ。
そして、今上(正親町天皇)陛下の深い信認を美子は得ることにもなった。
その後の数年に亘る政治的事態の積み重ねから、大日本帝国憲法制定から衆議院、貴族院という二院制国会創設から、最終的に織田信長内閣誕生という事態にまで至るのだが。
その間の政府内の政治的暗闘は、前久対晴良と美子が、主に繰り広げていたと言っても過言ではないのが当時の現実だった。
その結末が、1574年の織田内閣の誕生であり、又、前久の内大臣就任だったのだ。
だが、前久としては、やはり日本の政治を握る首相就任を目指したかった。
そうしたことが、信長率いる労農党に対抗する為の保守党結党に前久が奔走する原因となった。
「皇軍来訪」以前からあった島津荘を介した関係からの島津義久と前久の提携が、最初の軸となった。
そして、前久と義久の呼びかけは、「反織田(労農党)包囲網」を形成することになった。
その結果、1578年に島津義久を党首として保守党が結党されることとなり、1582年に保守党が衆議院議員選挙で勝利を収め、信長の首相辞任を引き起こすことになった。
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