第48話 羽柴秀吉(まとめ編)
言うまでもないことですが、木下藤吉郎と羽柴秀吉は同一人物です。
ですが、この世界では別人扱いをされており、この話の描写が通説になっています。
羽柴秀吉 ?年生、1595年没 (第5部から第10部まで登場)
一般的には羽柴秀吉として知られているが、実際に羽柴姓であったか否かについては、一部の歴史学者から疑問が呈されている。
というのも、日本本国の本籍地が不明であること等から、羽柴秀吉名での戸籍が未だに見つからない、と言う現実があるからである。
この辺り、当時の時代背景も合わせて述べるならば。
本来からすれば、日本の植民地で子どもが産まれれば、速やかに最寄りの役場等に出生届を提出して、それによって、日本本国の戸籍に記載されるのが、当然とされていた。
だが、現実問題として、日本の植民地は急激に拡大しており、更に何とか役場等に出生届を提出しても、本国の本籍地で戸籍に精確に記載されるか、というとしばしばままならない事態が起きていたのだ。
そうしたことから、羽柴秀吉は北米の日本植民地(具体的にはカリフォルニア)で生まれ育ったとされてはいるが、秀吉自身が自らの本籍地について、両親から正確な所を聞いていなかったこともあり、本籍地は不明で、羽柴という姓にしても、本来は橋場等の別字ではないか、という主張が為される現実があるのだ。
ともかく羽柴秀吉が、歴史上に明確に表れるのは1569年のことである。
それまでカリフォルニアで灌漑設備の整備をやっていた、との触れ込みでパナマに現れ、そこで、周囲に自らの知識等を売り込んだことから、パナマ運河建設の一翼を担う存在になったのだ。
だが、この頃の日本政府としては、スエズ運河建設の方を重視しており、パナマ運河建設は後回しで、取りあえずはパナマ地峡鉄道建設に注力して、更にパナマ運河建設の事前準備、調査を行っていた。
その為に秀吉はパナマ地峡鉄道建設をまずは行い、その後でパナマ運河建設を行うことになった。
その一方で、これは必要性に迫られたことでもあった。
パナマ運河は標高差も大きく、建築資材等の物資運搬も一苦労では済まず、事前に複々線化されたパナマ地峡鉄道の建設無くして、パナマ運河建設は不可能といって良いことだった。
後、この頃の秀吉は現地女性と関係を持って、一子の秀頼を儲けたのだが。
後から現れた木下藤吉郎の元妻のお寧のアタックに陥落して、秀吉はお寧と結婚し、現地女性は伊奈忠次の後妻になって、この複雑な男女関係は収まることになった。
(尚、この一件には、後の小早川道平元外相が、まだ20代前半の身で解決に奔走しているが。
小早川元外相曰く、
「自分の養母と異父姉(上里愛子と織田(三条)美子)よりも、遥かに解決は楽で左団扇だった」
とのことである)
そして、北米独立戦争の戦費問題等も絡んだことから、秀吉が現場監督等を務め上げた日本のパナマ運河建設は1586年に完工することになって、秀吉はその後の人生を、パナマで悠々と送るつもりだったらしいが。
ローマ帝国からスエズ運河の維持管理等の仕事を依頼され、更に帝国内の運河整備に対する顧問の仕事も依頼されたことから、秀吉は妻子と共にローマ帝国に移住することになり、更にローマ帝国人に妻子と共に帰化してなることになった。
ローマ帝国人になった後は、既に50歳を過ぎていたことから、基本的に事務仕事が主にならざるを得ず、現場仕事は息子の秀頼等の部下に任せざるを得なかったが。
そう言った状況が、後に世界史上最大の運河網として知られる、モスクワを中心とする「五海の港」運河を秀吉に構想させることになり、この構想を具体化した上申書を受け取ったエウドキヤ女帝が、実際に建設にまい進する事態を引き起こした。
1596年にコンスタンティノープルにて、ガンによって死去する。
その死をお寧と秀頼が看取った。
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