第45話 上里(鷹司)松一(まとめ編)(おまけ)
本来ならば、単に上里松一という表題にすべきなのでしょうが、それでは同姓同名で同じ表題になるので、上里(鷹司)松一という表題にしました。
又、次話もまとめ編の続きにほぼなっていますが、解説編を兼ねてもいます。
上里松一 1619年生 ?年没
鷹司信尚と鷹司(上里)美子の次男になり、母方祖父の上里清の養子として上里家を継ぐ。
尚、松一は摂家の鷹司家の嫡子であり、更に美子中宮の実子にもなることから、義父になる後水尾天皇陛下の勅旨もあって、上里家は松一が当主になって以降は摂家になった。
更に言えば、松一は実は最も実母の美子の政治的才能を承け継いだとされており、政界、宮中の黒幕的存在と見なされる生涯を送ることになった。
これは、松一の正妻が、後水尾天皇陛下と千江皇后陛下の第一皇女になる文子内親王殿下であるという事情も加わってのことだった。
このために、例えば、後水尾天皇陛下の次に即位した後光明天皇陛下にしてみれば、上里松一は異父兄であり、更にその妻は異母姉という事態が起きたのだ。
そういった血縁関係から、政界の実力者の多くも、松一には一目置くどころではない態度を執らざるを得ない事態が生じた。
何しろ二重の意味で、今上陛下の兄といえる存在なのだ。
そんな存在は、これまでの日本史に存在しなかったと言え、どのような処遇が為されるべきか苦慮することになり、上里家は摂家の中でも特に「制外の家」と見なされる事態が起きた。
もっとも松一自身は、それこそ義理の大伯父になる上里勝利と似通った行動を執り、政治的に明確に動くことは無く、ひたすら陸軍の軍人として自らを律して行動することに務めたとされる。
例えば、摂家当主として、松一は25歳で従三位(これは平民であれば、陸軍大将の官位とされていた)に叙せられたが、
「私は現役の陸軍の軍人である以上、貴族院議員は退役するまで休職する」
と宣言して、実際に貴族院議員としては、現役軍人時代に行動することは無かった。
(従三位以上の官位を持つ者は、自動的に貴族院議員に成れたため。
もっとも、それまでも恒例として現役軍人は貴族院議員を休職していたが、上里松一が宣言したことから、後に国会法において現役軍人の議員兼職は禁じると明文改正された)
だが、その為に却って、周囲が松一の意見を忖度しようとする事態が生じた。
それこそ何も言わない黒幕的存在というのは、周囲からすれば極めて厄介な存在である。
いつの間にか、敵に回っているのでは、と警戒して、味方にせねば、と配慮する方向で、周囲が動くのは当然と言えた。
そして、動くときには、果断に松一が動いたのも、それを促進することになった。
例えば、義理の従弟になる九条幸家の三男である松殿道基が1646年に急に薨去した際、松殿家の後継者として、自らの次男になる道家を押し込んでいる。
又、自らの妹の孫になる一条冬経に子が無かったことから、一条家断絶の危機が起きた際は、自らの長男の次男になる兼香を一条家の養子にしている。
これに対しては、一条冬経の従弟になる醍醐冬熈を、一条家に復籍させて醍醐家を絶家にするという案も強く主張されたのだが、松一が、
「摂家は本来は藤原氏が為るべきモノ、醍醐家は源氏であり、摂家に復籍すべきではない」
と強く主張したことから、兼香が一条家を継承することになった。
その為に、1700年前後になると、上里松一の男系の孫が七摂家の中で松殿、一条の二摂家の当主となり、又、松一の兄の鷹司教平の男系の孫が七摂家の中で九条、二条、鷹司の三摂家の当主となる事態が引き起こされた。
そして、松一の姉の智子の孫に当時の近衛家の当主の基熈が為ることから、全ての摂家の当主が松一の血縁者となり、摂家の最長老として重んじられた。
その為に、
「御堂関白を凌ぐ」
と謳われる存在に松一はなったが、松一自身は政治的に明確に動くことは無く、常に重んじられる存在の儘、この世を去った。
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