第39話 徳川秀忠(まとめ編)
徳川秀忠 1576年生、1632年没 (第9部から最終部まで登場)
徳川家康と継室になる西郷氏との間の長子として秀忠は産まれた。
更に言えば、本来ならば徳川家の跡取り、嫡長子になる筈の信康が、北米独立戦争の際に家康から勘当されたことから、産まれてすぐに事実上の徳川家の嫡長子として育てられることになる。
そして、1590年に、14歳になって早々、浅井長政とお市の間の三女にして、エウドキヤ女帝の義妹(エウドキヤ女帝の夫は浅井長政夫妻の長男の亮政)になる小督と秀忠は結婚する。
(この裏には、織田信長夫妻やエウドキヤ女帝らが、宇宙開発を国際協力下で進めようと考えたという裏があったとされる)
そして、この結婚に伴い、秀忠は東方正教徒に改宗することになり、東方正教徒としての生涯を送ることになった。
(この事情について、少し補足説明すると。
それこそローマ帝国が復興から領土を急激に拡大し、更に東西教会合同を推進していた頃だったので、エウドキヤ女帝を始めとするローマ帝国関係者が、小督の夫になる秀忠も東方正教徒に改宗すべきだ、いや、秀忠が東方正教徒にならないのなら、小督の夫に相応しくない、と主張したという事情があった)
尚、この頃の家康も秀忠も、宗教について日本人的感覚から大らかなところがあり、便宜的に秀忠が東方正教徒に改宗すれば済む、と考えていたようだ。
だが、これは結果的には余りにも浅慮で、小督は厳格な東方正教徒といって良く、秀忠の浮気を全面的に許さず、秀忠の生涯で一度だけ抱えた愛妾さえも殺そうとする程だった。
その結果として、秀忠の子を妊娠した愛妾は日本に亡命することになり、遥か後に秀忠の子(家康の孫でもある)広橋正之が、日本の首相に成る基を築くことになる。
話がズレかねないので、秀忠の生涯に話を戻すと。
父の家康らの薫陶を受けて、父の跡を継いで将来は北米共和国大統領に就任しようと秀忠は精進した結果、1606年に北米共和国大統領に就任、4期16年に亘って大統領を務める。
その間に北米共和国憲法を大改正して、議院内閣制と大統領制の併用という北米共和国の政体を議院内閣制を廃止することで、大統領専制と日本等から揶揄される政体に変えたこと等から、第二の建国がこの際に行われた、とさえ言われる功績を遺した。
更に人類初の月面到達を始めとする宇宙開発を推進し、又、ユーラシア大陸横断鉄道を象徴とするユーラシア大陸諸国の宥和を推進する等、「栄光ある孤立」を旗印にしつつ、世界各国の協調を進めた事でも評価されており、平時の偉大な大統領と北米共和国内外で称賛された。
だが、その一方で、家庭的には恵まれたとは言い難い生涯を秀忠は送った。
正妻の小督との間に二男五女を儲けたが、長男の家光は政治家になって欲しい、という父の願いを拒んで、陸軍の軍人として生涯を送った。
(尚、最終的には祖父や父の余光もあったのか、陸軍大将になった)
そして、次男の忠長は、徳川家の次代の政治家になってほしいという両親の期待を負担に感じたのか、二十代半ばで発狂してしまい、殺人事件を犯した末に射殺されるという騒動を引き起こして、徳川家の政治生命が事実上断たれる事態を引き起こした。
(この一件だが、どちらかというと秀忠よりも小督の方が悪かった、とされている。
小督が、忠長と正之を何かと比較して、兄の正之に負けるな、と忠長を厳しく指導したことから、忠長が発狂する事態にまで至ったのだとされる)
そんな家庭的な不幸も後々で起こるのだが、1626年に妻の小督が亡くなった後は、公然と広橋正之を実子として認めて父子の交流を行い、1632年に亡くなって国葬に付された。
尚、この世界の忠長の殺人事件が起きたのは、小督と秀忠が亡くなった後で、その二人は知らない話になります。
又、史実では秀忠と正之は、父子として交流することがありませんでしたが、この世界では九条完子らが仲介することで、父子の交流が為されることになりました。
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