第27話 鷹司(上里)美子(まとめ編・下)
他でも書きましたが、このまとめは、この世界における1670年頃のネット情報の転載という形を執っています。
そのために本編完結後の出来事が載っています。
(尚、ネット情報なので、他のまとめ話と同様に、何処まで本当なのかはご想像にお任せします)
鷹司(上里)美子は、摂家当主の薨去が相次いだ結果、1616年に貴族院議員になってすぐに九条兼孝、二条昭実、鷹司信房、九条幸家、鷹司信尚に次ぐ(事実ではになるが)第6位の貴族院議員になった。
更に1619年に二条昭実が薨去したことから、九条兼孝は養父、鷹司信房は義父、九条幸家は義兄、鷹司信尚は夫ということになり、更に美子の上にいる4人に政治力が余り無かったことから。
今上(後水尾天皇)陛下の寵を受けた尚侍ということも相まって、鷹司(上里)美子が完全に貴族院を牛耳っている、と当時の新聞等で報道される程になったが、その一方で、美子はバランス感覚のある極めて有能な政治家であることを示し続けた。
このような状況下から、今上(後水尾天皇)陛下は、何れは美子を首相にしたい、と考えていたという説もある程だが、そこに起きたのが、1621年の鷹司信尚の急な薨去である。
最愛の夫の死を受けて、美子は夫の菩提を弔う為に出家したいと周囲に零した程だった。
この状況に際して、政敵を潰す為という根強い噂があるが、皇位継承に不安を覚えていた伊達政宗首相が、一帝二后を復活させて、美子に中宮として入内するように勧めることになり、それに千江皇后陛下も賛同し、皇后陛下の意向を汲んだローマ帝国や北米共和国までも、積極的に美子の中宮入内を勧めたことから、1621年に美子は中宮として入内した。
(この当時、千江皇后陛下が産んだ皇太子殿下は極めて病弱であり、実際に1622年に薨去している。
更に言えば、ローマ帝国も北米共和国も、この当時は美子の政治力を怖れていたという説がある)
尚、美子の政治力は、入内前の僅か3か月で衆議院の優越を認める憲法改正を成功に導く程であり、又、当時の保守党党首だった上杉景勝は美子が入内した際、
「中宮陛下になられたのを慶賀すべきだが、鷹司(上里)美子様を本当に首相にしたかった」
と心から惜しむ談話を発表させ、それに中国保守党の毛利輝元も賛同の談話を発表した程である。
そして、排卵誘発剤を実は使ったという説があるが、1622年に親王3人、内親王2人の五つ子を産むという奇跡に近いことを起こして、皇位継承の憂いをほぼ無くした。
(五つ子は全員が成人し、それぞれが子どもを複数、生んでいる)
尚、その後、内親王を一人産んでおり、生涯で10人の実母となった。
今上陛下や千江皇后陛下との仲はずっと良好であり、1666年の千江皇后陛下の崩御を、夫と共に看取っている。
又、鷹司信尚との間に産んだ鷹司教平と上里松一は、それぞれ摂家の当主となり、九条家の次期当主の兼晴、近衛家の当主の基熈は、美子の女系の曽孫で、一条家の現当主の教輔は、美子の女系の孫になる等、摂家の当主の多くが美子の血を承けており、何れは全ての摂家当主が美子の子孫になるという観測があるほどである。
1666年の千江皇后陛下崩御を機に、後水尾天皇陛下が譲位されて上皇陛下になられたことから、皇太后陛下に転じており、上皇陛下との夫婦仲は現在も極めて親密とのことである。
全くの余談に近いが、父方叔母二人、九条敬子や中院里子の指導等を受けたことから、美子は様々な芸道に通じていることでも知られている。
古今伝授を中院通勝から受け継いでおり、八条宮智仁親王から古今伝授を承けた夫の御水尾上皇陛下らと協力してその交合等を行い、御所伝授として改めて完成させている。
音楽についても、琵琶や三線の名手として、世界で通じると評価される程である。
他の様々な芸道にも一家言を持つ、と謳われる程だが。
身体を動かすモノについては基本的に苦手で、舞踊や蹴鞠等は好まれない、と美子はされている。
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