第26話 鷹司(上里)美子(まとめ編・上)
鷹司(上里)美子 1591年生、?年没 (第9部から最終部まで登場)
(本来からすれば、鷹司(上里)美子という表記ではなく、美子中宮等の表記になる筈ですが、それは本編では余り描かれていないので、本編での主な表記にしました)
上里清と広橋愛の娘として、1591年に生まれる。
更に出生後、上里清と理子夫妻の養女に速やかに迎えられて嫡子として育てられた。
本来ならば愛妾の子として庶子になるのに、鷹司(上里)美子が上里清夫妻間の養子として嫡子にまでなったのは、実母の広橋愛を上里理子が実娘同然に可愛がったから、とされている。
(実際、日本に上里清夫妻が帰国する際に、理子は広橋愛を正式に養女にまでしている)
そして、日本に帰国後は順調に生育し、学習院で順調に学んで優秀な児童、生徒として育っていったが、1605年の女子学習院中等部2年生時代に、義理の従兄になる鷹司信尚(美子の叔母の九条敬子の夫の九条兼孝の甥に鷹司信尚はなる)に求婚されたことから、鷹司信尚の正妻になり、中等部卒で美子の学歴は結果的には終わることになった。
だが、この前後から美子本人は全く意図しなかったものの、周囲を、更に世界を揺り動かす存在に徐々になっていくことになる。
この鷹司信尚の正妻に美子がなった経緯だが、美子本人としては実父母の関係や実母が元は外国人であったことから、鷹司信尚の愛妾になりたかった(との回想やこの当時の周囲の手紙等がある)のだが、五摂家を膝下に置こうと考えていた時の今上(後陽成天皇)陛下の行動を阻止しようと考えていた近衛前久や義理の伯母になる織田(三条)美子らの行動によって、美子は鷹司信尚の正妻に成った。
(後陽成天皇陛下は、自らの皇女を信尚に降嫁させて、信尚を操縦しようとしていたのだが、美子が信尚の正妻に成ったことは、それを阻止することになった)
更に二条昭実内閣の総辞職から尼子勝久内閣の成立は、鷹司信房の内大臣就任、更に美子の尚侍就任という事態を招いた。
そして、1609年の猪熊事件の解決を美子が主導したことから、美子は18歳の身で日本の宮中の陰の支配者とささやかれることになった。
(尚、この時の処分から日本の国内外に「南極送り」という言葉が広まることにもなった)
実際に、当時は皇太子だった後水尾天皇陛下と徳川千江の縁談を、後陽成天皇陛下の意向を全く無視して、19歳にして世界を自ら回ってまとめるという剛腕を発揮している。
この時に勝手に義理の姪の縁談を進めるな、と激怒していたエウドキヤ女帝と正面から対峙した末に、エウドキヤ女帝の養女にさせて、徳川千江を日本の皇后に相応しい家格にもする等の才覚を発揮して、世界の三大国の親善を更に進めもしており、その為に後陽成天皇陛下は美子を尚侍から罷免することはしたものの、息子の結婚を認めざるを得なかった。
(尚、ここまで美子が奔走したのは、この当時、後水尾天皇陛下が美子に横恋慕しており、その目を覚ます為だったという説があるが、美子も後水尾天皇陛下も否定の談話を発表している)
そして、後陽成天皇陛下が退位されて、後水尾天皇陛下が即位した後、千江皇后陛下の意向もあり、美子は尚侍に復帰し、宮中を取り仕切ることになった。
その一方、美子は鷹司信尚との間に温かい家庭を築いており、複数の使用人がいたのもあるが、仕事と家庭を両立させ、教平を頭に智子、松一、輝子と4人の子に恵まれることになった。
だが、この頃から摂家では当主の薨去が相次ぎ、美子はそれに頭を痛めることになった。
(1611年に一条内基、1612年に近衛前久、1614年に近衛信尹、更に1619年に二条昭実と薨去していたのだ)
本編で言えば第14部までの流れに基本的になります。
最終部以降の史実(?)のまとめについては、次話で描きます。
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