第24話 広橋愛(出生等の謎についてのまとめ・特別話)
本編で、広橋愛は織田(三条)美子の隠し子云々説を描いたので、ある意味では悪ノリしました。
この世界では、こういった諸説があるということで、緩く見て下さい。
広橋愛は、公式には1569年にチグリス・ユーフラテス川の畔のマンダ教徒の村で生まれ育ったが、幼い頃にオスマン帝国とサファヴィー朝との戦乱に巻き込まれて、両親等を失い、自らは奴隷になった。
そして、何度か転売された末、イスラム教徒に改宗した後でオスマン帝国のハレムに献上されて、更には上里清に下賜された、とされている。
だが、この成育歴については、トンデモを含めた複数の異説が唱えられている。
多くの学者等が指摘するのが、広橋愛がハレムに入ったのは、オスマン帝国の公文書上では1589年となっていることである。
本当に幼児の頃に奴隷になっていたのならば、もっと早くハレムに入っていたのではないか、ということである。
(更に言えば、ハレムに入るのは処女に限られている。
何故に20歳まで奴隷なのに、更に言えば美女なのに、処女でいられたのか、といわれるのだ)
その為に広橋愛が奴隷になったのは1588年か、1589年頃ではないか、という有力な説がある。
それならば、処女だった説明がつくとされるのだ。
だが、それならば何故に奴隷になったのか、という疑念が湧く。
この頃にはオスマン帝国とサファヴィー朝の戦乱は収まっていたのだ。
これに対しては、この当時のスンニ派過激派がマンダ教徒の村を攻撃し、広橋愛の家族を含む村民を殺して愛を奴隷にしたのだ、という主張がされている。
それに傍証もある。
広橋愛は生前に本来のマンダ教の教えを残したいとして、幾つものマンダ教の内容を記した文書を書き残している。
こういった文書が書けるということは、それなりに成長するまで、マンダ教徒の村で育ったからだ、という主張がされるのだ。
さて、上記はまともな異説といえるが、トンデモ説がある。
それは広橋愛が、織田(三条)美子の隠し子だという説である。
更に言えば、その相手として正親町天皇陛下やセリム2世が上げられているのだ。
その証拠とされるのが、広橋愛の出生が1569年とされている一方、織田(三条)美子が1568年から1569年に掛けてオスマン帝国を訪問していることである。
更に言えば、広橋愛の成育歴については、広橋愛の証言しかなく、広橋愛の幼年期を知る親戚や知人は皆無なのだ。
こうしたことから、1568年から1569年に掛けて、織田(三条)美子がオスマン帝国を訪問した際に、秘密裏に広橋愛を産んで、オスマン帝国のハレムで育てられた、更に書類が偽造されて、上里清と結ばれたのだ、という説が生じている。
その傍証とされるのが、広橋愛の実子の鷹司(上里)美子である。
世界史上最高の女性の暴君とされるローマ帝国のエウドキヤ女帝と正面から対峙できた人物は、父のイヴァン4世を除けば、織田(三条)美子と鷹司(上里)美子の二人だけである。
更に言えば、単なる女奴隷の子がエウドキヤ女帝と対峙できる筈が無い。
鷹司(上里)美子は織田(三条)美子の孫娘だった、つまり、広橋愛が織田(三条)美子の子だったから、エウドキヤ女帝と対峙できたのだ、と説かれるのだ。
これに対しては、肌の色等も含めて織田(三条)美子と広橋愛は全く似ていないこと等を根拠として、多くの学者等は否定しているのだが。
織田(三条)美子の両親、サクチャイとプリチャはシャム王国の出身であり、更にそれ以上の家系がたどれないことから、実はアラブ系の血が織田(三条)美子に流れており、いわゆる先祖帰りから、広橋愛が生まれたとすればおかしくない、という指摘が為されている。
実際、当時のシャム王国にはアラブ商人の定住街があり、織田(三条)美子がアラブ系の血を実は承けていてもおかしくはない。
そんな複数の異説が広橋愛にはある。
本文中で、本来のマンダ教云々という話が出てきますが。
この世界では、マンダ教の信者の殆どが北米共和国に逃れた末にマンダ教の教義等が変わっており、広橋愛からすれば、あれは本来のマンダ教ではなく、新マンダ教だと考える事態が起きているからです。
(その為に本編中でも、新マンダ教という描写があります)
ご感想等をお待ちしています。




