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第五話 潔癖教師


「え? 記憶を失う前の蓬莱くんについてですか?」


 僕に質問された萱愛先生は、一瞬だけ驚いたように目を丸くした後、少し考え込むよう首を傾げた。

 そう、僕はクラスメイトではなく、担任の先生である、萱愛先生に以前の自分について聞き出すことにしたのだ。職員室の前で萱愛先生を呼んで貰うように頼み、わざわざ廊下に来て貰って質問をぶつけてみたというわけだ。

 だが考え込むようにしていた萱愛先生は、突如として目に涙を浮かべて、僕に微笑み……


「え?」


 なぜか僕の両手を、自分の両手で包み込むように握ってきた。


「あ、あの? どうしました?」

「えらいわ蓬莱くん。自分の境遇を悲観せずに、ちゃんと前に進もうとしているのね」

「え、ええ?」


 萱愛先生の言っていることが、いまいちわからない。


「ああ、ごめんなさい。先生つい感極まっちゃったの。だってそうでしょう? 記憶喪失なんてとてもつらいことのはずだし、もしかしたら自殺さえ考えてしまうかもしれない。でも君はそうはならずに、ちゃんと自分の記憶を取り戻して、今まで通りみんなと仲良くなろうとしているんでしょう? 立派だと思うわ」

「は、はあ……」


 そういうつもりで質問したわけじゃないんだけど、話が進まなそうだから黙っておく。


「それで、記憶を失う前の蓬莱くんだったよね? そうねえ、先生から見たら、とても真面目な生徒だったわ」

「真面目……ですか」


 うーん……それだけだとあまりどういう人間かわからない。というか、真面目な生徒って言われても、何か問題を起こさない限り、大抵の生徒が当てはまりそうだけども……


「ただね、亡くなった瀧くんがね、蓬莱くんについて前にちょっと気になることを言っていたのよ」

「瀧くんが?」

「そうなの。確か彼は、『蓬莱くんは扇さんと僕が仲良くなるのを妨害しようとしている』って言ってたわね。でもそんなことないと思うのよ。だって先生のクラスの生徒は、みんな良い子なんだから」

「……」


 ……正直、これはかなり気になる情報な気がする。瀧くんがどういうつもりでそんなことを萱愛先生に言ったのかはわからないけど、彼も扇さんに関わっていたことは間違いなさそうだし、彼は僕の記憶に関わる重要な人物なのかもしれない。

 ん? だけどちょっと待て。扇さんの話によると、僕は記憶を失う前から彼女に暴力を受けていたはずだ。そのことについて、萱愛先生は知っているのだろうか。


「あの、萱愛先生」

「なに?」

「ちょっと話は変わるんですが、実は僕……相談したいことがありまして」

「あら、生徒の悩み事を聞くのも先生の仕事よ。なんでも言ってちょうだい」


 ニコニコと微笑む萱愛先生に少し安心感を覚え、僕は言ってしまう。


「あの、僕って記憶を失う前から今に至るまで、扇さんにその……色々暴力を受けているみたいなんですけど、そのことについて何か知って……」


 しかし僕はこの件を彼女に話したことを、即座に後悔した。なぜなら……


「何を言ってるのあなたは!!」


 先ほどまで微笑んでいた萱愛先生が、急に怒りの形相で怒鳴りつけてきたからだ。


「いいですか蓬莱くん! あなたは今とんでもないことを口にしているのよ! 扇さんがあなたに暴力を振るうだなんて、そんなことあり得ないじゃないの! どうしてそんなデマカセを広めようとしてるの!?」

「デ、デマカセ? いや、その、僕は実際に……」

「言い訳しないの! 先生のクラスの子たちは、皆いい子たちばかりなの! そんな子が他人に暴力を振るうわけないでしょ! どうしてあなたはそんなひどいことを先生に言うの!?」

「……」


 あまりの言葉に、僕はあっけにとられている。もしかして萱愛先生は、この世にいじめなんてないとか、そういう考えを持っている人なのだろうか。この世にいる人間が、みんな根は善良で平和を望んでいると信じて疑わない人なのだろうか。

 だけどここまで僕の言葉を頭から否定されるとなると、おそらく彼女は本当に、クラス内で暴力があるとは全く信じていないのだろう。全てが僕の作り話だと思っているのだろう。

 そうなると、萱愛先生が扇さんの僕への暴力を知っていたとは思えない。萱愛先生は扇さんのことを、『心から信じている』。何を言っても無駄な気がする。


「……萱愛先生、僕は」

「蓬莱くん、君はとんでもないことをしようとしているのよ。でも大丈夫、先生は君のこともちゃんと信じているから。きっと蓬莱くんは、扇さんとケンカしちゃったのよね。それでちょっとムキになってそんなことを言っちゃったのね。心配いらないわ、先生がきっと、君のことを正しい道に戻してあげるから」

「……あの、先生」


 口を挟むこともできないまま、始業時間の一つ前のチャイムが鳴り始めた。


「ほら、そろそろホームルームが始まる時間だよ。教室に行きなさい」

「……はい」


 だめだ、どうやら萱愛先生は何も知らないようだ。これでまた振り出しに戻ってしまった。


 だけど僕はこの後、状況は振り出しに戻るどころか、更に悪化したことを思い知ることになる。

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