18
ローガンさんは自分の執務室に私を連れて行くと、姿が見えなくなる魔法を解いてからソファーを勧めた。
「あの、どうして私をここに連れてきてくれたんですか?」
「ふふ。だって『私には大したことはできないかも』なんていうから。立場上、裏方に徹するっていうのは仕方ないにしても、自分の功績をまったく知らないのはもったいないじゃない」
「功績って……」
「さっきの歓声聞いたでしょ? あれはすべて妃殿下に向けられたものなのよ。ねえ、どんな気持ちだった?」
ローガンさんに認められたことはうれしかったものの、さすがにあそこまでされると戸惑いも大きい。
「喜んでくれるのはうれしいですけど、やっぱり私の功績だとは思えないですよ。栄養ドリンクにあんな効能がつくと、予想していたわけじゃないですし。それに、万歳三唱は、あはは……。私の身の丈にあってなくて、ヒッてなりましたよ……」
「ぷっ。変なお姫様ねえ。庶民的というかなんというか」
「それはそうですよ。この世界に転生する前の私はいち庶民なんですから」
「でも今は妃殿下という地位を与えられたわけじゃない。普通だったら調子に乗るでしょ。結婚や出世によって突然高い地位を手に入れた人間が、生まれた時からずっと高貴な身の上だったって顔をするなんてよくある話よ。今までそんな奴、何人見たかわからないわ」
「でも人生って、調子に乗った途端足場を外してきませんか?」
私も若い頃は多少調子に乗ったりした経験がある。
そして見事にしっぺ返しをくらった。
「妃殿下ってそういうとこ年齢不詳な感じがするわよね。陛下に言い寄られてたじたじしてるところは見た目通りの年齢に見えるけど、恋愛以外では案外落ち着いた考えを持ってるし。元のあなたの中身っていくつなの?」
そういえばローガンさんと『佐伯えみ』について話したことはまだ一度もなかった。
「あ、えっと、私は……二十八歳でした」
隠していたわけではないのに、十五歳のエミリアちゃんの体に入っているせいでサバを読んでいるような気になって、やけに声が小さくなってしまった。
「へえ、二十八歳ね。……」
「その沈黙は何ですか……!」
「……二十八歳だったら、全部知っても受け止められるか。責任感も強いし、あれだけもてはやされても浮わつかなかったもんな……」
「ローガンさん?」
初めて会ったときのような口調で呟いたローガンさんは、意を決したように顔を上げた。
「妃殿下、ちょっと失礼するわよ」
「え?」
私に向かって伸ばされた手のひら。
あっ、魔法をかけられる……!
そう悟った直後――。
信じられないことに、私は土砂降りの平原に佇んでいた。
◇◇◇
な、何……?
どうなってるの……!?
ここはどこ?
私、ローガンさんの執務室にいたはずなのに……。
混乱しながら辺りを見回す。
カァーカァーカァー。
暗い空の低いところを、烏の群れが旋回している。
怒声、呻き声、爆発音、乱れたひずめの音、馬のいななき。
それらが戸惑う私の耳にけたたましく襲いかかってくる。
視線を落とすと、そこら中に白い軍服を赤黒く染めた兵士たちが倒れているのが見えた。
ぴくりとも動かない彼らを見た途端、まともに呼吸ができなくなった。
ここは戦場だ。
そう気づいたとき、重苦しい空に雷鳴が轟いた。
白く走る稲光が、容赦なくすべてを照らし出す。
「……っ」
破壊された石塀の上に、おぞましい見た目をした巨大な蜘蛛がいる。
赤黒く光る八本の手には、兵士たちが捕らえられている。
仲間たちが捕らえられた者を取り戻そうとして、必死に攻撃を続けているが効果はない。
ミシミシ――。
耳を塞ぎたくなるような音を立てて、蜘蛛が兵士の体を握り潰す。
人間のものとは思えない悲鳴は一瞬で途切れた。
力を抜いた蜘蛛の手から、地面に落ちたものは、もう人の形を成していなかった――。
◇◇◇
「あ……」
戦場に飛ばされた時と同様、無遠慮な力に引っ張られて、気づけば私はもとの執務室にいた。体が微かに震えている。
「おかえりなさい、妃殿下。アタシの見てきた戦場はどうだった?」
「……今のは、ローガンさんの記憶?」
「そう。アタシが国境の防衛戦で経験したことを、魔法を使って、あなたに疑似体験させたの。でも、よかった。やっぱりあなたはこの現実を受け止められるほど、強い心を持っていたわね」
「……」
本当は今にも吐きそうで仕方ない。
でも、そんなふうに言われてしまったら耐えるしかなかった。
もともと私は弱音を吐くのが苦手で溜め込むタイプだったので、気持ちを飲み込むのなんて慣れたものだった。
その結果、社畜化してしまったわけだけれど、こういう性格は簡単には直らない。
「ひどい戦場だったでしょ? 」
「……はい、驚きました」
「外傷だけなら、回復魔法や魔法で作り出した回復薬でいくらでも治せる。なんなら死人の傷でもね。でもそれは、体という入れ物を修復しているだけにすぎないの。どんな魔法を持ってしても、生命力を再生させることはできなかった。今まではね」
ローガンさんは意味深に目を細めた。
「外傷を治したあとは、個々の生命力が戻るのをひたすら待つしかなかったのよ。不思議なことに瀕死の怪我を負った者は、魔法で治療を行ったあと、心を失った廃人のようになってしまうの。それを私たちは『生命力が衰えている』と解釈しているわ」
最初私は生命力という言葉を、休んだり眠ったりすれば自然と回復する力――つまり体力と同義だと認識していた。
けれど、どうやらそういうわけでもないらしい。
おそらく今ローガンさんが言っているのは、文字どおり『生命を維持するための力』のことなのだろう。
「 その……廃人のようになってしまうのには、何か理由があるんですか?」
「無理矢理に治された体と、奪われたままの体力の間で、帳尻が合わなくて心が混乱してしまうんじゃないか、なんて言われてるけれど。本当の原因はいまだに解明されてないの。だから対処しようがなかったってわけ」
そこまで話すと、ローガンさんは深々と息を吐いた。
「自力で体力が戻るのは、治療した者のうち四割程度。残りの六割は、衰弱死してしまうの」
「……!」
「でもそれはこれまでの話。妃殿下の作ってくれた栄養ドリンクを飲んだ者は、即座に回復したわ。一切の例外なく、全員が助かったのよ! あなたの作ってくれた栄養ドリンクが、どれだけの救いをもたらしてくれたかわかったでしょう?」
私は絶句するしかなかった。
ローガンさんは、膝の上に乗せていた両手を組み合わせた。
まるで祈りを捧げるかのように。
「妃殿下の中には計り知れない可能性が眠っているわ。あなたがすべてを知り、受け止めて、救世主になってくれれば、この国の抱える問題は何もかも解決すると思うの。そのためにも、戦場と魔獣の真実をしっかり知ってもらう必要があったのよ。――ああ、烏が帰ってきたわ」
「え?」
立ち上がったローガンさんは、窓辺に歩み寄っていった。
彼が窓を開け放つと、室内に黒々とした羽を持つ烏が舞い込んでくる。
「この子は、アタシの魔道具よ。ほら、陛下があなたにつけてる蝶。あの子と同じようにね」
室内を一周した烏は、ローガンさんが指を鳴らした途端、なんと十歳ぐらいの男の子になった。
「えええ!? どうなってるんですか……!?」
「この子たちが人型に代わるのを知らなかったの? ルゥ、妃殿下に挨拶」
「妃殿下、初めまして。僕はローガンさんにお仕えする魔道具です」
「言葉までしゃべれるの!?」
少し長めの前髪の隙間から、澄んだ黒い目が、私を捉えてにこっと笑う。
ルゥくんは、ものすごい愛らしい顔をした美少年だった。
「せっかくだから、あの子も見せて上げる。ルゥ、蝶を連れてきて」
「はい、ローガン様」
再び烏の姿に代わったルゥくんが、窓の外へ羽ばたいていく。
それから待つこと数分。
蝶の羽を口に咥えた烏が舞い戻ってきた。
「えっ!? ま、まさか食べて……」
「大丈夫、大丈夫」
ローガンさんの軽い言葉どおり、ルゥくんがぱっとくちばしを開けると、捕まっていた蝶々が慌てたようにぱたぱた飛び回った。
よ、よかった。
先ほどのルゥくんのときとは違い、ローガンさんは何かしらの魔法を詠唱した。
すると飛び回っていた蝶々が、五、六歳の女の子の姿に変化した。
薄紫色のふわふわした髪を二つに束ねたこの子もやはり、人間離れしたものすごい美少女だった。シフォンのような素材のワンピースがよく似合っている。
ルゥくんがまた人間の姿になって二人が並ぶと、童話の中から出てきた妖精の兄妹のようだ。
「妃殿下、あのっ、あのっ……」
蝶々ちゃんは、どうしたらいいのか困っているらしく、焦った顔で私を見上げてきた。
なんとも庇護欲をそそられる。
「はじ、めまして……っ」
「か、かわいい……」
蝶々ちゃんの振る舞いは、動揺していた私の心に優しい温かさを吹き込んでくれた。
でもそれは仮初めの癒しでしかなくて、どれだけ時間が経とうとも、戦場で見てしまった光景は目に焼き付いて離れることがない。
「ローガン様、報告してもよろしいですか?」
真面目な顔でぴんと立ったルゥくんが、ローガンさんに尋ねる。
「はいはい、どうぞ」
「国王陛下の視察の予定が一時間前に変更になりました」
「は!? じゃあ今何してるのよ!?」
「城へ戻られている途中だと思います」
「一時間前に!? だったらもうすぐ帰って来ちゃうじゃない! 妃殿下を連れ回してるのがバレた!?」
「蝶を人間に戻した時点で伝わっていると思います」
「ああ、くそっ! そうだった! 解散解散! ルゥは妃殿下を離宮に送っていって! アタシはほとぼりが冷めるまで隠れてるわ!」
ローガンさんは蝶々ちゃんに向かって、また謎の呪文を唱え、その姿をもとに戻すと、青ざめた顔で部屋を飛び出していった。
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