50 暴走
隣の部屋との間を仕切る壁が、黒くネバネバした液体のようなものに汚染されていく。
その中からズズッズズッと不気味な音をたてて、髪を振り乱した少女の霊が姿を現した。
きれいな金色の髪にも、黒いヘドロのようなものが絡みついている。
ゆっくりと顔を上げた少女は、白目を剥いて室内にいる一同をぎろりと睨みつけた。
ほとんど面影がなくなるほど、怒りの感情が彼女の顔を歪めている。
でも――、見間違ったりはしない。あれは、エミリアちゃんだ。
『せっかく無礼な振る舞いを見逃してきてあげたのに……』
エミリアちゃんの怒りに共鳴するかのように、部屋の中の家具や窓ガラスがガタガタと音をたてて揺れる。
「ひいっ……妃殿下がふたり!?」
「なんなのこれ……!?」
怯えきった侍女さんたちが、悲鳴を上げながら一か所に寄り集まる。
彼女たちの目が、私とエミリアちゃんの間を忙しなく行き来する。
どうやらエミリアちゃんは、姿を隠す術を解いたらしい。
侍女さんたちは混乱して、言葉にならないような声で喚きたてている。
『黙っていれば増長して。この子に罪をかぶせようとしたのも、この子に怪我をさせたのも許せない……!』
「待ってエミリアちゃん! 私、大丈夫だから!」
エミリアちゃんはまったく聞く耳を持ってくれない。
『全員思い知らせてやる……』
ズンッと強烈な圧力を感じて、思わず床にへたり込む。
誰一人まともに立っていられる者はなかった。
エミリアちゃんは完全に我をなくしている。
これは陛下の前でなった状態と同じだ。
おそらく彼女は今、悪霊になりかかっているのだ。
彼女がもともと持っていた怒りに、ハンドクリームの件が火をつけてしまったのだろう。
『許せない……許せない……許せないぃいい』
「きゃあああっ!」
部屋の中に竜巻が湧き起こる。巻き上げられた椅子や机が、次々に飛んでくる。
まったく見境なしだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい!!」
侍女さんたちは一塊になって、泣きながら謝っている。
それでもエミリアちゃんの暴走は止まらない。
「エミリアちゃんお願い、もうやめて!」
「妃殿下、お逃げください!」
侍女長さんが私の腕を掴む。
「駄目! だって、このままじゃエミリアちゃんが――」
「危ない!」
侍女長さんの声にはっとする。
巻き上げられた机が私の真上にあった。まずい。避ける間もなく、机は私に向かって一直線に落ちてきた。
とっさに頭を庇って、身を伏せることしかできなかった。
けれど――。
「……あれ……?」
痛みと衝撃を覚悟したのに、何も起こらない。
恐る恐る目を開けると、目の前には陛下の背中があった。
「陛下!?」
「怪我はないか」
驚いて視線を上げると、私の頭上には透明なドームのようなものが出現していた。
私の上だけではない。
部屋にいる侍女さんや侍女長さんたちの上にもドームができている。
これ、陛下の魔法なのかな。
荒れ狂って飛び交う家具は、その透明なドームにはじかれている。
あんな勢いでぶつかってきてるのに、すごい……!
もしかしてバリアみたいなものなのかな。
陛下は私を振り返ると、顔を見てぎょっとした。
「待て! そなた、額を切っているではないか」
「あ、これはいま怪我したわけじゃなく……って、そんなことはいいんです! それよりエミリアちゃんが……!」
「ああ。禍々しい気配を感じて、慌てて引き返してきたのだが……。まさかこのようなことになっているとはな」
「これ、このあいだと同じ現象ですよね!?」
陛下は難しい顔で首を横に振った。
「いや、くらべものにならないくらい悪化している。こちらの声がまったく届いていないようだ。エミリアは怒りによって我を忘れている。見ろ」
陛下に促され、エミリアちゃんを見上げた。
エミリアちゃんの周囲に渦巻く黒い靄は、こないだのよりもかなり濃い。
「エミリアの纏うオーラは、どんどん強大なものになっていっている。これではもう悪霊と変わらない」
エミリアちゃんと陛下は言っていた。
悪霊になってしまうと、転生の輪から外れるって。
「そんな……。どうしたらいいんですか!? このままじゃ、エミリアちゃんがあんなに楽しみにしていた転生すらできなくなっちゃう!」
「それどころか……こうなるともはや、魔法で対処するしかない」
「対処って?」
「エミリアを消滅させる」
「な……!」
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