第188話 おっさんは異世界で思いを馳せて
あれはどこだっけ?
そうそう、アルス連山を下ってからアルスの森まで行く途中だった。確かに大きな川があって、それを辿っていくとナイアガラの滝なんか目じゃない飛瀑を見ることができる。
全てが停止した世界では水飛沫の粒がきれいに見える風景となっているのだけど、あれが本当に流れているなら、きっと感動できる風景であるだろうね。
アルスの森を出ると西側のずっと先に大きな草原がある。あの頃はどんな生き物かは知らなかったけど、今のおれにはわかる。野生モビスの群れが生命力を溢れさせ、躍動感いっぱいに草原を駆け抜けている。
もしこの世界で生きて行けるなら、それをもう一度見たいと決めていたっけ。
魔族領に行けば雪が降りしきる山々がある。切り立った断崖につららがたくさん凍り付いていて、そんな人が住めそうにない環境でも分厚そうな服を身に着けた魔族たちを見かけることがあった。この世界を回るときにそこへ行って、魔族さんからそこで生きる秘訣を聞きたいとずっと思っていた。
アルス・マーゼは広大で豊かな大地。元の世界では幻想でしかないこの夢の大陸は無人の所がどこまでも広がっていて、まさにファンタジーそのもの。
ここには物語でしか描かれてなかったエルフに獣人族が生きていて、エルフさんはエロフじゃなかったけれど、獣人さんはモフモフだったんだ。もちろん襲ってくるモンスターも生息しているが、それを含めての別世界。
銀龍メリジーと風の精霊エデジーが人族の連合軍を全滅させようとしているこのときに、まず脳内に思い浮かぶは時空間が停止していたときのこと。
異世界へ転移するまでおれは神を見たことがなかった。初詣とかで神社へ行くし、友人が結婚した時に教会も行ったが、神がおれの前に現れてきて、こんにちはって挨拶されたことはなかった。
だから神様ってなにと聞かれても、あの時代のおれには答えることはできなかった。
この世界に来てから、管理神様を初め、二柱の守護とその眷属と仲良くなり、友達みたいに気軽に話させてもらった。そのために神様の御力なんて、おれにとってはすごいなあと思う程度なもので、銀龍メリジーが盗賊団を殺したときも、神話級の化け物は強いと感心したくらいだけであった。
頭の悪いおっさんには、神様の御力の恐ろしさを理解することができなかったんだな。
自分がいつも核ミサイルを撃ってる装置と歩いてきたなんて想像していなかった。人ではできない絶対的な力量の差を目の当たりにした今、初めてそれを知る。
盗賊団というのは人の財産や命を奪い、それを生業としているから、命のやり取りするのは平気というより、しなければいけないとおれは考えている。
もし自分に力がなければ奪われる側になるし、生きている限り略奪し続けることでしょう。この世界に共通する権利を守ってくれる、法律や治安を維持する警察みたいな組織がない限り、自分の命は自分で守るしかない。
だけど今回のように、騎士団や市民兵は、盗賊団が持つ犯罪的な性質を持ち合わせていないと思う。
彼らは生きるためにこの世界の道徳観と倫理論を備えていて、普段は職場で働き、友人や親族と付き合い、家族と共に日常を過ごす。普遍的な環境で周囲とすり合わせながら、市井で平凡に生きている。
確かに黒の翼のように人々を虐げる暴力集団も存在するし、人族最高という主義がラクータの人々によって叫ばれているのだけど、それは施政側が容認していることが大きく影響していると、おれはそう認識している。現にラクータ騎士団の副団長さんは、心情的に獣人族側に傾いてたはず。
人というのは生きていれば欲は出てくるし、よりよい暮らしを送りたくなる。時にはそれが他者を傷つけ、その権利を奪うこともあるのでしょう。
ラクータの人族が獣人さんたちにしたことは今でも気に食わないし、許せないとおれは思っている。そのために命がけであいつらと戦い、騎士団のやつらも殺した。
でも、きっとそれは対等な立場だったからそうしたと思う。
今、おれの目の前で人族の連合軍は、彼らにとって神からの裁きを受けようとしている。守護の眷属が持つ価値観は日頃の会話を通して、わかったように思えていたが、なにひとつおれはわかっていなかった。
ここに来て、痛感させられたのは自分の浅はかさと愚かさ。
結局おれは自分の知識と経験だけで、思いついたことをやり抜いてきたけど、肝心なところなにもわかっちゃいない。
人と人は対話が大切、ことにそれが種族間に関わることならなおさらだ。おれの目に映った獣人族は確かに苦境にあったが、今のように人族の連合軍が攻めてくる最終局面ではなかった。
どうにかここ一帯のバランスを保とうと、交易都市ゼノスの都市の長マダム・マイクリフテルは頑張っていたし、城塞都市ラクータの都市院も、ギリギリのラインで獣人族を搾取する政策を取っていた。
いずれはラクータも獣人族そのものを征服してしまおうと考えているかもしれないが、それは今じゃなかったかもしれない。
引き金を引いたのはおれ。
獣人族を住んでいた村から引き上げさせ、アラリアの森へ先祖の地へ帰郷できるようにした。交易都市ゼノスと裏で取引し、獣人族が城塞都市ラクータと手を切れるように動いた。その結果が人族の連合軍による出兵と、今でもラクータに住む獣人族の拘束。
城塞都市ラクータ側へ、周囲の都市を巻き込んでの外交と会談による対策は打てなかったのか? アラリアの森にある資源を使って、経済的な圧力をかけながら、城塞都市ラクータに住む市民の多種族に対する融和的な民意を醸成できなかったのか?
本当に目に見える問題しか解決しようとしない、自分の矮小な視野に呆れるばかりだ。
だがね、反省はするけど後悔はない。政治も軍事もわからない一介の無知なおっさんにそこまで求めないでほしい。これが今現在のおれが精いっぱいできたこと、これ以上のことはなにもできない。
だからこそ人族の連合軍と戦ったことに悔いはなかった。
おれの仲間はほとんど死んだし、ラクータの騎士団にだって死者はたくさん出ているはず。そうさせたおれがたとえ異世界で過ごした短い日々を、死亡という形で終了したとしても、巻き込まれた獣人さんたちには申し訳ないけど、それは自分がやりたいようにやってきたから文句は言えないはず。
言うなればそれが対等であり、ケジメをつけるというもの。
それゆえに今に進行中の局面はダメだ。神に種族を殺めさせてはいけない。ここでもしも人族の連合軍が、彼らの敬う女神様である風の精霊エデジーと神話にまつわる銀龍メリジーに殺されたら、彼らは末代まで救われない。
勇者のように世界そのものに影響を与え、世界が滅ぶかもしれないならともかく、たがか種族同士の争いがため、神を背きし者たちの汚名を着せられたまま神話に残る。それではいけない、そこまでラクータの人族は罪深くないんだ。
ラクータの施政側は獣人族に圧政を敷いた、それ自体に間違いはあるとおれは自分の価値観で確信してる。ただ獣人族側がそれに抵抗して、いつか立ち上がるかもしれないし、交易都市ゼノスもなんらかの手段を取ってくるかもしれない。
時代が変わって、城塞都市ラクータが自らの政治主義や体制を変化させるかもしれない。しかしここで神々が手を出したら全ての可能性が消えてしまう。
人は悪事を働き、神によって滅された。
そういうことになってしまうと種族の自浄作用が働かなくなる。人族であれ、獣人族であれ、妖精族であれ、全ての種族が裁判を神頼みにしてしまい、己を顧みるという判断をしなくなる。
おれのわがままで一方的な考えかもしれないけど、やはり人を裁くのは人でなくてはいけない。
間違いを繰り返し、それを正しながらより良い未来へ目指す。そのことがこのアルスに住む全ての種族の権利であり、義務でもあるのじゃないかな。
それにね、ここで人族の連合軍が神々に滅されたらおれが一生に渡って悔やむことになると思う。
おれという存在がなければ、銀龍メリジーと風の精霊エデジーはここに現れることは絶対にない。彼女たちがこうしてここにいるのは、おれという異世界から来た転移者のためであることは疑いようもない。
数万人がおれのために死ぬってなんの冗談だ?
そんなことが起きてみろ、神ならぬ人の子だ、たとえ生き残っても、きっとおれはそれで心を病んでしまい、どこかの山にこもったまま死ぬまで出れなくなると思う。
そんな侘しいスローライフの異世界転移はいやだ、おれはのうのうとして観光を楽しみに生きていたい。心に負った傷というのは一生治らないんだぞ、本当に勘弁してくれ。
そう考えていたおれはいつの間にか銀龍メリジーと風の精霊エデジーに背中を向け、その前に立ち、両手を大きく広げ、首を左右に振っていた。
啜り泣き、許しを請う人族の声は今でもおれの前から聞こえてくる。獣人族から尊厳と財産を奪い去り、おれの戦友を殺しまわったこいつらを生涯に渡って、決して許すことはないだろう。
だがそれはおれの感情であり、それがすなわちこいつらを神々が断罪する理由にはならない。こいつらを裁けるのは同じ立場の人たちであり、罪を贖わせるために生きてもらわないといけない。
なによりこいつらにも親兄弟がいて、その人たちは神を背いた罪人の家族として扱われることがあってはならないんだ。
風の精霊エデジーは少し前にに出て、左手の絶防の盾で巨大な竜巻に当てるとかき消されたように竜巻は四散してしまった。右手に掲げられていた滅殺の槍斧の槍先を地面に向けて下げられると、彼女はおれの右後ろにまで下がり、教会で飾られているように静寂な女神像と化している。
あるえ? 何が起きたんだ。おれの頭上で小さな太陽のような光魔法が次第に光を失わせていき、思わず上のほうへ目をやる。
光魔法の光球を魔法陣に吸収されたように、技のキャンセルをさせた銀龍メリジーが、噴火寸前の焦熱の吐息を口内に飲み込み、流線型の美しい体を少しだけ後退させると、おれの背後で控えるようにしてから、空中で二つの翼を大きく広げた。
二人とも攻撃を解除し、なにも言わずにおれの後方で佇んでいるだけ。
んん? なんかおかしいな。この構図だと人族の連合軍から見れば、彼女たちがおれに随従しているように思われてしまうのじゃないかな。
辺りへ隅々まで見渡していくと、おれが人々の視線を一身で受けていた。絶望、恐怖、驚駭、諦念、救護、未練、憤怒。様々な感情が籠る眼光に、おれは言葉を発することができなくただ立っているのみ。
ちょっと待て? こいつら、おれに救いを求めてやしないか?
平凡なおっさんにこいつらはなにを求めているのか。先まではおれや獣人を殺害しようと躍起になって勇ましく戦っていたのに、それが敵わない神の力を見せつけられると、地を這いつくばって許しを請うことしかできないというのか。
アホくさっ。張っていた最後の気力が失われ、肩から力が抜け、広げていた両腕を垂らしてしまう。
その時だった。連合軍の中からだれかが叫んだ。
「聖人様だ! 教典で伝わる通り、聖人様がおれたちを女神様と竜のお使い様からお救いしてくださった!」
その声は瞬く間に人族たちの間に広まり、それは大合唱となって戦場でこだましていく。
えっと、よくわからないけどね、人々がおれを見る目が縋って来るような眼差しになっているのはなぜか?
あるぇ? 聖人様ってもしかしておれのこと? なんじゃこりゃ!
うわー、引くわ。おれはそんな御大層なもんじゃねえ、人には羞恥心というものがあることをきみたちは知らないのか?
だからやめろ、その名でおれを呼ぶんじゃねえ!
「おれは聖人なんかじゃねえよ!」
ありがとうございました。
やっと第0話の終点に到着できました。物語が終わるまであと少しで、宜しければ最終話までお読みになって頂ければ幸いです。




