第119話 拳闘は芸術ある殴り合い
格闘技というのは一種の研ぎ澄まされて戦闘技術であるとおれは思ったりする。それは基本的な立ち回りから始まって、手や足の使い方、人が持つ戦闘本能を高めるのに優れた技であると、年末に放送される格闘技の番組を見る度にそう思わずにはいられない。
日々の鍛錬を絶えることなく鍛え上げた格闘家はすごいと常々感心させられる。一撃で相手を倒すだけの攻撃に身体が持つ全ての能力を駆使して、わずかな隙にそれを容赦なく全力で叩き込めるから、素人のおれから見れば、それは称賛するに値するだけの素晴らしい技術を持ってらっしゃるとしか言えない。
だから獅子人の長が繰り出すテレフォンパンチは、おれの動体視力と身体能力だけで簡単に避けることができた。確かにおれは元の世界で格闘技をかじるどころか、学校の授業で習う柔道や剣道を半分おふざけでやったくらい。それでも知ることは力なり、知っていることは知識として扱えるんだからマジでマンガ万歳、テレビ万歳だよ。
獅子人の長であるアジャステッグくんは、おれを倒そうと大きく振りかぶった一撃を右に左にと振り下ろしてくる。わざわざ振り上げるその予備動作は、今から攻撃しますよって教えてくれるみたいなもので、予測さえできれば今のおれの身体能力をもってすれば躱すのもそう難しくはない。
「き、貴様あ。避けてばかりで攻撃せんかっ! 人族はどいつもこいつも卑怯者ばかりでいけ好かん!」
はいはい、戦闘中にしゃべるのは二流のすることだよ。それにおれは攻撃続行中だぜ? きみはうざったそうに避けもせずに、おれがきみの右脇腹を力のこもってないパンチを受け続けているけど、それは年上のおっさんが年下の若人に送るその場所に気を付けろという警告のサインだよ。
身体を使ってのウィービングにダッキング。ステップ刻んでから懐に潜り込む。ちょんと当ててからバックステップ。パーリングとショルダーブロックは獅子人さんの剛力で吹き飛ばされそうになったので使用厳禁だ。
ボクシングなんてやったことのないおれは、あくまでマンガやテレビでの知識しかないから、やっているボクシングの技術は自己流で中途半端なものばかり。だがおれ以上に素人ボクサーのアジャステッグくんにはそれでも十分通用することができた。だって、やつと来たらゴング鳴らしてからずっとストレート系のパンチしか使ってこない。
それより気になったのはレフェリーであるはずのニールがおれのマネし出して、リングの中で物凄く華麗なステップで身体を流しながらウィービングを同時にこなしていた。ひょっとしておれって、またやっちゃったわけ? 天性の格闘神相手にパンドラの箱を開けちゃったのかな。
「き、貴様あ……なぜふざけた拳しか打ってこない? おれ様をナメているのか!」
インターバルの間にリングの対側で、アジャステッグくんがおれの態度を気に入らないのか、休憩することなくずっと吠えかかっていた。すでに汗まみれの彼はセコンドしてくれる獅子人の女性に汗を拭かせて、汗をまったく流していないおれは本当にそれを羨ましそうに見ている。
「大丈夫なの? 水でも飲むかしら」
「いや、いい。次で終わらすから」
おれのセコンドはセイが付いてくれている。できることなら、おれもアジャステッグくんのように汗のない身体を拭いてもらいたいと思うだがなぜかセコンド役なのに、しっかりとバスタードソードとショートソードを装備している彼女に汗が流れていない汗拭きを頼むことに気が引けてしまった。
「大した自信ね。なにか根拠はあるのかしら」
「まあ、見ててくれたらわかるから」
セイの艶やかな唇からさらに聞きたい声が漏れそうだったが、彼女はそれを自制したらしく、リングの向こうにいる獅子人の長に注意を向けた。
セイ。きみには言えないけど、この世界の人の構造はエティリアの身体で隅々まで触って、確認をさせてもらっている。胸部には肋骨があるということはおれの居た世界と同様、その中に守る必要のある大切な器官があるということだ。まさか怪獣図鑑のように火の袋とか、そういう未知なものじゃなければ、そこは急所となる可能性がある。そうするとおれが持つ知識もちょっとは役に立てそうで、予測が正しければ、おれはアジャステッグくんを一撃で仕留めることができるんだ。
「...らうんどつー...」
エルフ様にラウンドガールをやらせてもらった。ボードがないので木の板で数字を掘らせたもので、麗しいエルフ様のご登場に、観戦している獅子人たちからも歓声が上がった。
「アキラさんは知らないことばかりするのね、ゼノスでもこんなのは見たことがないわ。いったいアキラさんの故郷はどんなところでしょうね」
「ははは、娯楽が好きな退廃的な場所だよ。そんじゃ、ちょっと行ってくるわ」
エルフ様がリングを一回りしてからロープの外へ出る。これでリングの中にはおれとアジャステッグくんが閉じ込められて、勝負が決するまでここがおれたちの戦場というわけだ。第一ラウンドはことさら遊んでいるつもりはないが、にわか仕込みの獣人さんのボクサーの実力を測るとともに、おれの知識だけのボクシングスタイルが通用するかどうかを試してみたかった。
それにボクシングというのはタダの殴り合いじゃなくて、技術を伴う高等な格闘技であることを。ドがつくほどの素人なりに実演してみせる意味合いも兼ねていたので、それを獅子人の若者がどこまで読み取ってくれるかが楽しみだ。
「貴様あ、ここからさきは逃げ回ることができると思うなよ? おれ様の拳で叩きのめしてやる!」
「……」
なにも見ようとしないのだね。獅子人が持つプライドの高さはこれで理解できたが、それに対しておれはかれを諭す気にはなれない。だってね、おれの強さってのはステータスの高さから来るもの。もしも、おれがこの世界の人族と同じ水準の強さであれば、第一ラウンドの時点ですでに倒されているはず。
けたたましい金属の音が一回だけ鳴り響くと、獅子人の若者は右腕を大きく後方のほうへ引かせてからタメを作る。その足はステップを刻むのじゃなくて、ただおれに向かって走り出してきただけ。若者は第一ラウンドと何も変わらないんだね。
悪いね、アジャステッグくん。ステータスの高さも強さのうち。きみはご存知ないのかもしれないが、おれはそういうやつらとお友達でもあり、あいつらからも散々な目を合わされている。特にシルバードラゴンというやつはひどい美女で、あいつの手加減なしの折檻は地獄を見るよ? だからね、きみも次元が違う強さを知っておくべき。
獅子人の若人村長さんが振り下ろしてくる右のストレートを、先と同じようにウィービングで躱して、ステッピングでアジャステッグくんの右側に身体を寄せてから、左腕に先と違って全力ではないが力を込める。足に重心を乗せてから身体にひねりを利かせて、狙うところは第一ラウンドからずっと軽く当て続けていた場所。アジャステッグくんの右脇腹へ向かって、おれは左拳で一気に突き上げる。ずしっと打ち抜く拳に抜群の手応えであった。
いやあ、気弱な少年がボクシングで成り上がるサクセスストーリーのマンガを全巻残さず読んでおいてよかったよ。
「ガハッ……」
右脇腹を打ち抜かれた獅子人の若人村長さんの両膝が折れ、右脇腹を抱えたまま身体ごと地面に崩れた。なるほど、この世界でもこれは効くらしい。どのくらい痛いかは自分でも受けたことがないから知らないけど、テレビで見たとき以上に自分の手に残ったこの感触、肝臓打ちはちゃんと当てることができればまさに一撃必殺。
若人村長さんがうずくまっているのにレフェリーによるカウントが数えられていない。不審に思ったおれは美女レフェリーのほうに目をやると、やつは拳の突き上げ角度を丁寧に何度も確かめているように一心不乱に左腕を振っていた。
「……」
「……ん? ああ、すまねえ。いい技を目にしたのでつい……かうんとってやつだな」
「いや、それはいい」
駆け寄ってこようとする美女レフェリーをおれは左手で止めた。今もうずくまって唸っているアジャステッグくんを見下ろしたままのおれは彼に冷めた口調で言葉をかける。
「立て、おれの故郷で獅子は百獣の王と恐れられている。獣人の力の頂点にあるお前がここで倒れるな、待ってやるから試合を続けるぞ」
「が……ぐ……ぎ、ぎざまあ……」
待つことしばらく、若人村長さんはようやく立ち上がり、荒れた息を整えつつ回復することに努めている。それにしても獣人さんは本当に頑丈だね。おれならそこで試合放棄を受け入れたのだろうな、おっさんは痛いことが大っ嫌いだから。
「ぼっくすっ!」
両手でおれと同じように両手をガードで構えたアジャステッグくんを見て、美女レフェリーは試合の続行を宣言した。身体を振りつつ、アジャステッグくんからの攻撃を待つが彼は大振りを捨てて、おれが第一ラウンドで見せた左ジャブを打ってきている。
距離を取られるとリーチの長い獣人さんに分があるので、おれはインファイターで勝負することにした。勿論、警戒しているアジャステッグくんはおれが懐に入ることを嫌がって、左ジャブと長い足を使ったバックステップで自分の間合いで打ち返してくる。
このまま生涯で初めてのボクシングを継続してもよかったが、おれの目的は獅子人族の説得であって、スポーツの交流をしたいわけじゃない。だから、試合を終わらすためにアジャステッグくんには悪いけど、もう一つの知識を試させてもらう。
おれが繰り出す左フックを右腕でブロッキングしながら、左ジャブとステップで距離を稼ぐアジャステッグくん。やつの注意力は完全に右方向へ向けていたので、やるなら今だ。
もう一度左フックを打つがこれはフェイント。右腕で脇腹を守りつつ左ジャブを出すアジャステッグくんの左腕の引きに合わせて、おれもステッピングで彼に接近した。彼は右腕に力を込めて左からの攻撃をブロッキングしようとしたが、おれの本命は右ストレート。打ち込むところは初めから決めている。そう、みぞおちだ。
みぞおちにおれの右ストレートがねじり込まれたアジャステッグくんは前屈みのまま倒れ込んでしまう。
「グエ……」
ボクシングの試合の前ではご飯を食べないのだが、そんな常識はこの世界にありません。だから吐いてしまっているアジャステッグくんを見て、おれは申し訳ないことしたと反省している。でも身長差がある以上、おれのパンチでは獅子人族の頭に届かないので、どうしてもボディブローをメインに組み立てる必要があった。
相変わらず横で美女レフェリーはジャッジの仕事をしてくれません。なにやら物凄く切れが良く、身体の回転を使った右ストレートを打っていた。いやまあ、練習するのは良いけど絶対にあなたとは試合をしませんからね? ニールさん。アジャステッグくんの二の舞になるつもりは絶対にない。
これ以上獅子人の若人村長さんと試合をするのは無意味。今回の試合で彼がおれに勝つ見込みなど初めから存在しない。それは両者の間に存在する基礎能力とボクシングについての知識に大きな隔たりがあったし、彼が知らないボクシングのルールでしばりを付けられて、獣人の普段の戦闘スタイルはおれの策で封じ込められてしまったというわけ。
せこいおっさんが必勝のためにあれこれと汚い手をつぎ込んでの勝利。けしてにわかボクサーのおれが強いというわけではないことは十分に承知している。
ともかく、今回はおっさんが勝ちを拾わせてもらう。
ありがとうございました。




