第97話 生きることは悩みごと
大惨事にならなくてよかった。マーメイドちゃんたちといかがわしい方向への発展は遂げることなく、その直前になったときにおれは大量の牛肉入り野菜炒めを作り置きすると宣言したから彼女たちはおれから身を離してくれた。おれは理性を保たせるのに大変な精神力を消費した。
魔法の袋を試しに湖の中に入れてみたら、湖の水は闇の空間に阻まれて、袋の中に入ることはなかった。どういう原理かは知らないが、どうやら魔法の袋の異空間は水の侵入を防いでいるようだ。もしもそのまま水を汲み取ることができることになれば、おれのアイテムボックスはとんでもないことができてしまう。
アイテムボックスに限界がないから、理論上は全ての水を汲み取れることになってしまう。そうなるとアルスの海を干しあがらせることができるので、間違いなく銀龍メリジーと風の精霊エデジーが爺さんと幼女の指示でおれの所へ違う目的でやって来る。
世界の敵としてのおれなんて想像もしたくない絵図だよ。
魔法の袋は湖の中で使えることがわかればおれも遠慮はしない、これでもかと牛肉入り野菜炒めを作る。マーメイドちゃんたちが見守る中、炒めに炒めた。危うく腕の筋を痛めることになりかけていた。
「言っておくがこれだけの量は作ったけどそれはきみたちの分だけだから。もし、仲間の所に戻って、おすそ分けでなくなってもおれは知らんからな」
「うん。これはわたしたちだけでこっそりと食べるから心配しないで。それよりもこの袋はもらっていいの? これって、魔法の袋という貴重な道具でしょう?」
魔法の袋を大事そうに抱えているマキリはちゃんとその価値がわかるみたい。さすがは昔に人族と交流しただけであって、人族に関する知識は人魚族の間で受け継がれているようだ。
「いいよ、獲ってきた魚とかも入れられるから使ってくれ」
「ありがとうね、アキラ。お礼にもっと光る石を……」
「その気持ちだけでいいから!」
真珠をさらに採取してくるつもりの彼女たちをおれは阻止する。すでにたくさんの真珠はもらっているので、魔力回復のアイテムとしては貴重だがこれ以上欲張るつもりはない。
ゴブオの集落のゴブリンに偶然に出会ったマーメイドのマキリたち。彼や彼女らのおかげでおれはとても安らぎを感じる一時を得ることができた。
生きるための基本的な欲望こそあるが、過剰なまでに他者の権利を奪って自分のものにする醜い我欲は彼や彼女たちからはこれっぽちも感じない。そこにある自然を逆らわないで、ありのままを受け入れるその生き方におれにはとても美しく思えた。
この世界に来れたことがこの上ない幸せに実感する初めての瞬間。ああ、生きているって素晴らしいよね。だってね、ただ生きていればだけでいいんだから。
「もう、行くよ」
「そう……また会いに来て?」
マキリの声は彼女たちの願い、おれは是非ともそれに沿いたいと頷いて見せる。
「わたしたちに伝わる別れの歌を歌ってあげるね」
「へー、そんなのあるんだ。うん、聞かせてくれ」
六人の人魚は湖の岸辺で同じポーズを取り、彼女たちが目を閉じてから唄い出す澄み切った心地いい声は綺麗に一つの歌声となって、どこまでも広がっている青い空を駆け抜けていく。
「悲しまないで、旅する者よ。嘆かないで、行く先のない者よ。かの者はアルスを守る者を残してもう現れないの。空を統べる死なずの老いた守護、大地を昼夜なく見守る永遠の幼い守護、その者たちはいまでもアルスにいるわ。悲しまないで、旅する者よ。嘆かないで、行く先のない者よ。かの者はアルスを守る者を残してもう現れないの」
湖から風が吹く中、人魚たちの髪は靡かせて、魔力を乗せたその歌声はおれの心を響かせている。身体の奥から勇気が沸き立ち、見えない未来への恐れは魔音によって消し去ってしまう。すごいな、これが人魚の唄か。
「悲しまないで、旅する者よ。嘆かないで、行く先のない者よ。かの者はアルスを守る者を残してもう現れないの。かの者と約束するは母なるアルス、母なるアルスは貴方を愛するわ、母なるアルスは貴方を慈しむわ。悲しまないで、旅する者よ。嘆かないで、行く先のない者よ。かの者はアルスを守る者を残してもう現れないの」
ああ、管理神様。あなたが遠くから全ての生きとし生けるものを見守るだけの存在になることを選んでも、あなたのことを語り継ぐ異形たちはちゃんといるんだね。しかし異形とは失礼な表現だな。おれからすれば、彼や彼女らは立派な種族でこれからは彼や彼女らを異人族と呼ぶべきだ。
「……この歌は?」
おれの穏やかな声での問いにマーメイドたちは別れの歌を一旦中断して、端麗な顔立ちのマキリが迷った表情で答えてくれた。
「ごめんなさい、由来は知らないわ。先祖たちが遥か昔から旅に出る者を送るためにずっと唄われてきた歌なのよ」
「そうか、それならおれが見えなくなるまで唄ってくれると嬉しい」
「はい、喜んで」
人魚の女性たちに別れの歌で送られて、おれはその歌声に乗せられたまま愛車でアルスの大地を前へ、前へと力強く駆け出していく。
偶然の出来事で転移してきたアルスの世界。とても長い、一つの歴史となれるくらい孤独に満ちた世界で、おれはこの世界で何もできないことに諦念だけが心を塗りつぶした。
それがなんの因果でこの世界で生きることを選び、普通の人たちよりは強い力を得ることはできたが最強ではない。おれより遥かに強い奴なんてそこら中にいて、例えば地竜ペシティグムスがそうだし、銀龍メリジーや風の精霊エデジーなんて逆立ちしても勝てそうにない。爺さんと幼女はもう、それこそ考えるだけ無駄だ。
それならおれはなにがしたい?
時空間停止した時代にダンジョン巡りしたおかげで金や装備には困ることがないし、いまもモンスターの素材だけでひと財産くらいは築けるだろう。管理神様の恩情でもらったチートな技とおれだけの装備、その気になればエティリアと結婚してこの世界で子孫を作り、人並みの幸せを求めてもそれを守れるだけの力はおれにもありそうだ。
それでもおれはなにがしたい?
この世界はアルス神教の教義はあるが共通している法律というものはない。それぞれの都市の決め事やアルス神教の教えはあるけど、罪を犯しても遠くへ逃げれば捕まることもないだろう。要はそれを上回るだけの実力があればいい、誰からも縛られることはない。
それこそおれはなにがしたい?
この世界は果てしない。いや、果てはあるけど全てを見残すには生命に限りというものはあるから無理なんだろう。ローインに頼めば高速移動はできるがそれでは自力で成し遂げたとは言えない。あくまでそれは他力本願のチートで、己の力によるものじゃない。
転移する前みたいに、いまやおれの心をシバるものがない。自由過ぎるからこその不自由、なにからも求められていないし、例え求められてもおれの成すことに意味はあるのだろうか。爺さんと幼女が拘っているのは理ということであって、おれの行動や思考に干渉してくることはない。
獣人さんのために人族とは対立している構図になっているがファージン集落の人たちを思い出すと別におれは人族が嫌いというわけじゃないし、人族そのものが悪というわけでもないことが実は自分の中で悩みに悩んでいたことだ。
個人として、色んな種族が仲良く入り混じり、そんな多彩で融和的なコミュニティを気ままにちょっと離れた位置から眺めて生きて行くことができたらいいなあと思っていた。
そのためにおれはしたいことがある。
ゴブオたちゴブリンさんとマキリたちマーメイドちゃんたちと出会えてよかったと心から思っている、異人族たちはそんな可能性をおれに見せてくれた。素朴な獣人さんたちやエルフ様たちはきっと異人族と打ち解けてくれると信じたい。
このモフモフ天国にアラクネさんとゴブリンさんが町を歩き、空にはパーピーさんが飛来してケモミミの店に訪れる。そうだ、運河も作ってマーメイドちゃんたちを招き入れよう。彼女たちなら美味の食べ物を作る店に飛び付くことでしょうし、その人を魅了する声音をモフモフさんたちにも聞かせてあげたい。
いつか、ここに対等な交流を願う人族も来ればいい、最初にワスプールとその奥さまを招待しよう。ファージン集落の人たちも平和になれるこの一帯を観光で来て、おれが獣人たちと作り上げるモフモフ天国をいつの日か見物で楽しんでくれれば、それはおれにとって幸せなことだと思える。
そうだ、おれは俺つええがしたくて、内政チートや美食チートをしたくて転移したわけじゃない。時空間停止した時代にずっと思っていたように、おれの周りの人たちが笑って暮らせればいいと願っている。
停止した画像のような世界じゃなくて、生き生きとした人生模様の中で脇役として、色んな人と交わりながらものんびりとひっそりと暮らすおれがそこに居る。
「よしっ、エティに会いに行こう!」
この世界に来て、初めて心から好きになったうさぎちゃん。ずっと心を取り付いていたモヤが取り払われた今、無性に人の温もりを感じたくなる。言葉がなくても抱きしめるだけでいい、そのサラサラの髪に手ぐしで通していたい。
いつかまたおれは悩むことにもなるかもしれない。でも、それが出来るからおれはいまでも人間だ。自分の正義を信じて疑わない人はすごいとは思うし、否定するつもりもないがおれには羨ましいとは思えない。正義なんて概念みたいなものは人それぞれ持つべきだろうが、絶対的に正しく曲がらない正義が存在するとはどうしてもおれには思えそうもない。
一つしかない生き方なんて、おれみたいな気弱な小物では窮屈にして退屈でしかない。
だから、おれはまだ人族最高なんて意味不明な主義の詳細を知らないが、獣人を虐げる城塞都市ラクータが単一の人族主義を掲げる限り、やつらとおれは相容れることは、それこそ絶対にない。
それがおれにとって城塞都市ラクータの人族と相対する理由。
この世界で生きたいように生きる。おれができることは出し惜しみすることなく精いっぱいやり遂げる。至る所におれの足跡があっても、生きた証となる痕跡を出来るだけ残させるつもりはない。どこかの戦国の鉄砲大名みたいに謎が多い人物ってなんだかカッコいいよね? 風のように生き、風のように去る。
「さあ、来い! ローインタクシーっ!」
風と共にいつものように大鷹がその雄姿を現しました。できれば電線を伝いに来てくれるともっといいのだが、この世界に電線そのものがないから仕方がない。
『へい、毎度ありでござる』
戻ろう、みんなの所へ!
土曜と日曜は本編をお休みして特別編を送りしたいと思いますので、本編を楽しみにして頂いておられる方々にあらかじめお詫びいたします。
ありがとうございました。




