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* 天賦珠玉授与式前日:エベーニュ家邸宅 *
エタンの護衛であるレレノアは、主であるエタンのトレーニングを眺めていた。邸宅内にある訓練場で、雨でも剣の稽古や筋力トレーニングが可能になっている。
「——よし、ここまでとしましょう」
「ハァ、ハァッ、は、はい、ありがとう……」
汗だくのエタンに対して、稽古の相手は獣人で、身長は2メートル近い。ハーフリングは大陸全体で見ると少数なので、ハーフリングと稽古をしていた場合、実戦では勝手が違うことが多くなってしまう。体格差がある相手との戦い方を学ぶことが稽古の目的でもあった。
タオルで顔を拭いているエタンに、水差しの水を注いでレレノアは差し出した。銀製のコップを受け取ったエタンは一気にそれをあおると、
「ふぅ——」
と気持ちよさそうに息を吐いた。
「精が出ますね、エタン様」
レレノアは、主であるエタンが相手の場合は敬語を崩さない。
「ええ。私もいよいよ天賦珠玉をもらえますからね」
「どんな天賦珠玉なんでしょうねえ。私も楽しみですよ……まだ当主様からは聞いていないのですか?」
とそこへ、
「——それは言うわけにはいかんだろうな」
甲高い声が割って入った。
その声の主が誰なのか気がついたレレノアは、すぐにその場に膝をついた。
「これは、当主様……」
きらびやかな衣服も、ハーフリングという小柄な身体にはあまり似合っていない。それでも外向きのアピールできちんと着込まなければいけないのが貴族だった。
エタン同様、飴色の髪の毛を長く伸ばし、複雑に編んでいる。いくつもの輝きはビーズではなく本物の宝石だ。
顔は、ヒト種族で言うところの20代くらいの童顔なのだが、ちょびひげが生えているのがなんともまたアンバランスではあった。
当主であるエベーニュ公は、エタンとともに訓練場の長椅子に腰を下ろした。ぞろぞろとお付きの人や護衛たちもやってきたので周囲が急に手狭に感じられる——それでもまだ、全員がハーフリングなので窮屈さは多少マシなのだが。
「お父様、今日はお早いお戻りですね」
「ん? うん……そうだな。ロズィエ家が会議をすっぽかしたせいで時間がぽっかりと空いてしまったんだよ。夕方からまた別の会議があるから登城するがな」
「ロズィエ家が? お父様との会議を投げ出すというのはかなり珍しいことなのではありませんか」
「うん……」
むむむ、と眉根を寄せて考えるようにしていたエベーニュ公は、
「なんだかね、不穏なものを感じるんだよ……。ルシエル公爵家の『剣聖』が遠征中だというのがなんとも間が悪いね」
と言った。
それは公爵家当主が言うにはあいまいで、具体的なものではなかったけれども誰もそれを否定しない。自然とともに生きるハーフリングたちは、己の直感というものをとても大事にする。
とはいえ、「剣聖」不在であることに言及するほど不穏ななにかがあるというのか——。
「『一天祭壇』に、なにかがあったのかもしれないね……」
聞いていた誰しもがハッとする。
クルヴァーン聖王国の中枢にして、土台。聖王家と同じく——いや、場合によっては聖王家以上に——絶対不可侵の存在。
それが「一天祭壇」だ。
「……お父様、ロズィエ公爵は『祭壇管理庁』の長官でいらっしゃいますね」
「彼が我を失うとしたら、それくらいしかないだろう。少なくとも他国から侵略を受けたとしても6大公爵の誰ひとりとして取り乱したりはしないのだから」
* 天賦珠玉授与式前日:聖王宮 *
「——こんなことがあってたまるかッ!!」
大音声は、美しい青色に染められた窓ガラスを震わせた。
天然石を切り出して、磨きに磨き込んだテーブルはどっしりとした重厚感と、高級感を兼ね備えていた。だがそこに載せられてあったのは真新しい植物紙数枚の報告書と、羊皮紙による古めかしい書物、それに木簡による巻物が数点だ。
聖王が手を振ると、報告書が宙に舞った。ついでに吹っ飛んだ分厚い書物はテーブルを滑って端から飛びだしていったのだが——祭祀服を着た神官が悲鳴を上げながら飛びついてキャッチし、事なきを得た。
「え、聖王陛下。あの書物は極めて貴重なものでございますゆえ、乱暴に扱いませんよう……」
「うるせえ、ウサ公がッ! てめえはここの祭司だろうが! なんとかしろや!」
「え、ですから、特級祭司として申し上げておりますとおり、かの天賦珠玉の解析は完了し——」
「聞きたくねえ!」
聖王はイスで身体を小さくすると、頭を抱えて震えだした。大の大人が——それも一国のトップがこれほどまでに無防備に、感情的に振る舞っているとは国民の誰もが思わないだろう。
聖王宮は、聖王が住む場所として建てられてあるのだが、一方で「一天祭壇」を祀るための場所でもあり、護持するための場所でもある。そのために宮殿全体が、神殿のような造りになっている。
「神霊を呼び込む」という目的でドアや窓は一切なく、開放的だ。寝室だけは暖かく造られてあったが、その他の場所——たとえば今、特級祭司のエルがいる応接の間などは、廊下から丸見えとなっていた。
とはいえ聖王宮に人気は少なく、庭師や掃除係がいたとしても気配を殺して聖王たちの目に触れないよう働くことを心がけているし、彼らは契約魔術によって守秘義務を課せられているので問題はない。
エルは、感情をうかがわせない巨大なウサギは、震える聖王へと近寄るとその腕にそっと触れた。フサフサした毛の温かさを感じたのか聖王が涙に濡れた目をエルへと向ける。
「……あの天賦珠玉が、今代の聖王陛下の治世時に出現したというのは、え、僭越ながら『運命』ではないかと存じます。え、この難局を乗り越えしとき、先代、先々代の聖王陛下が呼ばれることもなかった『英雄』の文字が、あなた様の名に贈られることでしょう」
「エル……」
聖王は力なく、その手を押しのけた。
「……俺は聖王としてやらなければならねえんだな……?」
「え、そのとおりでございます」
聖王は力なく、目元をぬぐった。
「……俺は人でなしのクソ野郎だな……?」
「え、誰もそのようには思いますまい。国民のひとりに至るまで、誰も」
聖王は力なく、首を横に振った。
「……俺は、英雄になんざなりたくねえんだよ……」
それにはエルも、答えなかった。
「一月前は……ただの浮かれた父親だったってのによ」
沈黙が続いた。エルも、ついてきている数人の祭司もじっと息を殺していた。
「——エル」
聖王が立ち上がった。
「今から明日の式場に向かう。最終確認だ。付き合え」
「はっ」
そこには、大国クルヴァーンを率いる唯一無二の国王、聖王としての姿だけがあった。先ほどまで見せていた情けない姿はなりを潜め、威厳があり、強さと優しさを兼ね備えた王としての聖王がいたのだった。
例年にない厳重な警戒態勢と、例年にない多くの貴族が集まった聖王都クルヴァーニュ。
雨は夜半に降り止んだ。
そして、天賦珠玉授与式の当日がやってくる。




