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光天騎士王国の港町、ザッカーハーフェンに戻るのに、空を進むとあっという間だった。そりゃあね、鉄道や高速道路が普及している日本ですら空の便は圧倒的に早いんだもんね……この世界だととんでもない技術革新になるよね……。
「すまないが、もう帰らなければならないのだ」
時刻はちょうど夜明けだった。茜色の陽射しが射して、草原を燃えるように染め上げている。
ここは町の郊外で、魔導飛行船を一時的に着陸させていた。エンジンは掛かったままで僕とアーシャ、マトヴェイさんが急ぎ足で降りた。
だけれどマトヴェイさんとはここでお別れで、彼はシルヴィス王国へとんぼ返りすることになっていた。やはり無茶な借り方をしていたようで、燃料もぎりぎりらしい。
「マトヴェイ兄様、ほんとうに、ほんとうにいろいろとありがとうございました。すぐにまた出て行く私をお許しください」
「いいのだ、アーシャ。元気でな」
「はい……」
抱きしめ合うハイエルフの兄妹はとても絵になる。魔導飛行船の乗組員であるエルフたちは、それを見て感動しているようだった。
マトヴェイさんはほんとうに、レフ魔導帝国に行ったアーシャを心配していてくれたんだと思う。だからこそ帰ってきたことを喜び、一方で彼女の自由を望み、こうして送り出すとやはり寂しいのだ。
これほど感情豊かで、温かい人がいるのならシルヴィス王国もまだまだ大丈夫なんじゃないかなと僕は勝手に安心した。
ちなみにエルフの乗組員たちもマトヴェイさんには協力的だった。彼らは「落ちこぼれ」のマトヴェイさんであってもハイエルフはハイエルフなのだ。
「レイジ、これを……」
「?」
名残惜しそうにアーシャと離れたマトヴェイさんが、僕に差し出したのは木製の小箱だった。
「ユーリーが俺の荷物に忍ばせていたようだ……まったく、アイツにはかなわねえよ」
わざとぶっきらぼうに言ったのはユーリーさんに対するわだかまりがだいぶなくなってきた証拠だろうか? 僕へと、押しつけるようにそれを寄越す。僕が中身を確認する前に、
「それじゃあ……俺はもう行くよ」
マトヴェイさんは魔導飛行船に戻るようだ。
「ふたりとも、いつでもシルヴィス王国に来てくれていいんだぞ。これが今生の別れじゃない——だけどレイジ、お前はヒト種族だ。俺たちよりもはるかに寿命が短い。だからなるべく顔を出せ。せっかくできた……友人なのだから」
照れくさそうに言ったマトヴェイさんに、
「はい。必ずまた行きます!」
僕ははっきりと、そう答えたのだった。
きっと今のマトヴェイさんなら大丈夫だ。ユーリーさんと協力して、エルフの森をいい方向に持って行けるだろう。
マトヴェイさんが乗り込んだ魔導飛行船が浮き上がると、強風が吹き荒れる——それを僕が【風魔法】で防風壁を作り出す。
——古き森 浮かぶ油 燃え盛る命 焔のごとく
神が降り 森に住まい 8色の葉 人に与う
——初めに木の神が 次に草の神が 最後に花の神が
森を言祝ぎ 風を休め 雨を垂れ 陽を誘う
アーシャがその歌を口ずさんでいた。本来、こういう場所で歌っていいようなものではないはずだけれど、それでも彼女は歌いたいと思ったのだろう。
金色の粉が火の粉のようにアーシャと、僕を取り囲むように舞い上がる。
見上げればそこに、朝日を浴びた「梟の羽搏き」がある。
上昇時には本来出てはいけないはずの甲板に、マトヴェイさんが飛び出してきた。
「アーシャッ! 我がシルヴィス王国の王女アナスタシアよ!」
あわてたエルフたちがマトヴェイさんを両脇から抱えて引き込もうとするが、それでもマトヴェイさんは甲板の手すりをつかんで踏ん張った。
「貴女は、最初から王女だった! 誰がなんと言おうと、気高く、誇り高い王女だった!」
アーシャの練り上げた魔力がさらに高まり、辺り一面は金色の湖のようになっていく。
魔導飛行船が遠ざかる。
「貴女の前途に限りない幸運がもたらされんことを——」
ついにマトヴェイさんは引き剥がされ、船内に連れ戻されていく。
やがて魔導飛行船がどんどん小さくなっていき、アーシャの歌も終わると、日が昇っているというのに周囲は不意に暗くなったように光がなくなった。
「ふふ、マトヴェイ兄様、あんなに危ないことをして……」
「……アーシャの魔唱歌を聞きたかったんじゃないですか?」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
「……そうだと、いいです」
アーシャはにこりと微笑んだ。
難しい顔をしても、一生懸命であっても、泣いていても、アーシャはかわいいのだけれど——やっぱり笑っているのがいちばんだと僕は思った。
「そう言えば、先ほどの小箱は?」
「ああ……これですか」
木製の小箱を開けなくとも、僕には中身に想像がついたのだけれど、アーシャの前で箱を開けてみる。
「こ、これって」
驚いたアーシャが中に入っていたビンを取り上げる。
「……ユーリーさんには大きな大きな借りができてしまいましたね」
それはエルフの秘薬だった。
「はい……。いつか必ず、ユーリー姉様にも恩返しをしたいです」
「その機会はきっとありますよ」
遠くからザッカーハーフェンの騎士たちが馬を飛ばしてやってくるのが見える。さすがに魔導飛行船が停まっていれば飛んでくるよな。
さあ、町へ行こう。ラルクは、「銀の天秤」のみんなはどうしているだろうか。




