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★ アナスタシア ★
ハイエルフのお屋敷に戻ってきたのは数年ぶりだというのに、1日も経てばここでの生活にすぐになじんでしまった。
木材だけで造られたお屋敷は、特殊な魔法素材も組み合わせているので耐久性が非常に高い。ここには他の国でもあまり見られない完璧に透明な窓ガラスが使われていたが、これはハイエルフの持つふんだんな魔力を使って造られた特別製のガラスだ。
シルヴィス王国の民であるエルフたちはハイエルフに仕えることを至上の喜びだと考えているので、凝ったデザインのカーテン、絵画、家具などは数年ごとにエルフたちが新品を納入し、入れ替えられる。
「殿下、それでは失礼いたします」
メイドも当然エルフで、彼女たちはアナスタシアの世話を終えると深々と頭を垂れて部屋を出て行った。
「……こんな生活こそ、ウソみたいに思えたのに」
レイジと過ごした「裏の世界」での刺激的な日々も、レフ魔導帝国での客人扱いの日々も、まるで夢のなかの出来事に感じられるのが不思議だった。
「……長い、ハイエルフとしての人生を思えば、きっと泡沫の出来事なのかもしれませんね……」
父である国王や、他の兄弟とはすでに再会していたが、彼らの対応は王族らしく抑制されていた。唯一、ユーリーとマトヴェイの双子だけは感情をあらわにして喜んでくれたがその後すぐに悲しげな顔になった。きっと、進んでここに——ハイエルフの務めを果たしに戻ってきた自分に、同情してくれたのだろうとアーシャは思う。
「それでも、自分だけ務めから逃れるわけにはいきません」
家族のみんなが魔唱歌を通じて王族としての務めを果たしていたのを、自分はなにもできずに見守っていた。歯がゆかった。みんなと歌いたかった。
だがその思いを叶えるのと、レイジとずっといっしょにいたいという思いを叶えるのとは、両立しない。それもわかりきったことだった。
どちらかを選ぶのなら——もし自分が、このお屋敷に戻ることでレイジの姉を助ける役に立てるのなら、喜んで戻ろうとアーシャは決心した。
生命力を回復させる「秘薬」の話はすでに国王にしてある。国王はいつもどおりの優しげな面持ちだったが——アーシャは、これほどまでに老け込んでいただろうかと思った。なにを考えているのか昔からわかりづらいところがあったが、今回もまさにそれで、アーシャが欲しがった「秘薬」についても「用意しよう」とすぐに請け合った。
あとはそれを送ればよいだろう。
自分の役目は果たせるはずだ。
レイジは、元気になった姉を見て喜んでくれる。そして冒険の旅に出る——。
「……ダメ」
その横に自分がいる姿を想像しては、いけないのだ。想像すればするほど悲しくなるから。せっかく色あせようとしてくれた記憶が、また鮮やかによみがえってしまうから。
レイジとふたりきりで過ごした夜のこと。竜人族の里でお風呂にお湯を張るなんていう仕事をしたのは初めてだった。ダークエルフの集落では巨大なヤギを相手に戦うことになってしまった。
そして——あの夜、レイジが、レフ魔導帝国の自分の部屋にやってきてくれた夜。
「声」を取り戻してくれた夜。
いともたやすくやってのけた、アーシャにとってはとてつもない偉業。
それをけして誇ることも、恩着せがましくすることもなく、ただにっこりと「よかったですね」としか言わない彼。
思い出してしまうと、感情が揺れてしまう。揺れた感情は厄介で、なかなか元に戻ってくれないのだ。
アーシャは両目を閉じて、それらを忘れようとする。落ち着いて、落ち着いて、苦しいのは今だけだから——と自分に言い聞かせて。
「……ん、なんでしょう」
そのときふと、アーシャは感じた。
お屋敷の中はいつも通り静まり返っている。結構な数のエルフたちが働いているはずなのだが彼らは音を消して行動できるようトレーニングされているので気配を感じさせない。
だというのに今、お屋敷内がざわついたように感じたのだ。
部屋を出ると広い廊下には誰もいない。
乗馬服で冒険していたときには思い出しもしなかった、長いドレスの裾をつまんで歩いていくと、木靴がコツ、コツ、と音を立てる。
長い廊下を進んでいくと向こうからあわてた様子のメイドが走ってきて、アーシャに気づくとハッとして顔を伏せた。
「どうしました」
メイドが走ることも珍しければ、アーシャを見てそんな反応をするのも珍しい。
なにか異変があったのか、と思うと動悸が速くなる。
メイドはしばらく口ごもっていたが、それはアーシャが「声を発した」ことに驚いているのかもしれない。これまで実際に声を聞かせたのは国王や兄弟たちと、数少ないメイドたちだけだったから。
「……いえ、なにもございません。ですが殿下はどうぞお部屋にお戻りください」
「なにもないのに、なぜ戻らなければならないのです」
「それは……」
言い淀むメイドからはそれ以上情報を得られなさそうで、アーシャは先を進んだ。「あっ」とメイドは小さく声を上げたが、それだけだ。
アーシャは3度廊下を曲がる。その先は玄関ホールだ。今いるのは2階なので玄関を見下ろすことができる——ここまで来るとはっきりとわかる。ざわついている。確実に。お屋敷が。
なにがあったのか。
アーシャは木靴を鳴らして歩いていく——すると、ポリーナたちシークレットサーヴィスの声が聞こえてきた。
「——アナスタシア殿下に会うことはかないません」
「——いや、陛下が許可を出したんだ」
話しているのはマトヴェイのようだ。アーシャの頭に疑問符が現れる。自分に会うのにマトヴェイならば許可もなにもないだろうし、ポリーナが止める意味もわからなかった。
だけれど次の瞬間、心臓が止まるほどに驚いた。
「——行きましょう、マトヴェイさん。ここで押し問答していても仕方ありませんし、国王陛下をあまりお待たせしたくありません」
その声を、忘れることなど不可能だった。
——怖がらないで、大丈夫。
あの夜、自分の手を取って「声」を取り戻してくれた。
——アーシャ!
親しい人にはそう呼んで欲しいと、今考えてもなんてはしたないお願いをしたのかと思ってしまうそのことに、レイジは戸惑いながらもそう呼んでくれた。
——どんなに長い旅路もすべては一歩ずつで構成されていますからね。確実に歩いていくことしか、僕にはできません。
レイジと比べて、自分はどうしてなにもできないのかと、自分自身に失望しかけていたとき——彼はそう語った。
それがどれだけ、自分の背を押してくれただろう。
ダークエルフの人たちを導く、なんていう、王族ならばやって当然だが王族になりきれなかった自分には負担でしかなかったそのことも、レイジの言葉があったからこそできたのだ。
一歩ずつ、前へ。
そう思えば、ハイエルフの王族の「務め」もまた「一歩」なのではないか。
レイジが言ったように、自分も務めを果たすべく一歩ずつ進んでいくべきだと思えるようになったのだ。
「っ」
気づけば駈け出していた。
玄関ホールの吹き抜けにやってくると、アーシャは手すりをつかんで見下ろした。
足音に気づいたのだろう、多くの人たちが自分を見上げる。
シークレットサーヴィスにメイド、執事、それに兄弟たち。
だけどアーシャの瞳に映っていたのはたったひとりだった。
たったひとりだけでよかったのだ。
「レイジさん……!」
彼さえいればそれでよかった。
でも、その思いを振り切って、自分は自分の「一歩」を進む覚悟を決めた——はずなのに。
実際に彼の顔を見てしまうと覚悟は砂のように崩れてしまう。
「どうして……レイジさん……」
話さなければならない言葉は多いというのに、思いが喉につまって、代わりに涙があふれる。
「アーシャ」
あれだけ多くの人たちに囲まれていたはずなのに、レイジは階段を駆け上がってもう自分の前にいた。シークレットサーヴィスたちが驚愕の表情を浮かべるほどに。
「あなたが望んでいなかったかもしれないのですが……」
苦笑したレイジの顔は、なにひとつ変わらない。
「来ちゃいました」
アーシャはレイジの胸に飛び込んだ。感情が制御できずに火の玉が出てしまい、きっとエルフたちを怖がらせてしまうのだけれど——もう自分を止められなかった。きっとレイジは困ったような顔で【風魔法】を使って火を消してくれているのだろう。そんな優しさも、こわごわと自分の肩に手を載せてくれるその温かさも——つまるところレイジのすべてが。
(……大好きなんです……心の底から、あなただけが)
自分を、もう騙すことも、思いを隠すこともできない——アーシャはそう感じていた。
引き下がることをやめたアーシャ(っょぃ)。




