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★ 月下美人 ★
渉外局副局長という肩書きを持つアバは、外国の要人が来訪したときの対応はもちろん、局長が皇帝に対して提案する際の草稿を整えるなど、事務方のトップに近い仕事をしていた。
夜更けに皇帝に呼び出されたのはすでに提出済みの、クルヴァーン聖王国に関する情報をまとめた書類、その内容についてだろう。
軍船として建造されたのだが、軍人が通るエリアと客人が搭乗するエリアとはくっきりと区別されている。
今、アバが歩いているのは緩やかなカーブを描いた廊下で、足元にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、手すりの細工も精緻な「客人エリア」だ。
目的地近くになって立ち止まったアバは、長楊子を口から抜くと丁寧に胸ポケットにしまった。
アバの来訪に気づいた軍人が敬礼し、ドアを開くと——皇帝専用の会議室には皇帝を始め、皇帝の世話役兼秘書の女性、渉外局長、軍事局長、そして珍しく迷宮管理局の局長がいた。
「アバ、お前のまとめてくれた資料は、ようできておる」
「はっ、ありがたきお言葉であります」
「しかし……『元聖王』とやらがどれほどの力を持っているのかまでは、つかめぬのだな?」
「申し訳ありません」
アバが身体を折って頭を垂れると、
「よい。責めているのではない。勝手な推論を書かれるよりいくぶんマシよ……局長はどう見る?」
「さようですな。アバの分析が正しければ、『元』とは思わず、現聖王だと思って接せられるのがよろしかろうと存じます」
年かさの渉外局長は「アバの分析が正しければ」という言葉をわざわざ挟んで言った。
これでなにが起きても「アバの分析が間違っていた」と言える魔法の言葉である。
「…………」
もちろんそんな局長の保身は今に始まったことではないので、アバは黙して語らない。
「つまり現聖王を送り込むほどに、クルヴァーンは我が国に関心があるということかえ?」
「どうだ、アバ」
「……はっ、さようです。聖王国の王位交代は謎が多くございます。高位貴族の放逐や処刑、さらには聖王都中枢で巨大モンスターが発生しました。見方としては先代聖王の失脚は責任を取ったものであり、クーデターのようなものは確認できません。先代聖王の実子である聖女王は先代聖王との仲も良く、他国へ追いやるような事情もありません。結果として、かなり高い関心を抱いていると見ることができます」
「ふむ……」
皇帝がぺらり、ぺらりと報告書類をたぐっている。突っ立ったままのアバと、座った局長たちがそれを見つめている。秘書だけは皇帝の後方で、なにかを熱心にメモしていた。
「……同行してくる聖王騎士団というのは強いのかえ?」
皇帝が質問し、渉外局長がうなずいたのでアバが口を開く。
「それはもう。武勇で鳴る先代聖王は騎士団の育成に心を砕いていましたからな」
「ウチの軍と比べてはどうじゃ?」
「比べものになりませんぞ!」
それまで黙っていた軍事局長が声を発した。
「我が軍は魔導武装で装備を固めておりますからな! 天賦を持っているとしても他種族など相手になりませぬ!」
彼は軍部のトップなので、当然身内をひいき目で見ている。
「アバはどう見るのだえ?」
「……私は軍事の専門家ではございませんので」
「アバ」
うっすら笑みさえ浮かべていた皇帝は、不意に表情を消してアバを見据える。ごくり、とつばを呑んだアバは、
「一騎当千とは言えませんが、通常の戦士よりも当然高い能力を持っていますが、それよりも気にすべきは1万の騎兵かと存じます。この騎兵は聖王騎士団配下で動くことになりますが、彼らは個の強さよりも、集団戦を得意とします。我が帝国軍であっても、1万人を相手にした白兵戦では勝てませぬ」
「……だ、そうだが? どうじゃ、軍事局長」
「…………」
ぎりぎりと歯ぎしりしてにらみつけてくる軍事局長を見て、勘弁して欲しいとアバは心底思う。正直に言わなければ皇帝ににらまれ、正直に言えば軍事局長がブチキレる。頼みの上司はフォローしてくれない。
「我が軍には空がある! 空から戦えば、聖王国軍など恐るるに足らず!」
聖王国は援軍を出してくれているのであって、戦争をする相手ではないのだが、そうまで吠えられてしまうと、「副局長」という一段低い立場からは——その一段は極めて高い段差なのだが——何も言えず、
「申し訳ありません」
とまた、頭を垂れるしかないのだった。
「軍事局長。敵軍はクルヴァーンではない」
「そ、それは……そのとおりでございました。失礼しました、皇帝陛下。帝国の弥栄を願うがばかりに……」
「よい」
「陛下のご慧眼には感服いたします」
下げた頭に、意味のない追従が聞こえてくる。
(いったいなんなのだ……こんなバカげた会話をしている余裕などないのに)
とアバが思っていると、
「アバよ、顔を上げよ。……なぜこんな話をするのか、と思ったであろ?」
「はっ。——い、いえ、そんな」
思わず同意してしまったアバがあわてて両手を振って否定すると、
「今、お前と軍事局長が言ったとおりよ」
「……は? ——あっ!」
きょとんとしたアバだったが、皇帝の思惑が読めた。
「聖王国の目的は飛行船、ですか。地上戦は強くとも、空は我らが圧倒する。であれば聖王国は諸外国から抜きんでるためにも飛行船が欲しい——喉から手が出るほど」
「そうじゃ。積極的に難民を受け入れているのも、我が帝国に恩を売って1艇でも多く飛行船を手に入れたいのと、あわよくば飛行船の技術者を引き込もうという肚だろう」
言われてみると単純なことだったが、実際に自分たちの知識や思い込みを言葉にしてみると、こんなにもしっくりくることはない。
(この方はすごい。先代や先々代の、帝国を発展させた陛下とよく比べられ、けなされることが多いが——この方のすごさはこうした人を動かす力だ。まさにこの帝国の危機に、いるべくしていた皇帝だ)
内心、アバは舌を巻いていた。
「——陛下のお心、理解できました。明日の協議ではいかにして、戦後の聖王国の要求を飛行船から遠ざけるかが焦点になるということですね」
「話が早くて助かるのう。じゃが、飛行船を渡すことはやぶさかではない」
「と、おっしゃいますと?」
「我らの技術は次に進むべきだということよ。『九情の迷宮』の解放。それにあの赤い亀裂……飛行船を超えるなにかが眠っているとは思わぬか? その話を聞くために、迷宮管理局の局長にもここに来てもらっているのだえ」
「!」
「飛行船など造っていくらでもくれてやってもよい。我らが常に、次世代の技術を手にできるのであればのう……」
不意に、アバの目に、皇帝の姿が大きく見えた。
この皇帝は、帝国存亡の危機に直面してなお——次を狙っている。
(このまま亡国の皇帝となるか、あるいは稀代の英雄となるのか)
自分の命運もまたこの老人とともにあるのだと自覚すると、抑えきれない震えが走った。
彼の理想を実現するのは彼自身ではなく、自分を含む側近たちなのだ。
身体を締めつけるような重責に、アバは今、気づいた。そして明日の聖王国との協議に対して湧き上がる闘争心にも——自分にこんな感情があるのだと驚くほどに、熱く、獰猛な思いだった。




