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「あー……泣いた。久々に泣いた」
「第3聖区」を通り抜けるあたりになってようやく感情が落ち着いてきた僕は、ポケットからハンカチを取り出して目元を拭ってから、あ、これお嬢様の涙を拭いたヤツやん……って気づいてなんだかもやっとした気持ちになった。ハンカチはしまった。
伯爵家の紋章を使って「第4街区」へ入ったところで、
「ゼリィさん、いるんでしょ?」
「あちゃー、気づいてたんですか? 坊ちゃんも人が悪い」
建物の影からぬるりと出てきたのは、僕の旅の連れ合いでもあるギャンブル狂いのネコ獣人ゼリィさんだ。
昨日からのあれやこれやで、ゼリィさんも警戒していてくれたみたいだ。四六時中僕を監視するような面倒なことをする人じゃないからね。今日はほんとに特別だったんだろう。
「のぞき見してるゼリィさんのほうが人が悪い……っていうか趣味が悪いでしょ。ていうかよく『第3聖区』まで入れましたね」
「これくらいならちょちょいのちょいで入れちゃいますよ。さすがに『第2聖区』はヤバイので行きませんけどね」
「ヤバイ警備体制?」
「バレたときにヤバイって意味です。入るのはまぁ」
「…………」
この国の警備体制ってザルなの? それともゼリィさんがすごいの?
「……なんです、坊ちゃん?」
きょとんと首をかしげているゼリィさん。……うーん、やっぱりこの国の警備体制がザルってほうがありそうだなあ……。
「今なんか失礼なこと考えてません?」
「僕がゼリィさんについて考えているときは大抵失礼ですよ」
「なぬっ!? 聞き捨てなりませんねえ! 坊ちゃんだって失恋したばっかのくせに!」
「は、はあ!? 失恋ってなに!?」
「失恋でしょう! 身分違いの実らぬ恋に身を焦がし、結局はお別れする——なんてわっかりやすすぎる恋物語によく出てくるヤツっすよ!」
「はぁ〜……違うんですよねえ。お嬢様は、こう、ね……愛でて育てる対象なんだよね……誰にも邪魔されず、自由で、なんていうか救われてなきゃあダメなんだ……独りで、静かで、豊かで……」
「…………」
ゼリィさんがドン引きしている!?
さすがにこの世界で「孤独のグルメ」ネタを振る僕が悪いのだけど。
「ゴ、ゴホン。とりあえずそれは冗談として、ともかくお嬢様とはそういうんじゃないですよ。またどこかで会えるでしょうし」
「そうですかぁ? それにしても坊ちゃん、どうしてそんなに自分を追い込むんですか」
「ゼリィさんには事情をあまり説明してないはずですけど……」
「どーせ黒髪黒目がバレて逃げてきたとかじゃないんですか?」
「…………」
なんでわかるの? 女の勘?
「……ゼ、ゼリィさんが思っている以上に、これはリスキーみたいなんです。エベーニュ公爵家が100人くらいの手勢を僕を捕まえるためだけに寄越してきたくらいですし」
「ゲッ、マジっすか。じゃあいっしょにいるあーしもヤバイんでは!?」
「そうですね。むしろひとりで放置しておいたら、あなた借金で身動き取れなくなるでしょ?」
「だいじょーぶっすよ! 次は勝ちやすから!」
ダメなヤツの発想ですわ。これはクズですわ。
僕は脱力しながらも今日の経緯をざっくり説明した。
「ふぅ〜ん、てゆーかですね、坊ちゃん」
「はい」
「あーし気になるんですけど……最初からお嬢様を帰す気だったんなら、最初から連れてこなければよかったのでは?」
「ああ、はい。そう来ましたか」
「伯爵が気の毒に感じましたぜ、今の話聞いてて」
「実際、一度は痛い目に遭わせないとダメだなとは思ったんで……それはそれでいいんです」
「ゲッ。坊ちゃん、鬼っすわ……」
ゼリィさんがすごいしかめ面をした。
「そのぶんお嬢様を傷つけてしまったかもしれない、というのは気にしてますよ……僕だって」
「そこまで伯爵のことを気にかけてるのなら、坊ちゃんも伯爵家に残ったらよかったんじゃ」
「さっきも言ったとおりです。伯爵家は公爵家には勝てませんよ。聖王陛下は僕に肩入れしてくれたみたいですけど、僕が思っている以上に黒髪黒目ってことは——なんか『災厄の子』とか言われましたけど、貴族の世界ではタブーらしくて。伯爵はお嬢様のことで頭がいっぱいな人なので、僕のリスクまではあまり考えていなかったようですね。エベーニュ公爵家があれだけ拒否反応を示したのなら、他にも追随するところはあるでしょうし」
他ならぬゼリィさんが言っていた——「権力を持ってるヤツが一等怖いんです」と。
あれはほんとうにそのとおりだったね。
「そっかぁ〜。じゃあ、国を出ましょうか」
「ですね」
ゼリィさんの口調はどこまでも軽い。それくらい身軽でいたほうが、この世界では生きやすいのかもしれないな。
僕らが「第6街区」まで出て行ったころには、夜も白々と明け始めていた。ゼリィさんの宿に行ったら、死ぬほど散らかっていたので片付けは宿の人にお願いしてお金をかなり多めに渡してきた。僕の私物は伯爵邸にはなく、この部屋にあるリュックひとつぶんの荷物だけがすべてだった。伯爵邸の荷物は伯爵からもらった手つかずの給金くらいのもので、あれは「返す」と言ったので置きっぱなしでいい。
この、護衛のためにいただいた服は……処分しておくかな。さっきの戦闘であちこちちょっとほつれてるし。
「ちなみに先立つものはありますんで?」
「……うん、まぁ」
バーサーカー——もとい、辺境伯からいただいた革袋を開いてみると、大金貨が4枚と、金貨が10枚近く入っていた。貴族ってふだんからこんなに現金を持ち歩いてるの? ていうか革袋自体がすべすべしててめちゃくちゃ高級感あるんだけど?
大金貨4枚と金貨5枚で聖金貨1枚と同じ価値なので、色を付けてもらったことになる。
聖王国まで流れてくるときに着ていた服は丈も足りなくなっていたけれど、僕はそれに袖を通した。服はまた新調すればいい。
外套を羽織り、リュックを背負う。辺境伯からもらった短剣は鞘が派手なので、懐にしまっておく。
「なんだか4年前に戻ったみたいですね」
宿を出て僕が言うと、朝日に目を細めていたゼリィさんが振り返り、ニカッと笑う。
「な〜に言ってんすか。すっかり男前になっちまいましたよ、坊ちゃんは!」
「……じゃあいい加減、『坊ちゃん』呼びは止めてくださいよ?」
「坊ちゃんはいつまでも坊ちゃんでいいんですぜ〜」
ゼリィさんが手を伸ばしてきて僕の頭をくしゃくしゃっとやる。
見てろよ、いつか背だって追い抜いてやるからな。
「そんじゃ、坊ちゃん。このまま聖王都を出るんですか?」
「ううん、さすがにこれで出て行ったら怒られるよ」
僕は苦笑して、ゼリィさんに最初の目的地を告げる。
宿屋「銀橘亭」だ。
さすがの「銀の天秤」パーティーもこの時間はまだまだ寝ているだろう——あちこちの家から炊煙が立ち上り、聖王都クルヴァーニュの1日が始まろうとしているのを僕は感じていた。




