27 「雪の王」と「夜月の女王」⑨
「三十日後にベイセル様と夫婦の誓いを立てることになりましたわね」
「貴方は、嫌ではないですか?」
八歳年上の男性の困ったような顔にトレニアは思わず苦笑した。兄よりも年上のベイセルはトレニアに対してどうしても引け目を感じてしまうようだ。
ゾルダ王国は土地の関係で血が濃くならないように王族や貴族の婚姻は気を付けていたようで、他国に比べても遅い傾向にあった。
女性と付き合うということもまともにして来なかったベイセルにとってトレニアはあまりにも高嶺の花過ぎたのは仕方ない。
帝国に比べることも出来ないほどの小さな国を大切に思えど、多くの求婚者を差し置いて本当に自分で良いのかと不安になるベイセルをトレニアは好ましく思っていた。
「ワタクシ、嫌なものは嫌だと拒否出来る立場ですの。ベイセル様。ワタクシは自分の意思で貴方を選びましたわ。貴方ならきっと、ワタクシを大事にしてくれると感じましたの」
澄んだ冬の空を思わせるアイスブルーの美しい目はアクアマリンを思わせる。長い髪の毛を一つ括りにして背に流す彼の苦悩混じりの視線にトレニアは、なんて可愛い人なのだろうと微笑ましさで返す。
少しだけ体が楽になったのもあり、上半身を動かすと、身を乗り出したベイセルの頬に手を添えた。
「ワタクシの旦那様は貴方以外にいませんわ。いずれ夫婦になるわけですから、それが早まっただけ」
「トレニア様……私が、及び腰になっていただけなのですね」
「ええ。それよりも、ワタクシの呼び方を変えて下さいませ。夫となる方にいつまでも他人行儀に呼ばれたくありませんわ」
いつか言おうと考えていたトレニアは丁度良いと告げると、ベイセルは白い肌を赤くした。ほんのり程度だが、触れるほどに近い距離にいるトレニアにはその変化がよく見えた。
「なんとお呼びすれば」
「そうですわね。レーニャと。様はいりませんわ。ニアは妹が呼んでますもの。レーニャは貴方だけの呼び方ですわ」
「レ、レーニャ、ですね……私も、貴方だけの呼び方で呼ばれたいのですが」
すり、と手のひらに頬を押し付けて上目遣いをする年上の男性にトレニアの心はキュンと高鳴る。これは甘えられている。トレニアの前では年相応に大人の男性であったベイセルの思わぬ一面に、大抵の事は受け流してきたトレニアの心が大いに揺さぶられた。
人に対して言うのは失礼かもしれないが、大型の犬のような愛らしさとあざとさがそこにあった。
「それでは、ベールはどうです?」
「誰にもそう呼ばれることは無いですから、貴方だけの呼び方です」
「よかったわ。ふふ、ベール。ワタクシ、男性を愛称で呼んだ事がないの。貴方が初めてよ」
ぐぅ、という呻き声を立てたベイセルにトレニアは楽しそうに笑いながら、彼の頬から手を離し頭を撫で、ベイセルは恥ずかしそうにしながらもそれを受け入れていた。
そんな光景を部屋の隅、気配を消しながら見ていたモーラとユーナの考える事は全く同じだった。
((未来は安泰だわ~眼福だわ~美男美女最高~))
この夜を境に二人の関係はより緊密になったのだが、その瞬間に立ち会っていた姉妹は後にジューノからそれなりに嫉妬されるものの、部屋に入って来なかったジューノが悪いと開き直れるくらいには強かになっていた。
***
予想外の出来事の積み重ねはあれども、定められた日付に逆らうことなど出来るはずもない。
数日経過しても雪が降る気配のない王都では常よりも人が多く出歩いているという。
そして王城では出仕している文官が慌ただしく動き回り、長に当たる者たちも普段の暇など嘘のように会議などで動き回っていた。
帝国へは使者としてノクトが派遣される事になった。彼自身、王国の貴族令息であり、ベイセルの侍従として何度か帝国に同行していたことや、トレニアの体を介しての神の伝令の言葉を聞いていた為、説明が一番しやすいと言うのがあった。
それに伴い、トレニアの名代としてジューノを付けることになった。事が事だけに皇帝への目通りを願う必要があり、更には時間の制約もある。急いでも往復で三週間ほどを見るのであれば、出来るだけスムーズにことを運ぶ為にもジューノはうってつけであった。
もちろん最初こそジューノは無理だと断ったのだが、トレニアから「貴方以上にワタクシの名代となれる者はいないわ」の言葉に最後は頷いた。
公に出来ない話の為、正面から向かう事は出来ない。トレニアがジューノに命じたのは姉であるアナベルを経由しての密談であった。アナベルであればある程度の融通が効くし、トレニアがジューノを重用しているのも理解している。
そうして少数精鋭で帝国に向かわせたトレニアは、部屋から殆ど出ることは無かった。
時折ベイセルの妹王女ジャスミンが遊びに来たけれどそれだけだ。
七日が過ぎて八日目。一度目の約束の日にベイセルとトレニアは神殿へと赴いた。雪の溶けた道は馬車でも負担はなく、窓の外に見える緑が実に鮮やかであった。
森の中は変わらず他者を排除するような重苦しさがあったものの、荘厳な佇まいは神秘的であった。
二人で中に入り、前回と同様に跪いて祈りを捧げていると、前回とは異なる変化が生じた。
初めは小さな物音だった。
何か、石のようなものが擦れる音。その音が次第に大きくなり、流石に目を閉じていられなくなったトレニアが瞼を開けると、ベイセルが警戒していた。
「ベール、これは、何が」
「レーニャ。両壁の像を、見て下さい」
酷く緊張した声にトレニアがそっと視線を向けると羽の生えた御使いと思われる像が確かに光を放っていた。それだけでなく、台座部分には複雑な紋様の何かが光っていて、明らかな異変であった。
おかしいと分かっているのに体が動かせず、指を組んだ手が微かに震える。
一際強い光が放たれ、耐えきれずにぎゅっと目を閉じた二人の耳に届いたのはばさりという音。
『目を開けよ』
『呼吸をせよ』
脳に響く声。強すぎる衝撃に自然と息を止めていた。
呼吸をする。息を、どうやって。
見えない何かが強く満ちた空間の中で、トレニアは呼吸の仕方を忘れていた。しかし、体は脳よりも危険を理解していたのか、息を吸うという動作を始めて、ああ、呼吸とはこうだったと思い出した。
命じられるままに目を開けた二人の前に、先程までは居なかった存在が立っていると認識する。
『ふむ。悪くない。男の方は長年この地に住んでいたから適合しているとはわかっていたが』
『女の方は吾が主の加護を受けている。妥当だな』
『よくぞ来た』
鮮やかな赤の髪の毛が短い男の姿をした者と、深い青の髪の毛が脹脛の長さまである男の姿をした者はどちらも背から羽を生やしていた。
『約定により、今はまだ詳しい説明は出来ぬ』
『されど、それでは人の子は不安を抱くと聞いている』
『故に、吾等が語れる範囲の事を語りに降りて来た』
『跪いていても辛かろう。これに座るが良い』
赤髪の男が手を振れば、どこからともなく現れたモコモコとした白い物がベイセルとトレニアの背後にぷかぷかと浮いていた。
羊のような、雲のような、よく分からない物だが、早うと急かされた二人は立ち上がり、恐る恐ると腰掛けた。
見た目通りふわふわとしたそれは浮いているのに、二人が座ってもビクともしない。何で出来ているのかを考えても無駄だと判断したトレニアは近い距離で座るベイセルに手を伸ばした。
それに気付いたベイセルの大きな手が包むように握ってくれて安心するも、緊張は解けない。
『あまりこの場にいるのは人の子には良くない』
『早めに解放してやるから、大人しく聞いてろ』
男達は何も無い空間に座り、足を組んだ。彼らの服は一枚の大布を巻き付けた後に腰にベルトをしているようなもので、古代よりも遥かに古い遺跡の壁画に残されたデザインに見えた。
『先日そちらの女に宿ったのは吾である』
青髪の男がトレニアを見ながら告げた。一度体の支配権を奪われたトレニアにはそれが真実だと理解出来た。
『この地は吾等の主たる創世神がかつて何度も降り立った場所で、この建物は主とある二人の人の子が交流する場であった』
『ここはな、特別な地なんだよ』
青髪の男が淡々と語るのに対し、赤髪の男は表情が豊かであった。人ではないと分かるのに、とても人に近い感情表現にトレニアが戸惑っていると、赤髪の男はにやりと笑った。
『こいつはともかく、吾は人の子の中によく紛れていた。千年の昔、主が目を掛けた奴がいて、そいつらと共に地上を旅した事もある。人の子は短い命を生きているだろう?吾等にはそれが無いから、人真似でもしろと言われてな』
過去を思い出すのか、懐かしそうに楽しそうに語る赤髪の男。
千年、と言うのは青髪の男が宿った時に告げた年月だったはず。
『これより三十の日が巡る時、世界は失われた物を取り返す』
『その為に千年の時が必要だったってわけ。お前達は鍵だ』
明確な言葉は勝たられず、しかし男達の語る言葉はどこまでも真実しかないと感じられた。
ベイセルは沈黙を保ち、トレニアも思うことはあれども大人しく聞いてろと言われたので黙っている。
『この建物は魔道具であると理解しているな?』
青髪の男の言葉に二人揃って頷く。人の手を介さずに灯る照明や開く扉など、魔道具以外にありえない。
『この建物には用途がある。この地の中心にあるのも意味がある。それはまだ語れぬが、其方等が出会うのは運命であった。しかし、運命とは変えられるもの。望まなければ繋がらない糸。安心せよ。運命だからといって吾等も神も介入はしておらぬ。ここに二人揃ったのは其方等の意思である』
トレニアは運命とか真実の愛なんて言葉は好きではなかった。『テンセーシャ』とやらがまるで決められた台詞を演じるように告げるそれらはあまりにも薄っぺらかった。
そして今も僅かに嫌悪を抱いた。しかしそれを察したように青髪の男は『意思の結果』だと告げた。
『運命とは幾股にも別れた枝である。どこを辿るかは人の子が選ぶ。数多の道がありる中で、まさにこの時に其方等がここに来る可能性は少なかった。しかし、最も望ましい結末を其方等は選びとった』
ここで初めて青髪の男の表情が緩んだ。目を細め口角を上げて笑みを浮かべた男はベイセルとトレニアがこうして二人並んでいることを喜んでいる。それが分かるほど柔らかな雰囲気となった。
『黒髪の乙女。あんたがこの男を選んでくれて吾等の主も喜んでいる』
『故に、これは主より褒美である。よく聞け。三十の日が巡り、其方等が夫婦の誓いを立てる儀を行った後、この国は変貌する。閉ざされた国は開かれ、大地は芽吹く。それだけでは無い。世界が変わる』
『黒髪の乙女。お前の妹が嫁ぐ先、黒の森は最も影響を受ける。その変化はすぐには現れないが、確実に現れる。備えとけ』
『これ以上は語れぬ故に問うな。ただ、変化は起きる。白の閉ざされた世界は終わる。備えよ』
話は終わりだ。
その言葉が聞こえるや否や、パチン、と言う感覚と共に男達の姿は消え、二人はいつの間にか立ち竦んでいた。
「夢……では、ないわね」
「そうですね……」
非現実的すぎて混乱が収まらないが、夢では無いと分かっている。
御使いの像が壁際から、創世神の斜め後ろへと移動していたのだから。




