26 「雪の王」と「夜月の女王」⑧
体が重たいと感じながら目覚めるのは久々の事であった。幼い頃は厳しい教育の日々に疲労が溜まり、ベッドに倒れて意識を飛ばすなんて事はよくあった。
成長してからはそれも随分と減り、十分な睡眠時間は確保していたし、疲労を抱えたまま起きるなんて事はなくなっていた。
だからこそ、全身を押し潰すような疲労に何故と考えた後、そう言えば、と思い出した。
突如体の支配権を奪われて意識は遠くを漂っていた。勝手に体を使われているのに嫌悪感を抱かなかったのは、それをしていたのがあまりにも遠い存在すぎたから。
人では無い尊い存在による支配を意識だけで見るという不思議な感覚。肉体を経由したからか、その存在の考えている事が言葉ではなく感覚として理解出来たのは奇跡であった。
「ジューノ……いるかしら?」
「トレニア様……!います!ここに、おります!」
「起こしてもらえるかしら……体が、重くて」
「はいっ!」
涙混じりの声。近寄ってきたジューノが背中に腕を回しながら体を起こしてくれ、幾つものクッションを背中側に詰め込んでくれたおかげで、そちらに体を倒しても上半身を起こしていられた。
「今は、夜かしら」
「はい。六時間ほどお眠りに。ベイセル殿下よりお目覚めになればお声掛けをと事ですので、お呼びしても宜しいですか?」
「少しだけ待って。喉が渇いたわ」
「お飲み物をすぐに用意致します」
トレニアの肩にショールを掛け、布団を整えたジューノが出来るだけ優雅に見せながらも何時もより急くように動いた。
程なくして用意されたのは果実水であった。
「シトルーナの果実水です。お身体にはこちらが良いと医師が」
「そうね。口の中がさっぱりするわ」
疲労感は凄まじく、だからだろうか、シトルーナ……帝国ではリモーネと呼ばれる酸味の強い黄色の果実を使った飲料水は体に染み渡るようであった。
「蜂蜜が入っているの?」
「はい。それと砂糖と少しの塩ですね」
「飲みやすくていいわね。でも、ゾルダ王国で塩は高級品扱いよね?」
「ベイセル殿下のお心遣いです。それと、帝国からお持ちした中に塩がありましたので」
「そう。これ、きっとミアが好きだわ」
甘くて酸っぱくてさっぱりとする飲み物は、鍛錬を怠らない妹が訓練後に飲むと丁度良さそうであった。
「味見の時に少し頂きましたが、私もそのように感じます」
ジューノがトレニアの髪を整え、ベイセルの元へと向かう。モーラとユーナはまだ見習いの段階でしかなく、取次ぎに向かわせるには不安が残る。ジューノの代わりに部屋に待機していた二人をトレニアは呼ぶ。
「二人とも、怪我は無い?」
「はい。ですが、殿下をお守り出来ませんでした」
「無様に意識を失ってしまい……申し訳ありません」
「構わないわ。寧ろ、動けたジューノが凄いのよ。ワタクシの中に宿った方はそう言う御方なの。貴方達が普通なのよ」
だからそんなに気に病まないで。トレニアの言葉にぎゅっと拳を握る姉妹二人は、何とか感情を飲み込むと顔を上げて笑顔を作り頷いた。
「はい。殿下の仰せの通りに」
***
「トレニア様、お加減はいかがですか?」
「体への疲労が少し。それくらいですわ」
室内着に着替えていたベイセルが来たのはすぐの事だった。部屋を訪れたベイセルをトレニアは快く歓迎する。ベッドから移動出来ないことを詫びれば、ベイセルは頭を振ってそのままで、と彼女のベッド脇に近寄った。
直ぐさまモーラが用意していた椅子を差し出せば、ベイセルは「ありがとう」と告げてそこに座った。
婚約者同士とはいえ婚前の為に二人きりには出来ず、モーラとユーナは壁際に控えていた。
ジューノからノクトを経由してベイセルに話が行くまでに少しくらいは待つと思っていたのだが、待機していたのか直ぐに部屋から出てきたベイセルは足早と言うよりも小走りで、ジューノは追いつくのを諦めた。
ノクトがいるのだし、部屋にはモーラとユーナがいる。本来であればジューノが迎えてお茶の支度をしなければならないけれど、二人も今後の事を考えると咄嗟の対応を出来るようにせねばならない、とジューノは任せる事にした。
部屋に彼女が着いた時にはノクトが外で待機していたので椅子を隣室から持ち出した。どれだけ待つか分からないけれど、立ちっぱなしは疲れるだろうとの判断だった。
「ノクトさん、こちらを使ってください」
「お手を煩わせて申し訳ありません」
「いいえ。お休みになられてないのでしょう?」
トレニアが気を失って運び込まれた後、帝国から同行している女性の医師に診察をしてもらったり、いつ目覚めても良いように準備をしながら、ジューノはモーラやユーナと交代で休憩を取っていた。
ゾルダ王国についてきた正式な侍女はジューノだけで、姉妹二人は見習いだけれど、それだけだ。メイドなどは王宮に勤める者を一時的に回してもらっていた。
帝国から他についてきたのは二人の専属の護衛騎士の他に六人の騎士と女性の医師だけ。執事はそれなりに歳を重ねていることもあり、極寒の地であるゾルダ王国に着くまで耐えられるか分からないという事でトレニアから同行を止めた。流石に彼に倒れられたら困る事が多すぎる。
つまり、トレニアの身の回りを万全にする為には健康である事と体力を温存する事が何よりも最優先すべきであった。
幸いにしてトレニアが目覚めるまでに多少時間があったので三人とも回復出来たのは僥倖だった。
しかしノクトは違うだろう。賓客として来ているトレニアにもある程度すべき事はあるが、それでもあくまでも客である。帝国にいる時に比べて時間的な余裕があるのに対し、ベイセルはこの国の王太子だ。
しかも本日に至っては非常事態が連続で起こり、それに対応しなければならなかった。
ベイセルが動くのであればノクトも当たり前に動くし、彼の指示に従って走り回って休むなんて出来なかったはずだ。
「貴方は中に入らなくて良いのですか?」
「見習いとは言えども私が教えている二人がいますので大丈夫です」
もう一脚椅子を運び出してノクトから少し離れた場所に置くと遠慮なく座る。無作法でもジューノがそうすればノクトは合わせなければならない。女性に恥を掻かせるのはマナーに反しているので。
「流石に、今日の出来事は想定外でした」
「だと思います。私も、トレニア様にあのような事が起きるなど考えもしていませんでした」
「神の伝令、と仰せでしたね」
神が地上から去って長い年月が経過している。それでも人々は神への信仰を止めない。帝国の皇族と言う神の加護を受ける一族の存在が人々に神を感じさせているのは間違いない。
「御使い様、かもしれません」
「御使い様?」
ジューノの言葉に疑問を抱いたのか、ノクトが彼女に視線を寄越す。
頷いたジューノは、帝国貴族であれば教養の一環として教わる空白の十年と御使い様の話をする。
ノクトは顎に指を添えると何か考え込んでいた。
「言葉遣いを崩しても構いませんか?」
「ええ」
「ありがとう。では、遠慮なく。その御使い様の容姿は記載されてるのか?」
「いいえ。存在のみです」
「まあ、そうだよな。ジューノさん、皇女殿下から神殿内の事は聞いた?」
「いえ。伝えて良いのかお分かりにならなかったようで詳細は。ですが、帝国の神殿での創世神様のお姿について問われました」
「だよなぁ。俺も今日、ベイセルから聞かれた。そして、神殿内の像について教わった。許可が出ればきっとジューノさんに伝えると思う」
「そこに……いえ、待ちますね」
「そうして。ただまあ、皇女殿下には二度、神殿に足を運んでもらわないとなぁ」
はぁ、と重いため息をついたノクトが椅子の背に凭れ掛かった姿にジューノは驚き、そして思わず笑ってしまう。
ベイセルの後ろに控えるノクトは生真面目そうに見えたのだが、話し方と言い、気を抜いた瞬間の態度と言い、案外真面目とは程遠いのかもしれない。
「三十の日が巡りて後。夫婦の誓いを立てよ。これって、婚姻の宣誓ですよね?」
ジューノはトレニアが目覚めてから確認しようと思っていた事をノクトに聞いてみた。
そして、それに対してノクトは「俺もそう思ってる」と重い声で答えた。
皇族と王族の婚姻は婚約よりも更に厳格なところがある。とは言えども、一応抜け道はあるのだ。
「婚姻に伴う誓約書は式とは別にして構わないと言えば構わないのですよね」
事情があって式を遅らせるなんてことは珍しくはない。誓約書に二人の名前を記入して神官の前で誓いを立てれば婚姻は成立する。
これが帝国の皇太子であれば少しばかり難しいところだけれど、皇女であり嫁ぐのであれば、嫁ぎ先との兼ね合いから先に夫婦関係を成立させた上で、改めて披露の式を行っても問題は無い。
「明日にでも帝国に使者を送りこの度の事を伝えなければなりませんね。流石に皇帝陛下へ事後報告は出来兼ねます」
トレニアの侍女として皇帝陛下から何度か言葉を貰ったことがあるが、余程でなければ皇帝は怒らない。彼が怒る一番の理由は不義理である。今回の場合は神が関与しているとなれば許しは出るだろう。
「一番恐ろしいのは、皇帝陛下がお越しになる可能性があることですね」
「え?待って、どういう事?」
「お若い頃の陛下は大変に足取り軽く様々な領地へとお忍び訪問していたそうで、皇太子時代は身分を隠して他国にまで遊びに行かれる程でした。大変行動力がございます」
神の伝令、もしかしたら御使い様がトレニア様のお身体に宿った事とか、夫婦の誓いを立てるよう言われたなど聞いたら、間違いなくやって来る。意外と好奇心が強いのだ。
皇太子殿下、倒れるかも、なんてジューノが呑気に考えている隣でノクトは頭を抱えていた。
大陸一の帝国の皇帝がそんな行動力の持ち主なんて知らなかった。万が一この国に「来ちゃった」なんてしても安全の保証が出来ない。何かあればこの国は滅亡してしまうのでは、なんて思っていたことが口から出てしまっていた。
「大丈夫ですよ。皇族の方には神の加護があります。暗殺などは出来ません。毒も効きませんから」
ジューノ達だって、トレニアの身の回りの世話の為に万全でいる事を心掛けているが、暗殺などの心配はしていない。寧ろ、加護のないジューノ達が巻き込まれて死ぬ可能性の方が高いのだ。
「そちらの心配よりも、皇帝陛下の無茶振りに付き合い切れるかどうかの心配をされた方が宜しいかと」
皇后は恐らく動かない。彼女が動くと側室四人も間違いなく動くから。そんな事になったら一大事である。流石に皇帝も無茶はしないだろう。
ジューノは結局ベイセルが退室するまで廊下にてノクトと共に居た。
あまりにも動揺していたので一人にすると悪い方向に考えそうだなぁ、と思ったので。
ノクトとジューノは割と仲良くなりますが、恋愛になるかどうかは不明。




