緑翼の乙女 4
ノルテの奇行っぷりはあっという間に、セフィア城の噂話の種になった。
「あの『紅い狼』ディレン隊長の怒りにも構わず、仕事をほったらかす」
「イケメン騎士を見れば、花の蜜に釣られる蝶のようにフラフラと擦り寄っていく」
「真っ昼間からドラゴンに乗って、城の上空を飛び回る」
と、あちこちでノルテの噂が飛び交っていた。
中には尾ひれ背びれが付きまくり、既に伝説の珍獣化しているものもあったのだが。レティシアやディレン隊の面々が頭を抱えているのは、それらの噂があながち嘘情報ではないためだった。
「昨日は、本棟の大階段の手摺りをお腹で滑り降りたってことで有名になってたわね」
珍しく上空が薄い雲で覆われ、夏のきつい日差しが遮られた日の夕方。
城の開放テラスでレティシアの勉強を見ていたセレナが、苦笑混じりで言った。
「ほら、あの全階を貫通する中央の階段。過去にも腹滑りに挑戦した人は多かったそうだけど、最上階から一階フロアまで足付きなしで滑り切ったのはノルテが初めてだそうよ」
「……レイドの反応はいかに?」
そっとレティシアが問うと、セレナは微妙な笑みを崩すことなく手元の教科書をめくった。
「それはそれは、こっちが竦み上がるくらいお怒りだったわ。ほとんどはオリオン様たちにぶつけられていたけれど、相当ストレスが溜まってらっしゃるみたいだわ。ノルテってば、珍しく仕事に出た日も、『えー、やだ』って言って木陰でさぼろうとするからね。で、ちょっと目を離した隙にドラゴンのアンドロメダに乗って出奔しちゃうから」
さすがに空を飛ばれたら、追いかけられないからね。とセレナはのんびりと語る。
ノルテの愛竜、アンドロメダはどうやら雌ドラゴンらしく、厳つい見た目に反して性格は大人しい方だそうだ。そして乗り手の性格が移ったのか、そもそもそういう性格なのか、城のあちこちで無防備な姿で居眠りする姿がよく見かけられた。
ドラゴンは高貴で、誇り高い生き物とばかり思っていたレティシアは先日、トカゲのように真っ白な腹部をさらけ出してテラスで居眠りする緑色のドラゴンを目の当たりにして、声を無くしてしまった。
「……どうしてバルバラ女王がノルテをセフィア城に滞在させるのか、まったく見当が付かなくなったよ」
そうつぶやき、レティシアはテラスから見渡せる城のグラウンドの方へ視線を移した。
今日は珍しくもノルテも騎士の訓練に参加しているらしく、同年代の少年たちに混じってノルテが剣を振るっている姿がはっきりと見えた。黒髪はリデルでも決して珍しくはないのだが、癖毛が多い。ノルテのように真っ直ぐでさらさらな黒髪は滅多に見られないのだ。
レティシアは手に持っていたガラス製のグラスをテーブルに置き、グラウンドがよく見えるように体をずらした。
剣術に疎いレティシアが見ても、ノルテの騎士としての腕前は相当だと分かった。彼女は今、自分よりずっと体格のいい少年騎士と打ち合っているのだが、小柄な体を器用に動かして相手の剣戟をかわし、流れるような剣捌きで剣を打ち払っている。練習相手の少年もなかなかノルテに勝てなくて焦っているのか、難しそうな表情をしているのが読み取れた。
レティシアたちが見守っているうちに勝負は付いた。少年の剣がくるくると円を描くように宙を飛んでグラウンドの土に落下する。教官がノルテの勝利を告げ、続いてノルテは剣を鞘に収める暇もなく、脇に控えていた金髪の少年と対峙した。
(クラート様だ……)
最近自分の頭を悩ませている金髪の公子が剣を構えたのを見、レティシアは微かに目を細める。
そんなレティシアのわずかな動揺を目ざとく見抜き、向かいでアイスティーを啜っていたセレナがストローから唇を離し、ふっと微笑む。
「……クラート様が気になるの?」
「え?」
打ち合う二人から視線を離すと、セレナが紅茶で濡れた唇を上品にナプキンで拭いながら、愛らしく小首を傾げてこちらを見つめていた。
「ほら、今ノルテと練習試合をしている……クラート様が出たとたんに、レティの目の色が変わったから」
「……そうだった?」
自分でも気付いていなかったことを指摘され、レティシアはばつが悪くてもぞもぞと椅子に座り直した。
「……というか、気になるというか……ほら、やっぱりクラート様にはお世話になってるし、ノルテも懐いているみたいだからどうしても、そっちを見ちゃうというか……」
自分でも何を言っているのか分からない。
途中から言うべき言葉が見つからなくなり、レティシアは言い訳じみた説明を止め、誤魔化すように自分のアイスティーを一気に煽った。火照った食道が一気に冷え、むせながらも一杯を飲み干す。
セレナはごほごほ咳をするレティシアのグラスに新しい紅茶を注ぎ、頬杖を突いて柔らかく微笑んだ。
「……でも、レティの気持ちも分からなくはないわ。私だって、レイド様が女性の騎士と試合をしていたらどうしても気になってしまうから」
夏の風がセレナの柔らかな髪を持ち上げる。
レティシアがゆっくりと視線を上げると、癖の掛かった自分の髪を指に巻き付け、セレナは静かに笑っていた。
「……嫉妬、なのかもね。私は剣を持てないから……レイド様と真剣勝負ができる騎士の女性が、羨ましいのかもしれないわね」
グラウンドから、夏の空気を震えさせるような鋭い金属音が響く。見れば、地面に尻餅をついたクラートがノルテの手を借りて立ちあがり、足元に転がっている自分の剣を拾っているところだった。
そっと眼球だけを動かしてセレナの方を見ると、彼女もまた、グラウンドでの勝負を見守っていた。その表情は至って穏やかで、姉が弟を見守るかのような、慈愛に満ちた眼差しをしていた。
(……セレナ、それは一体どういう意味……?)
ひょっとしたらここ数日レティシアを悩ませる、謎の疑問を解決する手がかりになるかもしれない。
そう思ってレティシアは口を開きかけたのだが。
「……あっ、またノルテって子が勝ったのね!」
明るい声が背後から掛かり、レティシアたちと同じようにテラスで勉強していた同い年の少女魔道士たちがテラスの手摺りの方へ集ってきた。一人がアイスコーヒーのコップ片手に、興奮気味に話す。
「あの子、すっごい細いし小柄なのに剣の腕は凄いらしいわね。……あ、ほらまた、相手の剣を打ち払った」
次々に練習相手を倒すノルテの姿を見ようと、レティシアのテーブルには続々と魔道士たちが寄ってくる。皆、レティシアと同い年くらいの少女魔道士ばかりで、うち数名はレティシアも一緒に授業を受けたことがあった。
「レティシアも大変よね、ノルテと一緒にご飯食べたりするんでしょ?」
「……うん、まあ」
「でも、あの子も根は悪くはないわよね」
豊かな金髪の少女魔道士が感慨深げに言ったため、他の少女たちもうんうんと頷いた。
「確かに。私たちのことも『お姉様』って呼んでくるのよ」
「この前お菓子をあげたらすっごく喜んでて。お礼もきちんと言ってたわ」
「ちょっと我が儘だけど、上下関係はしっかり分かっているらしいわ。うちの姉さんは騎士団にいるんだけど、姉さんたちがびっくりするほど礼儀正しいそうだから」
「そうそう、しかも……知ってる? 今、魔道士団長の一番の悩みの種がノルテだそうなのよ」
ふと、思い出したように一人の少女魔道士が口にしたため、レティシアは思わずセレナと顔を見合わせた。
セレナは手元の魔道書を閉じ、様子を窺うように慎重に少女魔道士たちに声を掛ける。
「あなたたち……それは本当なの?」
「ええ、本人がそう言ってましたし、噂で持ちきりですから」
ウェーブの掛かった黒髪を持つ少女魔道士が頷き、最初に声を上げた少女がはきはきとした声で続けた。
「ほら、初日から魔道士団長を『おばさん』って呼んだでしょう? あの日に限らず、会うたびに魔道士団長に手厳しい言葉掛けをしているそうなのです」
「よくもまあ、魔道士団長相手にあれほどずばずばと物申せるわよねぇ……」
「魔道士団長が何回か呼び出したそうだけど、のらりくらりかわしているとか。掴み所がないというか、奔放というか」
「まあ、魔道士団長もいい気味よね。私たちのこと散々平民平民言ってるし」
「それだけでも私、ノルテのこと好きになれそうだわ」
きゃいきゃいと高い声で好き勝手言う同級生から視線を外し、レティシアはグラウンドに目を戻した。
現在休憩時間に入っているらしく、騎士たちは我先にとグラウンドの木陰に走っていって涼んでいた。より濃い影に入ろうと押し合いへし合いする同級生から少し離れたところでは、青々とした葉を茂らせる常緑樹の影にクラートとノルテが並んで腰掛け、何やら談笑していた。
クラートが何か言ったのだろう。ノルテが大笑いして、ばしばしとクラートの背中を叩いた。クラートはわずかに顔をしかめた後、それを窘めるようにノルテの肩に手を当てる。以前、レティシアの肩を抱いたその手で。
(……なんだろう)
急に目の前の真夏のグラウンドがぼやけ、視界が揺らぐ。
レティシアはかっさらうようにテーブルの上のアイスティーのグラスを掴んで、一口盛大に煽った。数分前にセレナが注いでくれた紅茶はすっかりぬるまり、カリカリするのどを潤してはくれなかった。ぬるまった紅茶は心のささくれを癒すどころか、妙な苦さばかりが舌先に残り、レティシアは顔をしかめてグラスをテーブルの端に押しやった。
ふいに、脇で魔道士団長の悪口大会を繰り広げていた少女魔道士たちがぴたりと、姦しい口を閉ざした。後に訪れるのは、耳に痛いくらいの沈黙と冷ややかな空気。
ん? と思ってレティシアが顔を上げると――
「……随分と、はしたないことをなさっているようですね」
大粒の鈴を振るったかのような清廉な声。だがその声には茨のような棘が隠すことなく混じり込まれ、肌を突き刺す冷気を纏っていた。
魔道士の一人がヒッと息を呑み、他の少女たちも驚愕の眼差しで、自分たちの元へ歩み寄ってくる人物を凝視していた。
日光に肌を焼かれないよう、真夏だというのにショールを体に巻き付け、迷いない足取りでやって来る長身の女性魔道士。天気は薄曇りだが、わずかな日光が彼女のシルバーブロンドを眩しいほどに照り輝かせている。
彼女は頬に笑みを浮かべているが、その笑顔は決して温かなものではない。
「ま、魔道士団長……」
「えと……ご機嫌麗しゅうございます……」
「ええ、良い天気ですこと。このような日は表に出て、さぞ他人の悪口を言いたくなることでしょうね」
微笑みを絶やすことなく放たれた言葉には、しっかりと嫌みが混ざっていた。
今まさに悪口の対象であった魔道士団長を目にし、少女たちの大半は今にも泣きそうになっていた。皆、ずりずりと足を擦るように後退してテラスの手すりに背中を付ける。互いが互いの体を盾にするようにして、意味のない攻防戦を繰り広げている。
そんな少女たちを見て耐えかねたのか、静かにセレナが席を立った。
「魔道士団長、彼女たちは確かに魔道士団長に対して無礼を働きましたが、これも彼女らの未熟さあってのこと。彼女らを止められなかったわたくしにも、責任がありますゆえ……」
「あなたが代わりに罰則を受けようとでも言いますの?」
魔道士団長は翠の目を細め、じっとセレナを見据えた。
「……セレナ・フィリー。あなたの犠牲精神は大したものですね。しかし、ここであなたが罰則を受けることに何の価値があるのですか? あなたが罰を受けることで、この愚か者たちに何を教えることができるのですか? 甘やかしがよい結果を生むとは限りません。献身と出しゃばりは紙一重……出過ぎた世話焼きは恥を買うのみですのよ」
淡々と突き放すように言われ、セレナの滑らかな頬に朱が散った。セレナはきゅっと唇をかんで魔道士団長につむじを向けたが、腹の下で重ねられた手は微かに震え、青白く血管が浮き出ていた。
レティシアはそんなセレナを見、じっとり汗ばむ手でテーブルクロスの端を掴んだ。
(魔道士団長の言っていることは、間違いじゃあない……)
セレナが否定されたからといっていきり立つほど、レティシアは幼くはなかった。それでも親友の思いやりを「出しゃばり」と跳ね付けられれば腹が立つし、少女たちを弁護したい気持ちもなくはない。
だが、魔道士団長の言葉に正当性があるのも否定できなかった。この少女魔道士たちが日中堂々と他人の悪口を言ったことは確かで、それを咎めることには何の問題もないのだから。
恐れおののく少女たちと、項垂れて黙るセレナ、そして侍従魔道士たちを冷めた眼差しで見る魔道士団長に挟まれる形になり、どうやってこの場を切り抜けようかとレティシアは唇を噛んだ。
(一発、魔法で爆発でも起こせば丸く収まる……かな?)
魔道士団長と魔道士たちの緊張がピークに達し、とうとう考えを実行に移そうかとレティシアが右手の拳を開いた。その時。
一瞬、レティシアたちの頭上を濃い影が通り過ぎた。直後、テーブルの上の教科書がめくれ上がるほどの風圧が襲いかかり、魔道士たちは息を呑んで顔を上げた。
風圧で髪を乱されて声を上げる魔道士たち。ばさばさと落下する教科書。
金属が擦り合うような低い声を上げてテラスに着地したのは、既に見慣れつつある、緑色の生物。そして爬虫類の翼を折りたたみ、床に這いつくばるようにして伏せたドラゴンの背からぴょんと飛び降りたのは、つい先ほどまでグラウンドで特訓していた少女騎士。
「んもう、アンドロメダってばこんな所に降りちゃって。魔道士のお姉さんと一緒に勉強がしたかったのかしらぁ?」
ノルテはその場の緊迫した空気もなんのその、よしよしと愛竜アンドロメダの頭を撫でて赤子をあやすような声を掛けた。
「でもねぇ、ダメなのよ。アンドロメダは魔法が使えないでしょう? あと本も読めないからね。お姉さんたちの邪魔しちゃダメよぉ」
「それもそうだったわね」と言いたげにアンドロメダは間延びした声を上げ、そのまま気だるそうにタイル床の上にとぐろを巻いた。
アンドロメダの首筋を撫でていたノルテは、くるりとレティシアたちの方に振り返った。突然自分が飛来したことに唖然としている魔道士たちや、風圧を受けて吹っ飛んだ教科書やノート、飛び散ったアイスティーなどをくりくりした青の目で見渡し、ノルテは小さく小首を傾げた。
「……それと、おばさん。あんまり若い子いじめしない方がいいわよぉ。皺増えるぞ?」
「……いじめているわけではありませんわ」
魔道士団長はレティシアたちの予想を裏切り、憮然としたような、拗ねているような声を上げた。てっきりノルテに対してヒステリックに怒鳴るとばかり思っていた魔道士たちは、一様に目を見開く。
魔道士団長はそんな少女魔道士たちを一瞥し、きまり悪そうに視線を反らしてノルテに向き直った。
「それに、あなたには無関係でしょう。早くグラウンドに降りなさいませ。まだ授業は終わっておりませんが」
「ん、確かにその通りね」
これまた侍従魔道士たちの意表を突いてあっさりとノルテは言い、ぽん、とアンドロメダの腹部を撫でてからその背に飛び乗った。
アンドロメダの背に取り付けた鞍には、馬用のものと同じ鐙が付いている。だがノルテは鐙に脚をかける必要もないらしく、腕の力だけでふわりと跳び上がり、ミニスカートの裾を閃かせてすとんと鞍に着地した。
「確かにわたしは無関係だけどねぇ、ものには言い様があるとは思うのよ」
アンドロメダの手綱を弄びながら、レティシアたちの方を見ることなくノルテは言う。
「おばさんの言うことはもっともなんだけどね、あんたの口から言われたら、侍従魔道士たちは嫌でも従わないといけないんだよ。同じ言葉でも、それを言う人によって結果は全く違ってくるんだから。魔道士団長っていう身分なら相手のことも考えるべきだと、ノルテさんは思うんだよね。じゃ、そゆことで。ばーい」
一気に捲し立てるように言うと、ノルテは皆の返事を待たずにアンドロメダの手綱を強く引いた。
蛇のとぐろ巻き状態だったアンドロメダは鎌首を持ち上げ、折りたたんでいた翼を大きく広げて羽ばたきした。一度二度どしどしと足踏みすると脚の筋肉に力を入れ、テラスの埃を巻き上げながら空中に飛び上がっていく。緑色の巨体はしばらくバランスを取るようにテラスの上空を旋回した後、大きな影は吸い込まれるようにグラウンドへと滑空していった。
その場に残された魔道士たちは、嵐のように登場して嵐のように退場していったノルテに言葉を失っていたが、真っ先に魔道士団長が我に返ったようだ。彼女はふん、とひとつ鼻を鳴らせるとレティシアたちに背を向け、マントをはためかせながら城内へと戻っていってしまった。
「……あんな魔道士団長の顔、初めて見たわ」
ぽつりとつぶやき、今まで座るタイミングを逃していたセレナはすとんと椅子に腰を下ろした。
「てっきり、前みたいに怒るかと思ってた」
「……私も」
相槌を打ち、レティシアは三度、グラウンドに視線を移した。
休憩時間も終わったのだろう、騎士たちが億劫そうに日陰から出てきている中、ノルテはアンドロメダから降りて大きく伸びをしていた。艶やかな黒髪が夏の日差しを受けて淡い黄金色に光って見える。
ふと、視線を感じたかのようにノルテが顔を上げて真っ直ぐにレティシアを見上げてきた。レティシアもまた、何も言わずノルテの青い視線を受け止める。
ノルテは眉の前に手をやって庇を作り、眩しそうに目を細めてレティシアを見上げていた。
二人の少女の視線は、騎士団長の掛け声が飛んでくるまで外れることはなかった。




