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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第2部 緑翼の乙女
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鋼鉄目指して 4

「分からないことがあったら何でも、俺に聞いてくれ! このオリオンお兄さんの手にかかりゃあ、詩歌だろうと歴史だろうと片手で粉砕してやる!」


 馬鹿でかい声が、図書館の天井を震わせる。あまり掃除が行き届いていないのだろうか、ぱらぱらと小さな埃の固まりが降ってきて、周囲の者は二重の迷惑を被っていた。


「……あー、うん。頼むよ、オリオン」


 レティシアも自分の頭に落ちてきた埃を払いのけ、テーブルにとんと歴史の本を乗せた。

 空き時間に課題を終わらせようと図書館に来たレティシアはそこで、ディレン隊の騎士オリオンと会った。しかも、図書館の司書に「今度図書館の本を汚したら退学だと思え!」と怒鳴られている場面に。


「あの司書、美人なのに怖ぇんだよな」


 だから結婚できないんだぜ。ぼそぼそ言うオリオンはなぜか、レティシアの隣に座った。


「……オリオンも今、空き時間なの?」

「ん、まあな。といってもレイドやミランダたちは別の仕事してて、俺は今回は暇をもらったってわけ。そんで、借りっぱなしになってた本を返そうと思ったらあの様でさぁ」


 オリオンが座っている椅子は、レティシアが座っているそれと全く型が同じ物だ。だがおそらく、オリオンの体重はレティシアのそれの二倍はあるだろう。アンティーク風木製椅子がギシギシ悲鳴を上げている。


「俺、こう見えてシルバーナイトまでの筆記試験でミスったことないから」

「……そうなんだ」

「あれ、信じてないだろ」


 つれないなー、と言いながらオリオンは椅子の後ろ足二本立ちになってゆらゆらと体を揺らした。

 レティシアはそんなオリオンを、ちらと横目で窺った。


 オリオンと出会ってから十数日。親しい間柄になったわけでもなく、そもそも話す機会もそれほどなかったのに、オリオンはまるで十年来の親友であるかのように気さくに話しかけてくる。


(いい人なんだろうけど……)


「……あー、くそ! 腹減った! 飯はまだかー!」

「オリオン、司書の先生が睨んでるよ」

「おっと、こりゃ失敬!」


 勢いよく椅子を元に戻したため、ガタンと大きな音が図書館に響く。


「ったく、ああやって本棚の間から睨む姿、本当に心臓に悪いってか、ある意味ホラーだよな」

「……確かに」


 相槌を打ち、ふと、レティシアは歴史の本から顔を上げた。


(オリオンなら……聞けるかも)


「……あの、オリオン。聞きたいことがあるけど」

「ん? よしきた! 何についてだ? 歴史? 戦術なら俺の十八番だぜ」

「いや……」


 自分で話題を振っておきながら、つい躊躇ってしまう。


 前々から気にはなりつつも、セレナやレイドにはどうしても聞くことのできなかったこと。レティシアの出自について知っている者に尋ねるのはなぜか、気が引けていたこと。


(オリオンは、私の正体を知らない)


 満面の笑みでレティシアの言葉を待つオリオンを見、レティシアはすっと息を吸い、低く小さな声で聞いた。


「オリオンは……知ってる? その……フェリシア様について」


 その名を口にする瞬間、一瞬言葉が震えた。


 昨年の秋、ミシェル・ベルウッドの手に掛かって命を落とした、クインエリア大司教の娘フェリシア・ジェナ・エリア。一度も顔を見たことのない、レティシアの実の姉。

 ロザリンドたちが言うには、彼女は相当の切れ者で美しく、優秀な魔道士だったという。ならば、オリオンも彼女について知っているのではないか。

 幸いオリオンは、レティシアの声が震えていることには気付かなかったようだ。彼は緑色の目を丸くし、テーブルに肘を突いた。


「フェリシア様? それって去年亡くなった、クインエリアの跡継ぎだろ?」

「……そう」

「……随分急だな。おまえ、会ったことないんだろ?」

「ええ」


 レティシアは顔を上げ、やや訝しげなオリオンに真っ直ぐ向き直った。


「でも、話はよく聞いていたから。私が編入する前に亡くなられたけど、凄腕の魔道士だったって噂は聞くから、どんな人かと思って」

「それなら同じ魔道士のセレナの方が詳しいだろ」

「セレナにはもう聞いた」


 大嘘だ。セレナたちには何となく、聞く気になれない。

 オリオンはしばらく目を細めて逡巡した後、ふーん、と鼻を鳴らせた。


「……そうだな……といっても、俺は騎士団だし、あっちは見るからにお嬢様な魔道士だったから直接話すことはなかったけど、遠目から見てもかなりの美人だったな」

「やっぱりそうなの?」

「ああ。それと……ほれ、貴族のお嬢様って取り巻き連れて団子になってることが多いだろ? それと違ってフェリシア様は、子分をぞろぞろ従えることはなかったな。たいてい一人でいたし、他の奴らもなんとなーく、近寄りがたい雰囲気を感じたんだろうなぁ」

「……近寄りがたい?」


 オウム返しに問うと、オリオンはうっすら髭の生えている顎に手を遣った。


「……セフィア城にはクラートみたいな、諸国の公子や貴族の子女もたくさんいる。それが当たり前だし、この城内では交友関係において、身分の貴賤を問わないってのが鉄則になっている。だが……フェリシア様は別格だったな。聖都クインエリアの跡継ぎって肩書きだけじゃなくって、雰囲気が違った。俺たちが迂闊に近寄ればそれだけで天罰が下りそうな……神々しいを通り越してたんだよ」


 つまり、フェリシアの持っていた「神々しさ」こそが、オリオンたちが彼女を「近寄りがたい」と思う所以なのだ。


 ふと、レティシアは思う。今日、オリオンにフェリシアについて聞くまでに、自分は姉のことをどう思っていたのか。


 両親に愛された長女。

 才能に恵まれた魔道士。

 大司教の座を約束された才女。

 絶世の美貌を持つ美少女。


 それらは、ロザリンドたちから聞いた内容もあれば、レティシアが勝手に思いこんでいたものもある。

 おそらくそれらの推測は、どれも間違いではないだろう。


 姉は、両親に愛されてきた。十二歳でセフィア城に入学するまで、聖都クインエリアで皆に守られて育ち、跡継ぎとして懇ろに扱われてきた。

 だから、セフィア城でも同じような扱いを受けているのだと思っていた。


 けれども、セフィア城にいた頃のフェリシアは「一人」だった。

 その美貌ゆえ、その才能ゆえ、その身分ゆえ。一般市民出の者たちは近寄ることを恐れ、貴族出でさえ遠巻きに見つめるのみ。

 セフィア城の生徒たちの憧れの的ではあったが、誰も触れようとしなかった神秘の美少女。天賦の才能ゆえに孤独だった姉。


 レティシアはオリオンから視線を反らし、自分の手元を見つめた。

 爪は短くて間接が太く、あかぎれやささくれの痕のある指先。あちこちに小さな傷跡があり、ほどよく日に焼けた腕。


 きっと姉の手は真っ白で、傷一つない美肌だったのだろう。冬に対面した母マリーシャのように、儚くて今にも折れそうな細い指先を持っていたのだろう。


(……私は、これでよかったんだ)


 きれいな肌はない。あらゆる者を凌駕するような才能もない。眩しいばかりの威厳もない。

 それでも、自分の周りにはいつも、誰かがいる。見返りを求めずに側におり、教え諭し、共に笑ってくれる人がいる。


 それだけでも、自分が「レティシア」でよかったと思える。

 運命に縛られ、過激派によって短い生涯を終えた姉と比べるのはお門違いだろう。それでも――


「……ありがとう、オリオン」

「? 何がだ?」

「私の隣に座ってくれて」


 首を傾げるオリオンに小さく笑いかけ、レティシアは歴史の教科書を手に取った。

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