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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
180/188

聖女の答え 1

 空は厚い灰色の雲で覆われている。重苦しい雲は、地上で暮らす者たちの気力さえ吸い取ってしまっているかのようだ。雪こそ止んではいるが、真昼だというのにこうも薄暗いと、やる気も活力も湧いてこない。


「浮かない顔ね、レティシア」


 レティシアは雲から視線を外して、前方を見やった。

 レティシアと向き合う形で馬車の座席に座っていたセレナは、いまだレティシアの眼差しが虚ろなのを見てかすかに笑った。


「今のうちから脱力していてどうするのよ」

「……こんな天気じゃ、元気なんて出ないって」

「私より若いのに、年寄り染みたことを言うのね」

「……ほっといて」


 ぷい、とそっぽを向くと、またしてもくすりと小さな笑い声が聞こえてくる。


 今、レティシアは供を連れて聖都クインエリアに向かっていた。十数日掛けてなだらかな草原地帯を横断し、灰色の海に面したクインエリア地区に入る。クインエリアの領土自体はそう広くはないが、東大陸の中央部から東端まで向かうので、往復すると三十日近く掛かる。長距離の旅になることを想定しての出発だった。


 レティシアはかすかに目を細めた。

 もう、後戻りするつもりはない。

 クインエリアに行くのは、今回で最後にする。


 聖都クインエリアの大司教である実母が捕まった。革命側の主張は、マリーシャ・ハティに代わる新しい大司教の擁立。

 既にレティシアの素性は公表され、似顔絵付きで新聞にも載っている。となれば、彼らが掲げる「新しい大司教」とは、レティシアのことである可能性が高い。大司教は世襲制ではないそうだが、大司教の娘を立てる方が手っ取り早く、しかも確実だろう。


 なぜマリーシャが捕縛されたのかは、明らかにされていない。レティシアが新聞などで調べた限りでは、マリーシャが大司教になってから急激に女神信仰にぐらつきが見えたとか、聖都の権限が落ちたとか、そういったことはないようだった。

 ではなぜ、革命派たちは若くて健康な大司教を捕らえてまでして、次代の大司教を立てようとしているのだろうか。


 正直なところ、レティシアに大きな勝算があるわけではない。セレナや、お付きのリデルの兵士と相談しているわけでもなく、「聖都に着いてから作戦を練ろう」と、リーダーらしくもない発言でその場を白けさせたのは、アバディーンを発った十数日前のこと。


 馬車の外では騎乗した騎士たちが馬車を取り囲んでいる。アバディーンを出た直後は、一日に数度、襲撃を受けた。といっても、暴力的な何かではない。新聞記者だったり野次馬だったり、彼らはどこからか、クインエリアの姫君の出発を嗅ぎつけたのだろう。腐肉に群がる蝿のごとくまとわりついてきては騎士たちに撃退され、それでもなお果敢に馬車のドアにしがみついた勇者は、セレナの放った衝撃波を受けて空高く舞っていった。


 目の前のセレナは、青を基調とした旅着に身を包んでいた。彼女の特徴でもコンプレックスでもある大きな胸を覆い隠しつつも、その体のラインを存分に醸し出している装束に、柔らかな布製の帽子。軽くまとめられたミルクココアの髪に、優しく細められた双眸。


 この数日でも何度も思ってきた。

 やはり、この目の前の女性は自分が独占するにはもったいないと。


(本当はレイドと一緒にさせたかったけど……本人たちが不満がったし)


 てっきりレイドはセレナを離したがらないだろうと思っていたが、あっけないほどあっさりとレティシアの旅への同行を許した。それどころか「セレナでは不満なのか」と詰ってきたくらい。

 それだけ、レイドがセレナを信頼しているということだろう。そして、愛する恋人を預けてくれるくらい、レティシアも彼に信頼されているのだろう、多分。


「……皆は大丈夫かな」


 レティシアはぽつり、零す。

 セレナはゆるりと顔を上げ、口の端を微かに持ち上げて笑う。


「どうかしら……残念ながら、新聞とかで情報を知ることはできないから」

「遠距離見聞の魔法ってなかったっけ」

「そりゃあ、あるけど。でもバルバラとかオルドラントまで飛ばしたら、数秒で意識が吹っ飛んでしまうわよ」


 至極もっともなことを言われ、それもそうかとレティシアは座席のクッションに身を投げ出した。馬車の外装は至って地味だが、内装はティエラ王女の心尽くしで、なかなか快適に設えている。特に、クッションや毛布の気持ちよさといったらなかった。


 外部との接触もない中、東へ東へと向かう彼女らは知らなかった。

 遥か北の大地では政変が起こり、新しい女王が起ったこと。そして南の大地では今まさに、祖国の存亡を掛けた攻防戦が繰り広げられていること。


 誰も何も、知るよしもなかった。














 リデル王国領の大半は豊かな草原地帯であり、クインエリアへ向かう道中も、なだらかな丘陵地帯や緩やかな馬車道を進むのが前半であった。だが日を経るにつれ、辺りの景色は様変わりしてゆく。

 踝丈の草地は疎らになり、拳大の礫が転がる荒涼とした大地に移り変わる。冬の月の真っ直中で地上はうっすらと雪に覆われつつも風は穏やかだったのが、凍えるような寒気と霰を纏った風が吹き付けてくる。


 馬車の中にいるレティシアたちはまだしも、外の護衛に付いているリデルの護衛たちは堪ったものではないだろう。本人たちは大丈夫だとの一点張りだが、レティシアの方が最後までごねて、途中休憩を何度も挟む形になった。休憩時間には、レティシアたち用に与えられたココアなども振る舞って。


「……レティシア様のお気遣いに、感謝致します」


 中年騎士はたき火を囲み、セレナからココアを受け取って渋面で言った。彼はまだ平静そうだが、その他の若い騎士たちは丸くなってしきりにくしゃみをしている。


「レティシア様の護衛として王女殿下から職務を賜ったというのに、逆にお気遣い掛ける形になってしまい……」

「気にしないで。私たちは馬車の中でぬくぬくしていたんだもの。これくらいやって当然でしょ」


 そう言い、レティシアは馬車の中に置いていた魔道暖炉をよいしょ、と下ろした。慌てて騎士たちが腰を上げようとするのを目で制し、騎士たちの休憩所の真ん中にどんと据える。熱風が吹き出し、若い騎士の何人かはあからさまにほっとした顔になり、そして目敏い上司に見つかってげんこつを喰らっていた。


「私は寒い中、あなたたちに護衛をお願いしているんだから。もしあなたたちがいなかったら、私もセレナもここまで来られなかった。だから、これくらい進んでするよ」


 レティシアの隣では、セレナが魔道暖炉に手を翳していた。といっても、暖を取っているわけではない。レティシアより魔力のコントロールに長けている彼女が、暖炉の魔石に魔力を補充しているのだ。セレナの手の平から溢れたレモンイエローの光が魔石に吸い込まれ、魔石は煌々と赤い光を放っている。

 騎士たちはしばらく、無言でココアを啜っていた。だんだんと彼らの頬に血色が戻り、レティシアの口元が緩む。


(うん、だいぶ元気になってくれたね。ココア多めにもらっておいてよかった)


「……レティシア様なら、よき大司教になってくださるでしょうね」


 ふと、ぼそりと騎士が呟いてレティシアは動きを止めた。だが素早く、レティシアの脇腹にセレナの肘鉄が埋まる。彼女の目は、「余計なことを言うな」と語っていた。


(……期待させてしまったかな)


 レティシアは脇腹をさすりつつ、円座を組む騎士たちを複雑な眼差しで見つめていた。











 不思議なものだ、とレティシアは思った。


 騎士たちの手を借り、足を下ろした大地は農民としての魂が悲鳴を上げるほど不毛で、乾燥しきっている。ブーツの先で土を擦るが、水っ気のない土はぱっと舞い上がり、わずかな風を受けて吹き飛んでいった。


 灰色の海とは、この大陸を包む海の東側のことだ。ここらは一年を通して天候に恵まれず、曇り空が多い。そのため海も空の色を映して鈍い灰色になることが多く、そのことから灰色の海と名が付いたのだ。

 その呼称に違わず、切り立った崖の下に広がる海は灰色にうねっていた。岩を砕く波も荒く、海鳥の姿も見えない。真冬だからと言い訳すればそれまでだが、それにしてもあまりの殺風景に、レティシアは眉をひそめた。


「見事に何もないわね」


 後から馬車を降りたセレナが帽子を押さえつつ正直な感想を述べ、その場に立ちつくすレティシアの顔を覗き込む。


「……感想は?」

「……一昨年の冬に来た時と、だいぶ違う」


 二年前の冬も、実母と対決するためにここまでやって来た。あの時も、殺風景な地方だとは感じていたのだが、それ以上だ。以前は、これほど土地は荒れていなかった。


 昆虫も死に絶えたのだろう、クインエリアの土はレティシアたちが歩いても音を立てない。裸になった広葉樹は幹も枝もやせ細り、地面から突きだした根っこも、見ている方が哀れになるほど細い。葉が落ちているのは、きっとこの季節だけが原因ではないだろう。


 騎士たちを連れ、レティシアは神殿の前に立った。

 見上げるほど大きな神殿の門と、大理石の石段。きちんと掃除をしていれば威厳に満ちたオブジェになるのだろうが、門は所々石が崩れ落ち、石段も砂を被って薄茶色に汚れている。


 これが、聖都クインエリア。女神信仰の最高峰と讃えられる、高貴なる神殿。この、泥と埃にまみれた建物が。

 レティシアの胸に浮き上がるのは、失望感と疑問と――そして、わずかな安堵。

 なぜだろうか、この廃れた外見の神殿を見て、言いようもなくレティシアは安心したのだ。


(とにかくここに、大司教がいる)


 どこかに、大司教マリーシャが捕らえられている。大司教を捕らえた神官たちと、おそらく彼らに反抗しているだろう反対派の神官たちも。


「……レティシア」


 ちょんちょん、とセレナが服を引っぱってくる。振り返ると、緊張の面持ちの騎士たちが。

 無理もないだろう。一度ここに来たことのあるレティシアと違い、彼らは今まで聖都の神殿に入ったことなどないのだから。

 レティシアは頷き、石段の上に立って皆に向き直った。


「……皆、ここまでありがとう。戦いはこれからだけど――よろしく頼みます」


 皆に言うと、騎士たちは深く頭を下げた。それは、脇に控えるセレナも同じだった。帽子を取って、その場に膝を突いて頭を下げる。


 ――ずきっと胸が痛んだ。


 親友が自分の前に跪く姿なんて見たくはなかった。だが、これはセレナの決意でもあるのだ。

 レティシアは息を吸った。


(……なるようになる。いざとなったら、聖堂何個か吹っ飛ばしてやる)


 そうして仲間たちと共に一歩、聖堂に足を踏み入れた。

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