オルドラントの若獅子 3
クラートたちが駐屯地に定めたのは、オルドラント公国と元フォルトゥナ公国の国境、豊かな河川が流れる草原地帯だった。
この幅広な河川が国境代わりとなっており、厄介事を避けるため、「河川上はオルドラント公国の所有」となっている。オルドラント側にこれといった他意はないのだが、これまたオルドラントに一本取られたようで、河川の所有権に関しても昔からフォルトゥナは異議を申し立てていたようだ。
天幕の並ぶ駐屯地を見回し、クラートは厳しい表情で指揮官の椅子に座った。組み木の枠組みに粗末な布を張っただけの簡素な椅子で、部下たちは「大公が座るのならばもっとよいものを」と訴えてきたのだが、固辞した。
戦場で贅沢を言うわけにはいかない。たとえ自分が指揮官であり、大公であったとしても。
「相変わらず浮かない顔だな、クラート」
ゆっくり視線をずらすと、風を受けて靡く深紅のマントが視界に入った。オルドラント正規軍の制服やマントは青を基調としたものが多いが、彼はいつもと同じ、赤基調の軍服を着ていた。
「指揮官が鬱になっていると、下々の士気も下がるぞ」
「……レイドの言う通りだよ」
クラートはもっともな親友の言葉に頷き、やや表情を緩めて彼の顔を見上げる。
「……フォルトゥナには情報を流しておいたか?」
「ああ、おまえの言った通り、『うっかり』こちらの人員配置を伝えておいた」
言い、レイドは軽く鼻を鳴らせて腰に下げた剣の柄に手をやる。
「といっても、子どもだましに過ぎない。わざとこちらの軍配置を流していることくらい、あちらも気付くだろう。だが――おまえの読みは当たるだろう。奴らも、セフィア城特別地域やリデル王国魔道士団を敵に回す真似はしまい。おまえを狙うために、まっすぐこちらへ進軍するだろう」
「リデルの魔道士たちと草原の民は、どうなっている?」
「さあな……まあ、まさか草原で魔道士に喧嘩を売る真似はしないだろう。するとすれば、全て終わった後に俺に怒りをぶつけるくらいか」
自分の生まれ故郷のことを語っているというのに、レイドの横顔は見ている方が困惑するほど冷めきっている。
レイドはクラートの視線に気付いたのか、ゆっくり振り向いてわずかに眉を寄せた。
「……そのような顔をするな。民たちの反応次第では、俺は今後一切草原から身を引く。後生草原に足を踏み入れないし、民に戻ることもしない。……俺は公国暮らしが長すぎたんだ。草原の民の誇りだけでは世を生き延びられないことも、分かってしまった。だから――いいんだ」
そう言いきり、ふいっと顔を背けてしまう。「いいんだ」と言いつつも、その眼差しは晴れやかなものではなかった。
覚悟しているというよりは、諦めている。クラートにはそう感じられた。
兵たちが駐屯地を忙しく走り回っている。薪を集め、火を焚き、いつ来襲するか分からないフォルトゥナ軍を迎え撃つべく、士気を高める。
もう、後には引けない。クラートはもちろん、レイドも。
ここで、全て決着を付ける。
フォルトゥナ側からの接触は予想以上に早く、そして予想外の人物が駐屯地を訪れた。
草原の彼方からやって来る、馬の姿。偵察隊の報告に、クラートたちは眉をひそめた。東の地平からやって来るのは馬一騎のみ。しかもその背に乗っているのは、女性魔道士だったという。
偵察隊が見たという女性は、少なくともミランダではなさそうだ。だが、フォルトゥナ元大公は魔道士とはいえ、女性一人に先陣を切らせてくるつもりなのだろうか。
クラートはすぐさま陣を整え、ひとまず女性を迎える体勢を取らせた。
「クラート大公、フォルトゥナからの使者をお通しします」
垂れ布をめくって兵士が言い、レイジェン子爵に伴われて若い女性魔道士がクラートの天幕に入ってきた。
「……ようこそいらっしゃった。お初お目に掛かります、フォルトゥナの使者殿」
クラートが硬い表情で挨拶すると、女性魔道士は顔を隠していたフードを持ち上げ、にこりともせずに頭を下げる。
「ええ。お久しぶりです、クラート大公。といっても、わたくしが最後にお会いした時はまだ、公子でいらっしゃいましたが」
えっ、とクラートは目を丸くし、反射的に脇にいるレイドを見上げる。目の前の女性と会った覚えのないクラートだが、一方のレイドはなぜか、苦虫を噛み潰したような顔で女性を真っ直ぐ睨み付けていた。
クラートは女性の方を向き、改めて彼女の姿を確認する。
毛先の跳ねた灰色の髪に、意志の強そうなモスグリーンの双眸。すらりと高い身の丈。
「……申し訳ありません。使者殿とお会いしたことを失念していたようで」
「それも致し方ないでしょう。わたくしたちが会った時、あなたは呪いによって我を失い、愚かにもレティシア様に剣を向けていたのですから」
感情の起伏の感じられない、女性の言葉。
クラートが唖然と口を開いた後、女性は厳しい眼差しでクラートを見据えてきた。
「わたくしの名は、キサ・ウェルキンス。聖都クインエリアの神官であり、現在はフォルトゥナ公国軍に籍を置いております」
レイドがギリリと歯を食いしばる。レイジェン子爵もさすがに目を瞠り、クラートは言いしれぬ不安と恐怖に胸を押し潰されそうになり、ぐっと拳を固めた。
キサ・ウェルキンス。聖都クインエリアの神官で、レティシアの後見人であるユーディン・シュトラウスの部下。
今年の春にセフィア城で行われた三百五十年祭で、ユーディンに随行して来訪したという彼女は、「聖槍伝説」の舞台上で宿敵に狙われたレティシアを救ってくれた人物の一人だった。くしくもクラートは敵の呪いに負け、レティシアに剣を向けてレイドに取り押さえられることになっていたのだが。
ぐるぐると脳内を駆けめぐるのは、「なぜ」の一言のみ。
「……使者殿の身分は分かった。だがなぜ、大司教の配下である貴殿がフォルトゥナ公国軍に?」
言葉に詰まったクラートに代わり、レイドが静かな声で問う。さすがレイド、その声に怯えの色や震えは一切ない。
「クインエリアでは、大司教を捕らえて新たなる大司教を立てるべく反乱が起きていると聞いているのだが――そのような時期に、聖都の神官である貴殿がフォルトゥナに身を置いていることに疑問を感じるのだが」
「おっしゃることももっともでしょう。ですが、ご心配なく。レティシア様に危害を加えるつもりはございませんので」
ですが、とキサは相変わらず感情のこもらない声で続ける。
「……レティシア様には申し訳ないのですが、今回の戦乱をもって、オルドラント公国の歴史を終わらせてもらいます。公国の存在は、我々にとっても益になりません。どうか、悪しからず」
「我々にとって……?」
ようやっと、クラートは乾ききった唇を開いた。
「どういうことだろうか、キサ殿。あなた方聖都とフォルトゥナの繋がり、それと私の国の滅亡に、何の関連があるのだろうか」
「申し訳ないのですが、これ以上はわたくしの口からは。それに、わたくしはただ事実を伝えに参っただけでございます」
天幕内に異様な空気が流れる。キサの言葉の真意を汲み取るべく、皆警戒して彼女の言動を見守っていた。
「もうじき、フォルトゥナ元大公の率いる本隊が到着するでしょう。今回わたくしは、元大公の命で参上したのではなく、ただ個人的にあなたがたに真実をお伝えしようと一足先に参っただけ。後は、高みからあなたがたがぶつかり、共に血を流し、相打ちすることを心から望むのみです」
ひゅ、とクラートの喉が鳴る。
相打ち。今、キサはそう言わなかったか。
「キサ殿――ますますあなたの狙いが分からない」
「分からなくて結構です。わたくしは聖都のために動くのみ。そのためならば、誰の血が流れようと知ったことではございませんので」
キサは口を切る。そしてくるりと背を向けた。去るつもりなのだろう。
「キサど……」
「補足ですが」
キサは垂れ布の手前で振り返り、そして――ゾッとするような微笑みを浮かべた。
「わたくし、三百五十年祭よりも前にあなた方と会っているのですよ。――赤髪の騎士殿、あなたの想い人はとても使いやすく、そしてとても優秀な操り人形になってくれました。作戦失敗とはいえ、わたくしたちの思う通りに動いてくれたこと、感謝しますわ」
レイドの瞳が拡張する。直後――
「っ……貴様!」
だん、と床を蹴ってレイドが抜刀する。銀の軌跡を描いて繰り出された剣戟はしかし、揺らめく垂れ布をばっさり切り落としただけだった。
はらはらと布の切れ端が舞う一方、駐屯地もちょっとした騒ぎになっていた。キサは驚くほどの速さで撤退し、既に馬の姿もないという。
駐屯地で右往左往していた兵士たちは、憤怒の形相でクラートの天幕から出てきたレイドを目にしてぎょっとし、若い者たちは尻餅をついて、鬼気迫るレイドから距離を取った。
「レイド!」
遅れて天幕から出てきたクラートは、抜き身の剣を下げて肩で息をするレイドの腕を掴み、無理矢理自分の方を向かせた。
「気持ちはよく分かる――だが、ここで激昂しても意味はない」
「……分かってる」
レイドはなおも怒りのオーラを消すこともなく、それでも素直に剣を鞘に収めた。どこか視点の彷徨っていない彼の脳裏にはきっと、優しく微笑む恋人の顔が浮かび上がっているのだろう。
クラートもまた、レイドの腕から手を離して唇を噛む。キサの来訪で余計に分からなくなったこともあるし、逆に疑問が解けたこともあった。
昨年冬の、王都アバディーンにて。ティエラ王太子就任式直前で起こった、セレナの暴走事件。エルソーン王子に従っており、王子の敗北を悟って逃走した魔道士。
あれは、キサだった。キサは「クインエリアのため」に、エルソーン王子に取り入った。そしてセレナを呪い、無差別殺戮事件を起こさせた。これによってティエラ王女派は一時崩壊し、エルソーン王子に世が傾こうとしたのだった。
その時はエルソーン王子の息子であるエヴァンス王子の力を得て、クラートたちは軟禁状態から脱出してティエラ王女を助けられた。だがあの魔道士の行方は霞となって消え、それっきりになっていたのだ。
だとしても、いよいよ分からない。
キサはユーディンと同じく、レティシアに忠誠を誓っていたという。とすれば、レティシアと繋がりの深いオルドラント公国を潰すことに、何の利益があるのだろうか。
加えて彼女は、現在こそフォルトゥナ軍に加わっているが「相打ち」を狙っているという。彼女は――ひいては聖都は、オルドラントとフォルトゥナ両国が共倒れになることを望んでいる。
いや――と、ひとつの可能性に至ったクラートは瞳孔を見開く。
ひょっとしたら聖都は、オルドラント公国やフォルトゥナ公国だけではなくて――
「報告します!
」
クラートの思考を遮って、偵察隊の若い兵士が足元で膝を折る。
「東方より、フォルトゥナ公国軍とおぼしき一群がこちらへ向かっております」
来たか、とクラートは身を固くする。
「敵の数は?」
「確認できただけでも、百騎近くは。……魔道士反応魔具は、ほぼ全員に対して反応を示しておりました。大半は魔道士勢のようです」
偵察隊には、リデルの魔道士から譲り受けた魔具をいくつか持たせていた。その中の「魔道士反応魔具」は、遠距離からでも相手が魔道士か否かを判別できる優れた魔具であった。非魔道士であり魔法の力に疎い兵士たちも、この魔具が反応を示せば敵は魔道士だと分かるのだ。
百騎。どうやらフォルトゥナ大公は十七年前と同じく、少数精鋭で挑んでくるつもりのようだ。対するオルドラント勢は千近く。数では勝っているが――
「……魔道士一騎を落とすために、兵を十人犠牲にするような真似はしてはならない」
クラートが呟くと、偵察隊の報告を聞いて冷静さを取り戻したらしいレイドも、ゆっくり頷いた。
「……そのための魔具だ。奴らは強力だが、勝てない相手ではない」
クラートは頷き返し、そして踵を返した。
「全員、配置に付け! フォルトゥナ軍を迎え撃つ!」
クラートの凛とした声を受けて、兵士たちは勇ましい声を上げた。




