それぞれの想いを胸に 3
クラートはさあっと青ざめたレティシアを見つめ、端正な顔を苦々しく歪めた。
「……補足するならば、歴史上クインエリアで内乱が起きたことは皆無ではない。だがいずれの事例も、道を誤った大司教の愚行を正すため、神官たちが大司教を捕らえて廃したものばかりだ。その後再び行われた儀式で新しい大司教が立ち、結果前大司教を廃した決断は正解だったと言われている。けれど、今回はそうではない。少なくとも僕が見る限りでは」
クラートは地図の東端、灰色の海に面した半島を示す。
「聖都クインエリアは現在は大司教の力が弱まりつつあるものの、正統な権力を得ている。セフィア城侍従魔道士団長選定もそうだ。もし大司教マリーシャが神官や世間の支持を得られていないならば、二代に渡って魔道士団長を聖都の女官から出すことは叶わなかったはずだ」
それもそうだ、とレティシアは納得する。ロザリンドの死後、リデル王家エルソーン王子は自分の息の掛かった魔道士を魔道士団長に据えようと画作していたという。国立の教育機関であるセフィア城を攻略し、自分の駒になる魔道士を育てようとしたのだろう。
だがすかさず介入してきたクインエリアによって、エルソーン王子の作戦は挫かれた。大司教マリーシャは次期魔道士団長にアデリーヌ・クワイトを推薦し、エルソーン王子を押しのけて彼女を魔道士団長の座に据えたのだ。これもまた、大司教の権力あってこそ為し得たことだろう。
結果、セフィア城はエルソーン王子派の介入を防ぎ、魔道士団長の方針によって「王都で生き抜く魔道士の育成」を信念に、教育活動を続けることができたのだった。
レティシアの脳裏を、穏やかな中年の男性の笑顔が横切る。
「……シュトラウス様」
「え?」
「ユーディン・シュトラウス様だよ。大司教の側近で、この前の劇で助けてくれた人」
彼は優秀な魔道士で、ロザリンドやアデリーヌと面識がある。彼に付随してきたキサという魔道士も、聖都に絶対な忠誠を誓っており、大司教の娘であるレティシアを守るため、ミシェル・ベルウッドからレティシアを庇ってくれたのだ。
オリオンの太い眉が不審そうに寄せられる。
「……あの、人の善さそうなおっさん魔道士だよな。じゃあ、あのおっさんも反乱に加わっているのか?」
「どうだろう……でも、聖都の面々が皆、大司教の敵というわけではない可能性が高い」
クラートが言い、レティシアがしわくちゃに握り潰した手紙をそっと奪い、テーブルに広げて丁寧に皺を伸ばした。
「むしろ、シュトラウス殿は反大司教派から大司教を守っているかもしれない。ロザリンド・カウマー前魔道士団長は大司教マリーシャの一番の側近だった。彼女亡き後、その地位はシュトラウス殿が引き継いだと聞いている。彼は前魔道士団長の方針に従うだろうし、そうなれば彼が大司教を捕らえるのは筋違いだろう」
「……クワイト魔道士団長はどうなるのでしょうか」
「どうしようもないだろう」
セレナの問いに答え、レイドはおろおろする彼女の手からポットを取って代わりに湯を注いだ。
「魔道士団長はセフィア城にいる――あそこは政府の介入や権力争いから隔離しなければならない、特殊な地域だ。これはきっと、魔道士団長にとって都合がよいことだったろうが、魔道士団長は魔道士団長という職に就いている限り、中立を保たなければならない」
「……それがどうして、魔道士団長にとって都合がいいのですか?」
「彼女が聖都に帰った場合、非常に複雑な立場になりうるからだよ」
レティシアの質問に答えたのはクラート。
彼は、やや理解速度の遅いレティシアの素朴な質問を気にした様子もなく、優しく教えてくれる。
「一見すれば、大司教の推薦を受けて魔道士団長になった彼女は大司教派だろう。でも、彼女の持つ影響力は大きい。反大司教派が過激な方法に出てもおかしくない。ただ単に捕らえるだけならかわいいもの、彼女を盾に大司教を脅したり、大司教を操ろうと企むのも不自然なことではないだろう。そして彼女の『セフィア城侍従魔道士団長』という肩書きを利用し、罪のないセフィア城の生徒まで戦争の道具にすることもある。だが魔道士団長がセフィア城にいる限りは、そういったことに巻き込まれることはない。むしろ、彼女は城にいた方がいいんだ」
そういうことか、とレティシアは納得する。ただし、納得はするが、賛成はできない。
少なくとも魔道士団長はセフィア城にいる限り、聖都のいざこざから逃れられるのだ。クラートの言うように、魔道士団長という立場の彼女を、多くの神官が欲し、または邪険に思うだろう。決して愛想がいいとは言えない魔道士団長だが、それでもレティシアを教え、守ってくれた人には変わりない。そのような人は一人でも多く、安全な場所にいてほしい。
(いや、他人の心配してる場合じゃないか)
レティシアはテーブルに広げられた件の手紙を睨み付ける。
「……聖都の神官の狙いは、何にしても私ですね」
「……その通りだけど、ちょっと危なくない?」
冷静に指摘したのは、ノルテ。
彼女は茶菓子に出されていたメレンゲ菓子をぽいっと口に放り、ゆっくり咀嚼しながら言う。
「言っちゃえば、うちと同じ条件になってるんだよ。うちの場合、人質は姉さんだった。それがレティの場合は大司教に変わっただけだよ。考えてもみなよ。大司教マリーシャは前大司教ティルヴァンの妻で、正式に大司教の座を継いだんだろうけど――そこに噂の次期大司教候補が現れたら、どうよ? しかもその次期大司教候補はしっかり、前大司教の血を継いでいるんだよ? マリーシャのように、婚姻によって前大司教ティルヴァンと繋がったわけではない、直系のレティシアが、ね」
ノルテの指摘に、クラートも目を瞠る。そして、前髪をぐしゃりと掴んで呻き声を漏らした。
「そうか……レティシアが聖都に行けば、捕らえられている大司教の命が危うくなるんだ……」
聖都の神官は、レティシアを大司教にしようとしている。レティシアを釣る餌が実母であるならば、彼らの望み通りレティシアが聖都の危機に際して大司教になった場合、マリーシャは用済みになってしまう。
レティシアはノルテの言葉に眉をひそめた。
(……いや、確かにノルテたちの言うことに一理あるけど)
「ちょっと待ってください」
耐えきれずレティシアはソファから身を起こし、口を挟む。
「なんか、私が大司教になるって前提で話が進んでますけど、私は大司教になるつもりは全くありませんから」
レティシアの言葉に、五人はきょとんと目を丸くする。
「……ないのか?」
「なるって言った覚えは一度もないんだけど」
オリオンに強気に言い返し、レティシアはソファに座り直して胸の前で腕を組んだ。
「だって、大司教になるためにノコノコ行くなんて、それこそ相手にとっては思うつぼじゃないですか。……私は確かにクインエリアに行くつもりです。でも、大司教の座を継ぐために行くんじゃありません」
そして、すうっと息を大きく吸う。
「……聖都に行って何をするかは、現地で決めます。場合によっては、女神信仰そのものを潰すくらいの覚悟です」
もし、そもそも聖都という存在自体が間違っているならば。聖都や大司教があるからこそ反乱が起こるならば――そのような存在は、必要ない。
「……何が正しいのかは、申し訳ないけれど私が判断します。その結果、聖堂ひとつくらいぶっ壊すかもしれませんが……許してください」
しばらく、痛々しい沈黙が流れる。皆、「どうしよう」とばかりに互いの顔を見合わせている。
戸惑う仲間たちを見ていると、次第に高揚していたレティシアの気持ちも萎んでしまう。そもそもレティシアは皆が思うほど精神的にタフではない。
(……やっぱ、やりすぎ? 突っ走りすぎ?)
今すぐこの場に土下座したいような気持ちに襲われる中――プクッ、と不自然な音が上がる。
「……あっははは! そう来たか、レティ!」
耐えきれず吹き出したノルテはおかしそうに笑い、涙のこぼれた目元を拭うとテーブル越しに手を叩いてレティシアを称賛する。
「よく言った、レティ! そうそう、女はそれくらいの気合いでないといけないんだよ!」
「……レティシアらしいと言えば、それまでだな」
レイドも呆れたように言い、肩を落として天井を仰ぎ見る。
「……だが、ノルテの言う通りでもある。びくびくしていても神官に舐められるだけだ。いっそ、聖堂ひとつと言わず二三個爆破するくらいの気持ちで行け。おまえにはそれくらいの気持ちでいる方が、身のためだろう」
「僕たちからは依存はないよ。きっと、陛下や王太子殿下も笑って受け入れてくださる」
クラートは苦笑混じりで言い、では、とレティシアを真っ直ぐ見据える。
「……君はこの後、クインエリアに向かうということでいいね」
「はい」
「では、君の旅にリデルの方から護衛も頼むべきだろうね」
クラートから提案され、それもそうだとレティシアは頷いた。王都アバディーンからクインエリアまで日帰りで行く、というわけにはいかない。二年前の冬と同じように、いくつものリデル諸侯の領土を抜ける長旅になるのだ。
ふと、レティシアは顔を上げた。先ほど、ドメティ大公とフォルトゥナ大公が同時に大公位放棄したという話題を思い返す。
「……ひょっとしてですが、クインエリアへの道程で通っちゃいけない場所とかありますかね?」
「鋭いね」
クラートは笑い、テーブルの地図を示した。
「さっきも話題に出たけれど、両大公は大公位を返上してそれぞれ動きを見せている。特にフォルトゥナ大公は、リデル王の制限なしという権限を振り回して、リデル諸侯に声を掛けているんだ」
「声掛けなんてかわいい表現じゃない。誑し込んでオルドラントに攻め入るときの駒にしようとしているのだろう」
苦々しくレイドが言い、地図上のいくかの諸侯領を示した。
「……フォルトゥナ公は魔道軍事力を振りかざしている。となると、奴の傘下に入りかねないのは魔道に優れた諸侯だ。俺が知っている限りでは、フェビアノ子爵、アルカジャ伯爵、ロヴィン男爵、ユーフェイ男爵、ストレイ男爵といったあたりか。いずれも、フォルトゥナ領の近くに領地を持っている」
確かに、レイドが読み上げた諸侯領はいずれもフォルトゥナ公国を包む形で存在している。そして必然的に、レティシアがアバディーンからクインエリアに行く際に障害となり、迂回せねばならなくなる。
「……少なくとも、その辺は避けていかないといけないね」
「だろうな、奴らはオルドラント大公、バルバラ王女、クインエリアの末裔が親しいことを知っている。避けられる障害は避けるべきだろう」
レイドは言う。
「……ちなみに、俺たちが以前厄介になったベルツ子爵、あそこも魔道士の家系だが、今回は傍観を決め込むそうだ」
「そうなの?」
「あのおっさん、面倒事は嫌うし元々フォルトゥナとは不仲だって聞いたぞ」
オリオンも付け加え、後は――といくつかの諸侯の名を示す。
「ダールストン男爵。カティアとディアスの実家だな。ここもノータッチだ。場所は離れているが、王国西端のマックアルニー子爵やクワイト伯爵も大丈夫だろう。俺のブルーレイン男爵家は――もう没落しきってるが、まあほっといてもいいだろうな」
「……そっか」
レティシアはオリオンの太い指に従って、各諸侯の名を目で辿っていった。
そして、気付く。
レイドもオリオンも、クラートでさえ言及しなかった一点。レティシアたちがよく知っている――知りすぎている、諸侯の名。
レティシアはそっと、オリオンたちを見た。彼らはきっと、意図的にこの諸侯の名を外している。この場で口にしないように、暗黙の了解を立てている。
(ひょっとして……)
空気を読んで黙っておくか、それとも空気を読まずに口に出すか。
レティシアが迷っている間に、助け船は意外なところから現れた。




