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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第6部 碧空の覇者 
161/188

揺れ動く大陸 4

 音もなく降り積もる雪。一昨日から降り始めた雪は、夜中でもしんしんと降りゆき、窓の外を闇の紺色と雪の白色に染め上げていた。


 レイドは、ほのかな明かりがともされた屋敷の廊下を歩いていた。ここ、オルドラント公国公都にあるオルドラント大公館は、無骨なセフィア城に見慣れたレイドにとってはやや派手に思えたが、数日もすれば違和感はきれいさっぱり取っ払われた。

 この屋敷は、レイドが六つの頃から過ごした思い出深い場所。先の大公ギルバートに引き取られ、騎士としての訓練を積んだところ。クラートと出会い、彼を守る騎士になることを志したのも、この暖かみのある城だった。


 レイドは書類を抱えたまま、ふと足を止めた。ゆっくり首を捻って、窓の外を見やる。ぽつぽつと灯る魔道ランプに照らされて、公都ルーシュタインの街並みがぼんやりと浮かび上がっていた。


 昼間、街の子どもたちが大通りで雪遊びをしていた。オルドラントの子どもたちは雪ウサギを作るのが妙に上手い。そういえば以前、レティシアも見事な雪ウサギを作っていた。

 レイドの細い眉が寄せられる。マックアルニー子爵館で雪掻きをしていたディレン隊。意識せずとも、思い出されるのはミルクココア色の髪の女性の笑顔。

 軽く頭を振って雑念を払い、レイドは再び歩きだした。












「夜遅くまでご苦労なことだな」


 どかりとデスクに書類を載せてレイドが言うと、印鑑を押す作業をしていたクラートが顔を上げて皮肉な笑みを浮かべた。


「そう言いながら新しい書類を持ってきたのは、どこの誰かな?」

「仕方あるまい。気付いたら新しいものができていたんだ。俺だって嫌に決まっている」


 レイドはクラートの脇のソファに座り、クラートが判を押した書類を手にとってテーブルに並べた。そして何も言わず、日付順に書類を並べ替えてくれる。


 クラートはそろそろ痛みだした目頭に指を当て、微かに笑った。

 昔からそうだ。レイドは口ではなんだかんだ言いつつも、必ず手を差し伸べてくれる。二人が幼い頃も、セフィア城にいた頃も、今も変わらない。


「……レイド」


 呼びかけてしまってから、クラートは反省する。


 「謝るな」とレイドは言った。こうなったのはクラートのせいではないし、君主が易々と頭を下げるなと叱咤されたのを思い出したのだ。

 書類整理の手を止め、レイドがうろんな間差しで見上げてくる。「余計なことを言うなら殴る」とその隻眼は訴えていた。

 さて、とクラートは手を止めてしばらく思案し、徐に口を開いた。


「……手は動かしながらでいい。耳だけこっちに向けて、気が向いたら返事してくれ」


 その言い方で、仕事関連の話題ではないと分かったのだろう。すぐさまレイドは視線を書類に戻し、黙って順番を並び替える作業に戻る。

 相変わらずな相棒に苦笑を零しつつ、クラートも判を押しながら、レイドを見ることなく言う。


「……君はいつからセレナのことを好きになった?」

「帰ってもいいか」

「まあ、そう言わずに」


 本当に腰を上げそうなので、クラートはどうどうとレイドをなだめる。


「さっきも言ったけど、言いたくないなら黙っててくれて構わないから。僕が自分の気持ちを整理させるためだと思って、付き合ってくれよ」


 レイドの睨みはもう既に慣れている。クラートは射抜くような視線をひょいとかわし、書類をめくって拳大の判をインク台に押しつける。


「……僕自身も、自分の気持ちに整理を付けたい。そのために、先輩であるレイドの意見を聞きたくてね」


 しばし、二人の間を若干気まずい沈黙が流れる。ぱちぱちと暖炉の火が燃え、レイドの横顔を赤く照らしている。

 クラートはレイドから放たれる刺すような殺気を気にすることなく、気長に返事を待とうとペンにインクを浸して書類にサインをした。


「……好きだと自覚したのは、アバディーンに行ってからだ」


 ぱちん、と木がはぜる音にかき消えてしまいそうなくらい微かな声。

 クラートはペンにキャップを被せ、興味を引かれてレイドの横顔を見る。


「それまでは、大切な存在だとは思っていた。あいつはディレン隊の誰よりも弱っちかった。でも、そんなあいつを隊に誘ったのは俺自身だ。だから、守ってやらなくてはと思っていた。そして、俺が殺しをしなくていいよう、あいつを側に置いておきたかった」


 クラートは静かに頷く。この辺りの話は以前にも、ぼそっとレイドが語ってくれたことがあった。


「心ない言葉であいつを傷つけ、瀕死の目に遭わせてやっと気付けた。俺はあいつが好きだったんだと。好きだったのに傷つけ、守ってやれなかったんだと」


 クラートが作業の手を止めていると、「手を動かせ」とレイドの叱咤が飛んでくる。次の書類にサインしつつ、クラートはさらに問うてみた。


「レイドは、本当にセレナのことが好きなんだね」


 返事はない。拗ねているのか照れているのか。

 どさり、と窓の外で小さな音がする。木の枝に積もっていた雪が重みで落下した音だろう。


「じゃあ――もしだけど、僕とセレナ両方が危険な目に遭ったら、君はどっちを助ける?」


 意地悪な問いだとは分かっている。だが、確認しておきたかった。

 彼の反応と返答次第で、クラートは今後のレイドの扱い方を変えるつもりだったから。


 そして――あり得ないと思いつつ、願わくば恋人の方を取ってほしいと思いながら。

 彼はクラートの問いに動じた様子もなくとんとんと書類を整理し、二つ目の山に取りかかる。


「クラートに決まっている。騎士としては当然だろう」

「……だろうね」

「何だ、セレナの方を取るとでも思っていたか」

「思っていないよ」


 レイドの言う通り、騎士として彼の判断は当然の解答だったし、彼の性格からしてもセレナを選ぶとは思えなかった。だから、レイドの反応は全てクラートの想定内だった。


 それでも、一種の落胆を感じずにはいられない。やはり、レイドはどこまでも「騎士」だった。クラートの前でも、その姿を崩すことはなかった。

 自分の前くらいでは素直に答えてほしかった、と思うのは罪なことだろう。今や自分は一国の大公であり、レイドは自分に服従する立場なのだから。セフィア城にいた頃のような気楽な関係ではなくなっている。


「……さしずめ」


 レイドが口を開く。


「いざ戦争が起きたら、俺に暇を出そうとでも考えていたのではないか」

「まあ、当たらずとも遠からずだね」


 さすがレイド。クラートの考えていることはお見通しのようだ。書類を繰る手を止めず、レイドは淡々と言う。


「何度も言っているだろう。俺は死ぬまでオルドラントの騎士だ。それがギルバート様との約束だったし、俺は腐っても草原の民だ。あの地に住む奴らを守るためには、一生この国にいなければならない」

「たとえ、それが理由で大切な人と別れざるを得なくなっても?」

「覚悟はとうに決まっている。俺だけじゃない。セレナもだ」


 静かに言うレイド。その横顔からは、感情が読み取れない。


「セレナは全てを承諾した――考えてみろ。一緒にいることもできない、側で守ってやることもできなくて、クラートの方を優先させるような俺だぞ? いつ戦場でくたばるか分からないような俺と付き合うなんて……本当に、セレナはお人好しなんだ」


 口では言いつつも、その眼差しは一気に優しくなった。それを見ていて、クラートもほっと肩の力を抜く。


 レイドは、分かっていない。彼がどれほどセレナに助けられているのか。セレナがどれほどレイドのことを愛しているのか。愛しているからこそ、セレナはレイドの全てを受け入れたのだろう。レイドを心から信頼しているから、自分よりクラートを選んでも、笑顔で送り出してくれたのだ。

 クラートは自虐的な笑みを浮かべる。自分はレイドに説教できるような立場ではない。きっちり相手を決めたレイドと違って、自分は根無し草のようにフラフラした挙げ句、宙ぶらりん状態でセフィア城を去ることになったのだから。


 ――レティシア。

 クラートの微かな呟きは、しっかりレイドの耳にも届いていたようだ。だが彼はわずかに眉を寄せたのみで、黙々と作業を続けている。からかったりしないのは、彼なりの優しさなのだろうか。


 クラートは、ふいっと窓の外を見やった。暗闇の中で月光を浴びて降り積もる雪。彼女も、遠く離れたリデルの地からこの雪の夜空を眺めているのだろうか。


『クラート様はもう既に大公の御身。お若くして大公に就任されたとはいえ、世間は未婚でかつ決まった相手をお持ちにならないクラート様に注目しております』


 日中の、臣下とのやりとりが思い出される。


『特に現在、オルドラント公国を取り囲む情勢は決して友好とは言えません。とりわけドメティ公国とフォルトゥナ公国との関係は何代も前から険悪――いつ公国の隙を衝いて侵略してくることか分かりません』


 その通りだ、とクラートは頷いた。


『代替わりしたばかりのオルドラントは非常に脆い――君の言う通り、内堀からも固めなければならないだろう』


『はい。いずれクラート様には御身に相応しい女性を妻として迎えいただかなければなりません』


 それまで臣下の言葉に同意してきたクラートは、すっと優雅な眉を寄せた。

 臣下はそんなクラートの変化を見、深い皺の刻まれた顔にわずかに悲哀の色を浮かべた。


『クラート様のお気持ちはわたくしめも察しております。我々は最後までクラート様のご意向に従います。しかし――どうか、悔いることのないご英断をなさってください。私が望むのはそれだけです』


 祖父の代からオルドラント大公家に仕えている老年の騎士は、クラートにとってもう一人の祖父のような存在だった。公務で忙しい父の代わりにクラートに弓を教えてくれたのも彼だった。

 セフィア城から帰ったクラートは、彼には自分の考えを全て打ち明けた。もちろん、城に残してきた仲間の中に、特別な感情を抱く女性がいることも。その彼女が、やんごとない――下手すればクラートよりも遥かに高貴な身分であることも。


 クラートは窓の外から視線を戻し、のろのろと書類にサインする。

 物心付いたときから、自分の身分についてはある程度把握していた。少年期には、将来恋愛で結婚できるとはこれっぽっちも思わなくなった。かといってそれを不幸と思ったことも、領地の普通の少年たちを羨んだこともない。自分の両親とて政略結婚で、公子だった父の元に、エドモンド国王の姪であった母が降嫁してきたのだ。


 だが母は昔から父に憧れていたし、父も嫁いできた母に心を奪われて幸せな結婚生活を送れたのだそうだ。政略結婚だから愛情が芽生えないとは思っていない。自分の元に嫁いできた女性に恋することができれば問題ない。最終的に行き着く先が幸福であればいいと、クラートは思っていた。


 だからこそ、心が痛む。今、クラートに相応しい花嫁候補とはつまり、オルドラントに対して協力的であり、なおかつ安定した勢力を持った貴族の娘ということになる。

 その条件に、「彼女」は一致しない。彼女は身分こそ高いが非常に不安定な足場に立っており、彼女の存在がクラートの、オルドラントのためになるとは限らなかった。


 だから、言えなかった。この想いに気づいていながら、はっきり言葉にすることができなかった。たとえ想いを通じ合わせても、その先に別離の道が続く可能性があるから。最悪の場合、彼女と自分が対立しなければならない状況に陥るかもしれないから。

 全て、受け入れていたことだった。公子という恵まれた地位にいるのだから、多少の不自由は覚悟していた。

 それでも――


「……レイド、頼みがある」


 クラートの声掛けに、レイドが不審そうな目を寄越す。今日のレイドは不機嫌そうな表情しかしない。間違いなく、クラートの余計な質問が彼を苛立たせているのだが。

 だがクラートは臆することなく、ペンをデスクに置いて真っ直ぐに赤髪の部下を見据えた。


「……君を騎士と見込んで、今後も僕の元についてもらう。これに関しては決定事項だし、君も異論はないだろう」


 レイドはゆっくり瞬く。それを肯定の意と受け取り、クラートは静かに続けた。


「だが、この契約は僕の命――言い換えれば大公家の血が続く限りだ」


 ぴりっと張りつめた空気が部屋に満ちる。

 クラートの言わんとすることが大体分かったのだろう、レイドの眉間の皺が深くなる。


「もしも僕が子を持たずして死んだ場合、君との契約は解消だ。その後は君の好きなように動いてくれ。公国を捨てて草原に戻りたければそうすればいい。セレナを呼んで一緒に暮らしたければ、そうしてくれ」


 淡々としたクラートの言葉を聞いていたレイドは、薄い唇の端を微かに曲げた。


「……大公としては最悪の命令だな。おまえ、まさか同じ言葉を大公館中の者に言って回るつもりか?」

「まさか。レイドだから言ってるんだよ」


 軽く手を振り、クラートは眉を垂らして微笑む。


「君は子どもの頃から、僕のお守り役になってくれた――本当に感謝している。だからこそ、契約が切れた暁には自由になってもらいたい。僕の最後の我が儘だと思ってくれ」


 クラートが言葉を締めくくると、しばらく二人の間に気まずいような沈黙が流れる。レイドをじっと見据えるクラートと、疑うような眼差しを返すレイド。


 無言のにらめっこから先に外れたのは、レイドの方だった。

 彼は長い前髪を揺らせて書類に向き直り、とんとんと角を揃えて整えると大きめのクリップで綴じた。


「……縁起でもないことを言う前に、手を動かせ。俺に偉そうな口を叩くのは、一人で書類整理できるようになってからにしろ」


 それは、いつものレイドの口調だった。自然とクラートの肩にこもっていた力が抜ける。


「酷い言い様だな。僕はちょっと作業が遅いだけで、無能なわけじゃないんだけど」

「では、のろまな分黙って作業しろ」


 冷たく言うレイド。彼はあっという間に資料を並び替え、既にクラートの押印を待つ体勢に入っていた。


 ――君には敵わないよ。

 クラートは笑い、レイドの叱咤が飛ぶ前にと、急ぎ印鑑を手に取った。













 穏やかな日々は、急に終焉を迎える。


 「バルバラ王国女王陛下崩御」


 不穏な空気が、大陸を包み込もうとしていた――

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