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マージナイト・プリンセス  作者: 瀬尾優梨
第5部 紫紺の面影
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三百五十年祭 4

 カーン、カーン、と鐘を鳴らす音と同時に、大広間の舞台に掛けられた重々しい緞帳がするすると上がってゆく。


 管弦楽クラブの奏でるメロディーに合わせて舞台に上がったのは、軽装な女性騎士の出で立ちをした亜麻髪の少女――古の小王国トローネの王女、ルーシ。

 彼女は少しだけ癖のある亜麻色の髪を照明に煌めかせ、舞台の中央で立ち止まる。


「ああ、本当に誕生日会なんて、憎らしいばかりだわ。お父様も官僚も誰も、私が生まれたことなんてこれっぽっちも喜んでいないのに……」


 練習の日々でめきめき上達したルーシ役の少女・アネットは両腕を大きく振って大げさに嘆き、その場に座り込んだ。


「私は、大がかりな誕生日会なんて必要ないのに……本当に、私が生まれたことを喜んでくれる人たちがいるだけで、十分なのに」


 そして天井を見上げる。


「ああ……この城壁の向こうには、一体どんな世界が広がっているのかしら……外の世界では、私のことを求めてくれる人がいるかしら……」


 当時は王家の跡継ぎになれなかった王女。彼女は父王の望まれぬ子として生まれ、ぞんざいな扱いをされてきた。何をしても怒られず、褒められもしない。父王は、ルーシ王女に全くの無関心だった。


 そんな王女はいつの間にか兵舎に入り浸るようになり、そこで剣や槍の使い方を教わったのだという。

 愛用の槍を持って己の不遇を嘆き、外の世界への憧れを募らせるルーシ王女。そこへ――


「ああ、姫様、このようなところにいらっしゃったのですね」


 聖女の格好をしたティーシェが、ため息と共に壇上に上がる。美少女の登場に観客は沸き、あの少女は何者だと、ひそひそ声が上がった。


「……人気だねぇ、ティーシェは」


 約束通り、最前列に陣取って偉そうに脚を組んでいたノルテが言う。


「でもまあ、あれほどかわいい顔してればそりゃあ人気も出るかな。ま、このノルテさんほどじゃないけど」

「自分で言ってんじゃねぇよクソガキ」


 隣から野太い声による突っ込みが。

 オリオンも大儀そうな格好になり、ぼりぼり頭を掻いている。


「ったく、カティアたちも妙に気を使わせやがって……別に俺は、劇には興味ないのに」


 そうぼやくオリオンの隣には、無言で劇を見るミランダ。さらにその向こうには、二人仲よく手を繋ぎ合ってレティシアの登場を待つセレナとレイドが。ちらとそちらを窺うと、小声でレイドが何かを言い、それに対してセレナが答える。二人は顔を見合わせて、くすくすと笑い合っていた。


 鬼上司のレイドがあれほど甘い顔をするのも砂糖吐きモノだが、何よりオリオンにとってはこの位置がむず痒かった。


「……なあ、俺後ろに行ってもいい?」

「だーめ。カティアたちの厚意を無駄にするのー?」

「知るかっ」


 カティアたちは、とりわけレティシアと親しい者たちのため、S席を辞退してくれたのだ。仲間で固まって観られるということでセレナは手放しで喜んでいたし、レイドも真顔だがゆっくり頷いていた。ミランダもまんざらでもなさそうだったのだが、唯一不満を申し立てるのがブルーレイン男爵家公子殿。


「だいたいおまえが要らんこと言ったからだろうが、クソチビ」

「あぁん? 誰に向かってチビ言ったこの海藻野郎。海に返されたいの?」

「……おまえなぁ」

「二人とも、静かに」


 横でミランダが、視線を反らさず叱咤する。


「レティシアが出るわよ」









 しぶしぶながら誕生日会に出席したルーシ王女。その日の夜、彼女は自室で刺客の襲撃を受ける。

 夜の闇に紛れて襲いかかってきた黒ずくめの集団を、ルーシ王女は鍛え上げた槍術で撃退し、王国を出ることを決意する。

王女は悟るのだ。刺客を向けてきたのは他でもない実父である国王。王女は自分に付き従う者を連れて、隣国へ亡命するための準備を整えていた。


「姫様、馬車の準備ができました」


 ルーシ王女の前に跪いて答えるのは、若い女性魔道士。凛とした面持ちの彼女は、ルーシ王女の幼少時からの友で、王女の護衛魔道士でもあった。


「すぐさま出立致しましょう。いつ、国王陛下が姫様の不在に気付かれるか分かりません」

「そうね。皆、準備はいい?」


 女性魔道士が立ち上がって振り返ると、王女の護衛たちが頷く。その中には、豊かなオレンジ色の髪のシスターがいた。


「今ならば城門の見張りも手薄です。さあ、参りましょう」


 朗々とした声で台詞を言う少女。ティーシェ扮する聖女が頷き、ルーシ王女と一緒に馬車に乗り込んだ。騎士たちは馬車を守るように側に立ち、身分の低い護衛たち――オレンジ色の髪の若いシスターもその中に入る――が脇を固める。


「行きましょう、皆さん。行き先は南部連合王国です!」


 馬車が動きだす。夜の闇の中、ルーシ王女の一行は長い長い亡命の旅に出た。












 第一幕終了。緞帳が下りると同時に、割れんばかりの拍手が起こる。

 レティシアは他の役者と一緒に舞台脇に引っ込み、すぐさまその場に積み上げられていた木箱に腰を下ろした。たった一言なのに、手汗が酷い。


(ティーシェやクラート様はすごいよなぁ……私はもうくたくたなのに)


 この後、第二幕はルーシ王女の冒険の場面になるのでレティシアの役はない。第三幕のラストになってようやく、レティシアの最後の番が回ってくるのだ。

 一方、ティーシェはほぼずっと舞台に上がるしクラートも途中から参加する。


(お小遣いもあるし、何か二人用に飲み物買ってこようかな)


 レティシアはタリスに一言断り、財布を持って控え室から出た。

 幕間なので、最初は飲み物を買おうと観客もあちこちウロウロしていたが、開演のチャイムが鳴るとあっという間に廊下は静かになった。残っているのは、売り子として店番している年少者と、中庭をぶらぶらする劇に興味のない人だけ。


「レティシア」


 どの飲み物を買おうか、屋台の前で右往左往していたレティシアは、背後から声を掛けられて弾かれたように振り返った。聞き覚えのある、深みのある声。


(この声は……)


 こちらへ来る姿を目にし、思わず破顔してしまう。


「……シュトラウス様!」

「久しぶりだね、レティシア」


 さくさくと中庭の芝生を踏みしめてやって来るのは、ユーディン・シュトラウス。今日は聖都の神官服ではなく、よくある男性用ローブ姿なのですっかり一般客に溶け込んでいた。


「今やっと着いたところだ。劇はもう始まっているんだろう?」

「はい、今は第二幕が始まったところで、私は第三幕まで出番がないんです」

「そうか……」


 頷き、ユーディンはレティシアが財布を持っているのを見て首を傾げた。


「飲み物でも買いに来たのか?」

「ええ……今舞台に出ている友人用にと」

「では、僕も同行しようか」


 喉が渇いているんだ。そう言うユーディンと共に、レティシアは二人で中庭の屋台に向かった。先ほどから物色していたが、最も価格の安い屋台でいいだろう。

 赤い布張りの屋台で暇そうに店番しているのは、レティシアと同い年の魔道士の少年だった。彼はかったるそうに体を起こし、レティシアとユーディンを見て目を丸くさせる。


「あれ。レティシアおまえ、役者じゃなかったのか」

「今は休憩中」


 そう言って、クラートとティーシェ二人がそれぞれ好きそうな飲み物を選んだ。


「ちょっとはおまけしてよ」

「嫌だよ。俺だって金勘定はきちんとするって約束でバイトしてるんだ」

「けち」

「けちで結構」

「今度の魔道実技の授業、覚えてなさいよ」

「知るかー。すぐ忘れてやるー」


 ユーディンは、同級生とそんなやりとりをするレティシアを見て、ふっと微笑むと自分も懐から財布を出した。


「では、僕はオレンジジュースをもらおうか」

「はーいよ」


 中年男性のユーディンが可愛らしいオレンジ色のカップを受け取るのを見て、思わずレティシアは声を掛ける。


「オレンジが好きなんですか?」

「いや、これは頑張っている君用に」


 あっさり言い、驚くレティシアにオレンジジュースを渡すユーディン


「遠慮せず受け取ってくれ」

「えっ……いいんですか」

「もちろん」


 おずおずとジュースを受け取るレティシアを、少年は不思議そうに眺めていた。


「なんだ、そのおっさんレティシアの父さんかと思ってた」


(は?)


 レティシアはきょとんとして少年を見、ユーディンを見上げた。


(シュトラウス様が私の父さん?)


 対するユーディンは落ち着いた様子で、にこやかに少年を見ている。


「そのように見えたかな?」

「んー、そうっすね。どことなく似てるし」


 言ってから少年は、はっと口を押さえる。


「あ、すんません。余計なことっすね」

「気にしないでくれ」


 それからユーディンは自分用のアイスティーを買って、レティシアと一緒に屋台を離れた。

 人影まばらな中庭を、二人並んで歩く。隣のユーディンは平然とした顔だが、レティシアは先ほどの少年の言葉が気になっていた。


(余計なこと言って……あいつ、今度ぶちのめす!)


「……私たち、親子に見えたんですかね」


 何となく呟く。レティシアは俯いてジュースを啜っていたので、一瞬ユーディンの眼差しが厳しくなったことに気付かなかった。

 ユーディンはレティシアの横顔を見つめるとすぐに厳めしい表情を収め、柔らかく微笑んだ。


「どうだろうな。僕と君じゃ、あまり似てないと思ったけれど」

「そうですね」


 ユーディンに相槌を打ち、レティシアは考え込む。


 一回しか会ったことのないレティシアの生母は絶世の美女だったが、母親に似ているとは自分でも思えない。かといって、再会する前に病没していた父と重ねるのも何となく気がすっきりしない。聖女と呼ばれた亡き姉だって、噂に聞くのみだ。レティシアにとっての両親は、いつだってルフト村にいる養父母である。


(私には、父さんと母さん以外の親は――あ、そうだ)


「じゃあ、こういうのはどうですか」


 名案だとばかりに、レティシアは今し方思いついたことを言う。


「ユーディンさんが私の父親なら、ロザリンドが私のお母さんとか。それなら私も何となく納得ですよ」


 ミシェルの凶刃の前に倒れる直前、優しい微笑みを見せてくれたロザリンド。彼女は「マリーシャの代わりにレティシアの母親にはなれない」と言っていたが、あの時の彼女の眼差しはルフト村の養母と同じ――娘を見つめる母親の目だった。

 そのことを思い出して、レティシアは何気なく言ったのだが。


 かしゃん、と小さな音。見ると、ユーディンが自分のアイスティーのコップを中庭に落としていた。跳ねた滴が彼のローブに掛かっており、レティシアはぎょっとした。


「シュトラウス様! ローブ、裾が!」

「え?」


 ユーディンはどことなくぼんやりしている。レティシアは慌てて跪き、持っていた飲み物のカップを芝生に置いて、ポケットから出したハンカチで彼のローブや靴を拭う。


「私が変なこと言ったからですよね……ごめんなさい!」

「いや、気にしないでくれ」


 我に返ったユーディンはしゃがみ、レティシアの手を掴む。汚れたハンカチを取り、いつものように微笑んだ。


「気を使わせてしまって済まない。僕もぼうっとしていたんだ」

「でも……」

「僕の服なら気にしなくていい。着替えがあるから」


 言って、ユーディンは手元のハンカチを見る。


「……これは少し預かるよ。洗って乾かして返すから」


 努めて明るく言うユーディンだが、レティシアは余計に居たたまれなくなって俯く。


(そりゃ、そうだよね……シュトラウス様にとって迷惑だろうし、ロザリンドにも申し訳ないこと言ったよね……)


「……ごめんなさい」

「だから気にしなくていいよ」


 そしてユーディンは、わっと歓声の上がる大広間の方を見やった。


「……山場のようだね。僕は着替えてくるから、君は控え室に行ってきなさい。友人のための飲み物がぬるまってしまう」


 口調こそは穏やかだが、有無を言わせない厳しさがある。これ以上ごねるのは、どちらにとってもいい結果にはならないだろう。

 レティシアはこっくり頷き、三人分の飲み物を持って踵を返し――すぐに振り返る。


「シュトラウス様。私、頑張るので……劇、絶対に見てくださいね!」


 ユーディンに自分の精一杯の姿を見せることが、彼への償いになるはずだ。

 レティシアは驚きの表情のユーディンに微笑みかけ、控え室に向かっていった。











 ユーディンは、レティシアの背中を見送って手元のハンカチに目を落とした。周囲に小さなレース飾りがあるだけの、シンプルなハンカチ。安給料のレティシアにとっては大切な日用品だろう、それには泥や紅茶のシミが付いていた。

 ハンカチをそっと上着のポケットに入れ、ユーディンは先ほどのレティシアの行動を思い返した。何の前触れもなく、ユーディンとロザリンドが自分の両親のようだと言った彼女。ユーディンの過失なのに、紅茶を落としたことを謝り通していた彼女。何の躊躇いもなく、その場に跪いてユーディンの服を拭う彼女。そして、幼さ残る笑顔を見せて去っていった彼女。


 ――ティルヴァン様、とユーディンは呟く。脳裏に浮かぶのは、レティシアと同じオレンジ色の髪を持った、優秀な魔道士。ユーディンにとっての永遠の憧れである、先の大司教。


 ユーディンは緩く首を振る。首筋で結わえた枯れ葉色の髪が揺れ、頬を擽る。遠くの方から再び、大きな歓声が上がる。ユーディンはマントを翻して踵を返した。


「……レティシアが、僕とロザリーの娘、か……」


 ひょっとしたら――何かが違っていれば、そのような未来が、あったのかもしれない。

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