紅い狼と癒しの魔女 4
レイドがセフィア城にやってきて一年が経った頃。
元々無口で一匹狼気質のレイドと親しくする者はいなかった。同級生もレイドを遠巻きに見ていたし、その鮮やかな髪色からある程度のこと――一部の者には蛮族と蔑まれる、草原の牙出身であること――に気付いた者は、あからさまにレイドを避けた。
それでもレイドは全く気に病まず、恩のあるギルバート大公のため、一心不乱に勉強と武術の稽古に身を投じていた。
そういうわけで、レイドは人間関係作りに少々難があり、加えて十三という年になっても恋愛の一つも経験したことがなかった。
そして、十三歳の春。
食堂で一人食事を取っていたレイドは、五つ年上の侍従魔道士に声を掛けられた。当時よくレイドの周りをウロウロしては甲高い声を上げていた、変な女。化粧が濃くて妙な匂いのする、嫌な眼差しを持った女。その程度の認識だった。
――ねえ、レイド・ディレン君でしょう?
――わたくし、マージ・ブリギッタといいますの。よろしくね。
ぐいぐいと体を寄せてきて、無言のレイドに一方的に話しかけてくる女魔道士。強すぎる香水の香りで、せっかくの料理が台無しになってしまう。
だが、人付き合い能力に致命的な欠陥のあったレイドは、見知らぬ女性がにじり寄ってきても何も言うことができなかった。というよりも、何を言えばいいのか、どう対処すればよいのか分からず、ただぼうっと彼女を見上げるだけだった。
――あなた、セフィア城での暮らしに戸惑っているでしょう? いつも一人でいて。……だから、わたくしがいろいろと教えてあげようと思って。
当時は、彼女の言う「いろいろ」が何なのか、気付く術もなかった。レイドは、彼女の言う「いろいろ」というのは、将来騎士になってオルドラントのために働く上で必要なものなのだと、勝手に解釈してしまった。
――そうなのか? もっと、強くなれるのか?
強さに貪欲だった当時のレイドは、あっさり彼女の釣り針に引っかかってしまった。そうして、自分でも訳が分からないうちにレイドはマージ・ブリギッタの恋人になっていたのだ。
マージ・ブリギッタが教えてくれるものは、レイドが期待したものとは全く違っていた。当然と言えば当然なのだが、レイドにはそれを「おかしい」と思う感情も湧かなかった。ただただ、彼女の言うように動いた。
食事の時に隣に座れと言われれば、そのようにする。人前で抱きしめろと言われたら、そうする。毎日授業の後、講堂まで迎えに来いと言われたので、そうした。
マージ・ブリギッタは目立った容姿のレイドを恋人として腰にぶら下げられて、満足していたようだ。そしていつの日にか、「もっと恋人らしいことをしよう」と言ってきた。
その日の夜、レイドは女というものを知った。
「……何と言えばいいのだろうか。とにかく、訳が分からなかった」
いつしかレイドはセレナの肩にもたれかかり、甘えるような、縋るような仕草になっていた。声も、どこか夢うつつのように虚ろな響きだ。
「あいつの言うように、俺は動いた。口付けしろと言われたから、そうした。服を脱がせろと言われたから、そうした。愛撫しろと言われたから……そうした」
セレナはレイドの背中を撫でながらも、顔が歪むのを堪えられなかった。分かっていたことなのに、胸が裂けそうなくらい辛い。
それでも、聞きたかった。レイドの全てを吐き出させ、楽にしてやりたかった。そして自分も、レイドの辛さを共有したかった。
「……あいつとどんな行為をしようと、俺は全く喜べなかったし、愛情を感じることもできなかった。なぜあいつが言ったように俺が動いただけで、あいつが喜ぶのか……ちっとも、理解できなかった」
そしていつしか、マージ・ブリギッタはレイドを棄てた。あまりにも感情に乏しく、どんな行為をしようと決して表情を緩めることのないレイドに嫌気が差したのだ。
彼女はレイドのあることないことを噂として吹聴し、手酷く放り棄てたのだ。
「マージ・ブリギッタに棄てられて、正直清々した……だが、後から後から女は湧いてくる。どいつもこいつも、マージ・ブリギッタと同じようなことばかり言い、俺に求めてくる」
レイドが十四歳になる年までは、いわゆる「素行不良」「女をとっかえひっかえ」の日々だったらしい。女に棄てられれば、別の女が寄ってくる。その女の言う通りにしていたら、しばらくしたらまた棄てられる。それの、繰り返し。
レイド自身には全くその気はなかったが、教師陣からも「女遊びが酷すぎる」「将来に影響する」と心配されたらしい。
ある日、いつも通り虚ろな眼差しで一人でいると、後ろから知らない男に声を掛けられた。見上げるほどの巨漢で、癖の強い緑色の髪の男性騎士。
――よっす! おまえが噂に聞くレイド君か! いやぁ、本当にアブナイ目つきしてんな。
鼓膜がビリビリ鳴るほどの大音量でそう言う男は、オリオンと名乗った。
――なんかおまえ、十四歳の癖に細っこいし、素行もよくねぇよな。よし、お兄さんに付いてこい! 一からビシバシ鍛え直してやらぁ!
オリオンは無言のレイドの首根っこをひっ掴み、そのまま騎士たちのサロンへ向かった。そして半分魂が抜けた状態のレイドを、男臭い騎士の中へと放り込んだのだ。
そこからのレイドの矯正は早かった。おおらかで大雑把で気さくな先輩騎士たちにもみくちゃにされ、汗臭い世界に放り込まれ。何かが吹っ切れた。
一心不乱に模擬剣を振り、先輩騎士に叩きのめされる。痛いし辛いしの日々だが、驚くほど世界が晴れ渡って見えた。女性たちに遊ばれていた頃には見えなかったものが、見えてきた。
いずれセフィア城にやってくるクラートのためにも、無様な姿は見せられない。レイドは必死に鍛練を積み――マージ・ブリギッタたちが卒業する頃には、もう彼女らのことは過去の黒歴史であり、薄汚れた汚らしい女にしか見えなかった。
「それからしばらく……おまえも知っているかもしれんが、俺は女っ気のない生活を続けた」
レイドの言葉に、セレナはゆっくり頷いた。セレナがディレン隊に入る頃から、レイド・ディレンは美男子なのにずっと彼女がいないと、同級生たちも噂していたから。
「それどころではなかったし、腐りきった俺が本当に好きになれる女なんて出てこなかった。……おまえに会うまでは」
徐にレイドが起きあがる。
レイドとセレナは至近距離で互いを見つめ合った。レイドの灰色の目に、自分の顔が映り込んでいるのが分かる。
「……初めて会ったときから、おまえはとてもきれいな女だった。全く擦れていなく、笑顔は純粋で、真っ白できれいな手をしている……男女の薄汚れた世界を知らない、きれいな女だったんだ」
レイドの手の平が、そっとセレナの手をさする。まるで宝石か何かのように、壊れ物を扱うかのように、その手つきは優しい。
「おまえは俺を癒してくれた。俺の生まれも、過去も、全て受けて入れてくれた。いつも、俺の側にいてくれた。かといって俺に何か求めるわけでも、責めるわけでもない。笑顔で俺の側にいてくれるおまえが、とても愛しい……」
だからこそ。
「……だから、なかなか勇気が出なかった。おまえと恋人同士になれても、口付ける勇気が出なかった……」
「……え?」
ドキッと胸が鳴る。数日前から密かに気に病んでいたことがレイドの口から不意打ちで発され、セレナはじわじわと顔を赤く染めた。
「……私、てっきりお嫌なのだと……」
「嫌なわけなかろうが。俺は今すぐにでもおまえに口付けたいし、おまえが許すのであればこの場で押し倒しておまえの体を存分に愛でたいと思っている」
「……ひっ!?」
直球ストレートどストライク。
「キス」の単語だけで狼狽えていたセレナはレイドの発言に、思わず変な声を上げて目を見開いてしまった。頬が熱い。心臓がばくんと一発大砲を放つ。
耳年増で、ある程度の知識は知っているはずだった。若い娘ではないのだから、少々のことで動揺するわけないと自負していたのに。
レイドの唇から告げられたその言葉に、危うく頭が沸騰しそうになった。
「……だが、昔のことを思うとなかなか行動に移せなかった。おまえに口付ければ……あいつらが俺をおもちゃにしたように、今度は俺がおまえを慰め物にしてしまうのかと思ってしまうのだ……」
「レイド、様……」
「すまん、セレナ」
レイドの目尻が力なく垂れ、その指先がセレナの巻き毛を掬う。
「きっと、おまえが思っている以上に俺は臆病なんだ……紅い狼なんて、通名でしかないんだ」
「なぜですか」
その声は、自分でも驚くほどはっきりとしていた。
セレナはソファの上で座り直し、意外そうに目を瞬かせるレイドを真っ直ぐ見据えた。
「レイド様は、私が心からお慕いし、尊敬している方です。とても勇敢で、強くて、でも優しくて……私はそんなレイド様が大好きなのです。紅い狼と呼ばれるあなたにお仕えできることが、何よりも嬉しいのです」
辛い過去を持っていることも。恋愛に対して臆病になってしまうところも。
「全部……好きなんです」
レイドの瞳が揺れる。まるで、今にも泣きそうな子どものように。
「レイド様の初めてはいただけませんが……その代わりに、私の初めてを全て差し上げます。それに、私で満足頂けるか分かりませんが……あなたの過去を、私が塗りつぶします。私、レイド様が昔のことを忘れるぐらい、幸せにして差し上げたいのです」
だから、我慢しないで。
私も、それを望んでいますから。
ゆっくり、レイドの指先が持ち上がる。髪を梳っていた指先が離れ、セレナの頬に宛われる。
そのまま、顎を掬うように持ち上げられ、レイドの灰色の眼差しとかち合わせられる。
「……いいんだな?」
顔が近付く。お互いの吐息が絡み合い、睫毛が触れあいそうなほど寄せられる。
ゆっくり、けれども確実に首を縦に振ると、至近距離にあるレイドの目が緩み、ふっと微笑まれる。
「……ありがとう、セレナ。……愛してる」
「……はい、私も……」
その言葉は最後まで発されることはなく。
しかと体を抱きしめられ、吐息を優しく包み込むような口付けが与えられた。
何かの本で読んだような激しさは一切なく、唇を重ね合わせる軽いキスの後、今度は何度か角度を変えて唇を触れ合わされる。
優しく、食むように上唇と下唇を愛撫され、セレナは頭が痺れるような、体の奥が震えるような快感に襲われた。
三度目のキスは、息も詰まるような深いものだった。
呼吸すら許されないくらい深く、激しい口付け。レイドの手の平がセレナの後頭部を支え、一切の隙間なく唇が重ねられる。
セレナの口内を蠢くのは、レイドの舌だろうか。ぬるりとざらりの中間のような舌先が歯茎を、口蓋を、そしてセレナの舌を撫で上げ、セレナはため息のような小さな声を上げた。二人分の舌が絡まり合い、唾液を交換し合うかのように口内でとろけ、セレナの鼻から甘美な声が上がる。
「……セレナ」
ややあって、唇が離れていく。
くたりとぬいぐるみのように力を失ったセレナの体を、レイドは素早く支えると労るように、愛でるように静かにソファに寝かせた。下からレイドを見上げる形になったセレナは、その灰色の隻眼に小さな炎が宿っているのを見、切なく身を捩らせた。
ほうっと息をついて放心状態のセレナを優しい眼差しで見つめ、レイドは小さく微笑んだ。
「……口付けとは、これほど幸せになれるものだったのだな」
「……っ……は、はい……」
「……もっと、いいか?」
「! ……も、もちろんですっ……ん……」
言葉は途中で、全てレイドの唇に奪われてしまった。
ぱたん、とドアが閉まる。
セレナはしばらく、ドアに背中を向けて硬直したかのように立ち尽くしていた。
優しくも激しい、初めてのキスの後。無情なチャイムの音が鳴り、レイドは次の授業に向かわなくてはならなくなった。
「……また、しような」
最後に一つ、ちゅっと音を立てるキスを頬にもらい、セレナは自室に帰った。
顔を上げると、部屋の中央に据えられたテーブルには本が乱雑に積まれていた。昨日あれこれあって、片づけができなかった。服も脱ぎ散らかしたままで、お世辞にも片付いているとは言えない自室。
そろそろと、右手を持ち上げて唇に触れる。今、自分の唇は冷え切っているが、あの温もりは嘘ではない。優しく重ねられた薄い唇も、絡み合わせた舌の感覚も、夢ではない。
「っ……くうううぅぅぅ!」
とたんにずるずると、ドアにもたれかかるようにしてへたり込んでしまう。顔が熱い。そのまま頭を抱えるようにカーペットに突っ伏す。床が汚いとか髪に埃が付くとか、そんなこと考える余裕はない。
「……私、レイド様とキス……したんだ」
ぼんやりと呟く。その返事は当然返ってこないが、唇に残る感触が、目に焼き付くレイドの熱に浮かされた顔が、甘くときめく胸が、あの情熱が嘘ではないと証言していた。
大好きな人とのキス。それはとても嬉しいけれど、それ以上に恥ずかしくて。
「……ううううう……私、ちゃんと可愛い顔でキスできた? というか、目つむってた? いや、ひょっとして口臭が酷いとか思われてないよね?」
ぼそぼそと切ない独り言を呟くセレナ。恥ずかしくて胸が苦しくて、頭が回らない。
「って、私、そういえばすごく大胆なこと言っちゃったよね? レイド様びっくりしてらっしゃらないよね? 嫌われたりしたら……どうしよう……」
セレナはぶつぶつ言いながら体を起こし、取り返しのつかない発言をしてしまった自分を悔やんで呪いの言葉を発する。
暗くて狭くて、じめじめしたところに引きこもりたい。もしくは、奇声を上げて両腕を振り回しながら走り回りたい。
セレナの心は、一人で大戦争を起こしていた。
「……やっほー! セレナ、お暇ぁ?」
セレナの一人反省会を打ち切らせたのは、ドアの向こうから響いてくる元気いっぱいの声。
「……ノルテ?」
「そうそう! レティとミランダも呼んだよ!」
「おいしいお菓子が手に入ったのよ。一緒にテラスでお茶でもしない?」
「あー……あと、セレナ。またレポート教えてもらいたいんだけど」
「レティ、それって明日提出のやつだよね」
「うぐっ……おっしゃる通りです」
「だから、課題は早めにしなさいと言っているのに……」
ドアの外で、いつも通りの会話を繰り広げる友人たち。それを聞いていると、自然とセレナの心も落ち着き、思わず笑顔が漏れてしまう。
「……今行くわ」
セレナは腹の底から声を出し、ドアノブに手を掛けた。
――セレナが重大発表をし、狭い廊下が歓声で満たされるまで、あと数十秒。




