剣の記憶 3
鏡張りの大広間には、ぐるりと会場を囲むように赤の緞帳が張り巡らされている。ベルベットの生地のそれらには、金糸でリデル王族の紋章である、翼を広げた鷲の紋章が縫いつけられていた。
大広間を突っ切るように毛足の長い深紅の絨毯が引かれ、それを辿った終着点には、演説台のようなテーブルが据えられている。
リデル王国王太子就任式。
王太子の称号を受ける者は、出席者が見守る中、この絨毯を進んで演説台にて王太子就任の言葉を述べるのだ。
「現在、最も有力な王太子候補はエンドリック王子の実子であるティエラ王女ですけれども」
参列席にいた貴婦人は、礼儀として口元を扇子で隠している。それでもその声は、周囲のあらゆる者の耳に届いた。
「ご存じでして? 先日、ティエラ王女側の人間が不祥事を起こしたとか」
「うむ。国王陛下はこの動乱を伏せてらっしゃるようだが、さすがに兵士の大量殺戮ともなれば黙っているわけにはいかないだろう」
「聞いた話では、その犯人は女性で、オルドラント公国公子クラートの知人の平民だとか」
「どうせセフィア城でのお仲間なのでしょう? ですからわたくし、セフィア城は廃校すべきだと申し上げているのですよ。平民と触れあっても何の益にもなりませんわ」
「だから私も、娘をカーマルまで留学させているのだよ。カトラキアならば平民に毒されることもなかろうに」
「ティエラ王女も人選を間違ったのですね」
「見る目がないというか、何とも行く先不安な王女だな」
王家の者がいまだ入場せず、盗聴の心配もない会場内は言いたい放題。
そしてある貴族が、「やはり次の国王はエルソーン王子だろうな」と言った直後。
国王入場の知らせが入り、皆口をつぐみ、正対した。
黄金の鎧を纏った近衛兵を率いて堂々と絨毯を歩むエドモンド国王。彼が即位して早五十年。一切の戦乱を起こさせず、隣国とも穏やかな関係を築いていた賢王の姿に、つい今し方まで噂話に興じていたあらゆる者たちが頭を垂れた。
国王に続いて入場したのは、エルソーン王子。皆が意外に思うほど達観した表情のエルソーン王子に続いて、その息子であるエヴァンス王子が姿を現す。
参列者たちは、長らく病に伏せっていたエヴァンス王子が現れたことにほっと息をついた。彼のすぐ後に、ティエラ王女の夫であるセイルと、その息子のレアンが続いたため皆の意識はすぐ後方に向けられた。そのため、エヴァンス王子の凛とした横顔に、微かな苦渋が浮かび上がっていたことに誰も気付かなかった。
演説台の正面にエドモンド王が立ち、群集から向かって左側にエルソーン王子とエヴァンス王子の親子が、そして右側にセイルとレアンの親子が控えた。
「これより、リデル王国王女ティエラ・フィオネ・リディアの第二十六代王太子就任式を執り行う」
エドモンド王の朗々とした声で開式が宣言され、王宮魔道士団長の「ティエラ王女入場」の言葉を受け、一度閉まっていた会場の扉が再び開いた。
会場中のあらゆる人間の視線と興味を一身に受ける、細身の女性。淡いブルーのドレスは至ってシンプルで、夜会の時に着ていたものと違って装飾が極力取り払われている。
艶やかな黒髪は結うには中途半端な長さだったため、軽く束ねて霧のようなベールで包み込んでいる。田舎の傭兵町で育った彼女は普通の貴族の女性よりも丈夫な体つきをしており、肩のラインなどからも体型が浮き出て見える。だが薄く化粧を施されたその顔はきりりと引き締まり、つい先日王宮に上がったばかりだとは思えないほど、堂々と静かに輝いていた。
儀礼の形式に則り、ティエラ王女は演説台の前で一旦立ち止まるとその場に膝を折り、国王に頭を垂れた。
「この度、リデル王国王太子の冠を頂く者、ティエラ・フィオネ・リディアでございます」
ティエラ王女の声ははきはきとしており、広い会場の隅々まで響き渡った。恐怖の色が一切見られないその声を聞き、国王は緩やかに微笑んだ。
「今日、このよき日にそなたを王太子として任命できることを、こころから喜ばしく思う。顔を上げよ、我が孫娘ティエラ」
「はっ」
ティエラが王の言葉を受けて顔を上げる。その、母なる大地の色をした目は強い光を放っている。
王太子として生きる覚悟を決めた者の目だった。
国王がゆったりとした声音で、王女の王太子就任の言葉を述べる。時折、ティエラ王女が国王の言葉に重ねるように、誓いの言葉を述べる。
貴族たちが固唾を呑んで見守る中、静かに、だが張りつめたような緊張の糸を解かせることなく、式は進んでいく。
進んで、いこうとしていた。
「……お待ちを、国王陛下」
国王が神々の祝福の言葉を述べ、王女がそれに唱和する。
その合間に投げ込まれた声に、ざわわと会場に漣が起こる。
鷹揚な動作で振り向く国王。静かに目線を動かす王女。
国王の脇に控えていたエルソーン王子が軽く咳払いをし、一歩前に出た。
「厳粛なる式の最中、失礼します。どうかご無礼をお許しください」
微かな金属音が鳴り響く。国王たちの背後に控えていた近衛兵が動いた証拠だ。
王太子就任式を妨害しようとする不届き者を捕らえようと立ち上がる近衛兵。だが、別の軍勢が同時に動いた。
会場の左側、エルソーン親子の背後に控えていた騎士たちが音もなく進み出、近衛兵と対峙するように立ちはだかった。これにはさしもの近衛兵も怯んだのか、先頭に立つ団長の目にもわずかな動揺の色が浮かんだ。
壇上で始まった物々しい雰囲気に、会場はざわめきに包まれる。だが貴族たちはエルソーン王子に静かに一瞥され、ぐっと声を堪えた。席を立とうとしていた者も周りの者に促され、及び腰ながら元の席に戻る。
エルソーン王子の前にティエラ王女と国王が向かう形になり、さらに彼らの背後にはエルソーン王子直属の騎士団と王城の近衛兵が、それぞれの主君を守るべく向き合っていた。抜刀する者はまだいないが、皆いつでも腰に下げた剣を抜けるよう、ぴりりとした緊張が張り巡らされていた。
「……どうやら我々の知らぬことを知っているようだな、エルソーン」
一発触発の空気に微塵も動じた様子もなく、エドモンド王は手に持っていた資料をトントンと整えると、じっと次男を見据えた。
「そなたの申し出ようとしていることは、どうやらこの場でなければならぬことなのであろう」
「おっしゃる通りでございます、陛下」
緩やかな動作で腰を折るエルソーン王子。だがその言葉に一切の温もりはない。
エドモンド王はしばしの沈黙の後、「よかろう」と腰を下ろした。ティエラ王女もまた、近衛兵に手を取られて一歩その場から後退し、エルソーン王子の言葉を待つように向き直った。
エルソーン王子は聞く体勢に入った父と姪を見、何も言わず背後に控える息子を見、これから何が起こるのかと驚く群集を見、そして再び目の前の政敵を見据えた。
「……ティエラ王女。わたくしはあなたの王太子就任を認めることはできません」
おそらく、彼が最も口にしたかっただろう言葉がついに、この場に投下された。




