血塗られた憧憬 3
王妃の庭園には、冬にもかかわらず生暖かい風が吹いていた。
妃になれ。そう告げられたレティシアは数秒の空白の後――
「……は? 嫌に決まってんでしょ、ばーか!」
威勢よく啖呵を切った。反応が想定外だったのか、目を丸くして怯むエルソーン王子に唾を吐きかける勢いで、レティシアは怒鳴り散らす。
「誰が好きこのんで、あんたみたいなオッサ……極悪人を! だいたいあんた、結婚してるんじゃ……」
「……心配無用。私の妻はもう二十年近く前に病没している。後妻を娶ろうと何ら問題はない」
調子を戻したエルソーン王子は、それに、と底冷えのする笑顔を浮かべた。
「魔力に恵まれたクインエリア大司教の娘の子となれば当然、高い魔力を備える……そうなれば剣も、私を王として認めることだろう」
つまり。
(私と再婚して、子どもを産ませようってこと……?)
再びレティの顔が熱を持つ。だがそれは、恥じらいや緊張ゆえの赤面ではない。屈辱ゆえの、体の火照りだった。
気持ち悪い。生理的に吐き気がし、レティシアは顔を真っ赤にして怒鳴った。
「……あんた、本っ当に最低! 人間のクズ! 女の敵! あんたとの結婚も子どもを産むこともお断りよ!」
「吠えているのも今のうちだ。いずれ君も私の足元にひれ伏すことになろう」
「なるかっての!」
犬歯をむき出しにして唸るレティシアだったが、完全に我を忘れているわけでも、怒りに身を任せているわけでもない。
こうやって虚勢を張っていないと。強がっていないと。
リデル王国王子という絶対的な存在を前にして、負けてしまうから。目に見えない圧力に、押し潰されてしまうから。
力の差ではレティシアには到底適わない相手だ。だからこそ、少しでも場を長引かせたかった。
自分を強く保ちたかった。
ぶるぶる震えそうになる体と今にも頽れてしまいそうな膝に鞭打ち、レティシアは胸を張った。
「だいたい、あんたがどう足掻こうと、他に王太子候補はいるのよ! ティエラ様もそう、レアン様も、もちろんエヴァンス殿下だって! 付け焼き刃の権力で王太子の座を狙ったって、絶対皆に感付かれるでしょ! そうなればあんたの計画もおじゃんになる!」
「そうだな、たくさんいる」
エルソーン王子はあっさりと肯定した。そして、わざとらしく顎に手をやって思案顔になる。
「真っ先に始末すべきは、現在最も注目を浴びているティエラ王女……どこの売女を母に持つか分からず、自身も賤しい傭兵に身を売るような、汚らしい女だな。加えて、その血を継ぐ王子……あれはまだ幼い。ゆくゆく私の最大に敵になりうるだろうから、早めに芽を摘まねばならん」
すらすらと流れるように発される、えげつない言葉。レティシアはあまりの言い様に、反撃も忘れて唖然と聞き入るしかできなかった。
エルソーン王子はレティシアの様子を気にした風もなく、思い出したように付け加えた。
「そういえば、最近様子のおかしいエヴァンス……あれも、早めに消しておくべきか」
「エヴァンスって……あんたの実の息子でしょ」
掠れた声で問うと、王子は忌々しげに鼻を鳴らせた。
「それがどうした? あれは失敗作だ。私と同じく魔力を持たず、しかも騎士道精神などに現を抜かして父の命に背いた大馬鹿者ではないか。憎むべき王女に肩入れし、父親の命令にも従うこともできない。これ以上あれを生かしていて何になる?」
(父の命……)
レティシアは眉を寄せ、顔を歪めるエルソーン王子をじっと睨み付けた。
「……じゃあやっぱり、エヴァンス王子の謹慎処分はこの前の、マックアルニー子爵館襲撃事件のことなのね。ティエラ様を暗殺することに失敗したから……」
「おや、思ったより賢いではないか」
エルソーン王子は、ひょいと片眉を上げて賞賛の言葉を述べた。褒められてもちっとも嬉しくはないが、レティシアが裏事情を知っていたことは本当に意外だったようだ。
「奴は王女殺害も、王子の始末もしくじった。今は部屋に監禁させているが、これ以上奴の利用価値は見られない。すぐに首を刎ねてやろう。何、私と君の子の方が才能豊かに決まっている。そうなればエヴァンスを生かしておく必要もなかろうよ」
その一言で、レティシアの中で何かが切れた。
レティシアとエルソーン王子が結婚することが大前提となっているとか、子どもが産まれるとか、そういうことは抜きにしてでも抑えがたい怒りの衝動。
だん、とレティシアがヒールの靴で一歩前に踏み出すと、反射的にエルソーン王子は半歩後ろに後ずさった。
「……それが、親が子に対して言う言葉なの!」
レティシアの絶叫が、夜のしじまを切り裂いた。
「自分の思い通りに動かせて、失敗したら幽閉させて、邪魔だと思ったら殺すなんて! そもそも、他人が自分の思い通りに動くと思ってるのが間違いなのよ! 子どもはあんたのペットじゃないわ! 今のあんたは、息子を家畜……ううん、それ以下の存在のように扱ってる! そんな奴に、再婚だの子どもを産めだの言われたくないわ!」
この薔薇園も例外ではなく、魔力封じの結界が張られているようだ。魔法が使えたならばこの男を吹っ飛ばしてやるのに、と歯噛みし、レティシアは豊かなオレンジ色の髪を振るった。
「あんたとの結婚なんてお断り! まっぴらごめんよ! 魔力さえあれば、子どもを思い通りに操れれば、王位を継げると妄信しているあんたなんかとはね!」
「そう……魔力がなくとも王位は継げる。その者が他者より優れていれば、な」
レティシアの激昂も何のその、エルソーン王子はふと、唇の端を歪めて陰湿な笑みを浮かべた。
「そうそう、ちょこまかと邪魔をしてくれるオルドラントの公子……あれもリデル王家の遠縁だったな。盾突く前に闇に葬っておこうか……」
エルソーン王子が言い終わるよりも早く、レティシアの鉄拳が繰り出された。
王子は一瞬怯んだものの、腐っても騎士。さらりとレティシアの拳をかわし、逆にその腕を掴み、捻り上げた。
腕を関節とは逆の方に曲げられ、レティシアは食いしばった歯の奥で悲鳴を上げた。なすすべもなく両腕を拘束され、ガゼボの下に据えられていたベンチに押し倒される。
「あんた、なんかに……! ……許さない、セレナも、クラート様も……っ!」
怒りで目からぼろぼろと涙が溢れる。
最後の最後まで強くありたいのに、唇から溢れたのは、意味を成さない言葉ばかり。
(守りたかったのに……!)
セレナも、クラートも。
レティシアを今まで守って、助けてくれた人を守ってあげたかった。
自分の無力が腹立たしい。誰も守れない自分が憎い。
エルソーン王子はレティシアの両腕を拘束し、泣きわめくレティシアを満足げに見下ろしていた。その目に嗜虐心の混じった欲望の色が浮かび、レティシアは戦慄した。
(嫌だ……!)
エルソーン王子の顔が近付いてくる。精一杯顔を背け、狂ったような絶叫を上げるしかできないレティシア。
だが――
(……え?)
ふわりと、体が軽くなるような感覚。それまでずっと、体にまとわりついていた重い霧が晴れたかのような、えも言えぬ開放感。
レティシアは絶叫を止め、はたとエルソーン王子を正面から見据えた。王子も、大人しくなったレティシアが意外だったのか、鼻と鼻が触れそうな距離で動きを止める。
(……行ける!)
レティシアの体から、ぶわっと黄金色の光の霧が巻き起こる。エルソーン王子が反応するより早く、レティシアの気合いの声と共に両手の平から衝撃波が放たれた。
対人のため威力は抑えたが、それでも至近距離から衝撃波を喰らったエルソーン王子は仰向けに吹っ飛び、ガゼボからまろび出るようによろよろと後退した。
その隙を、逃さなかった。
レティシアは腹筋を使って跳ね上がり、衝撃波を受けた胸部を押さえてうずくまるエルソーン王子の脇をすり抜けてガゼボから脱出した。そして、ヒールの靴が脱げそうになりながらも薔薇の小道へ突進する。
後ろを振り返る暇はない。
レティシアは額に伝う汗を拭い、カラカラに乾いた唇をぎゅっと引き結んだ。
なぜ今になって魔法が使えるようになったのかは分からない。けれど、それを考える間すら惜しい。
(セレナ……! みんな……!)
夜のとばりに包まれた薔薇園を、レティシアはひたすら走っていった。
這うようにして王妃の庭園から脱出したレティシア。
この時になって、幸運の女神は微笑んでくれたようだ。
「……レティシア!」
聞き慣れた、女性の声。回廊から下りてこちらへ駆けてくる、会いたくて会いたくて仕方のなかった者たち。
気付けばレティシアは、黒髪の女性にしかと抱きしめられていた。
「よかった……! あなたが一人走っていったから、探しているところだったのよ……」
「ミランダ……」
声を掛けて、レティシアははたと口をつぐんだ。
ミランダの肩が震えている。あの気丈なミランダが。
細くて温かい腕に抱きしめられてようやく、レティシアの身に現実感が押し寄せてきた。薔薇園にいる時は夢幻かのようにふわふわとしていた感覚が、今になってどっと洪水のごとく押し寄せてくる。
迫ってきたエルソーン王子の歪んだ笑みが。レティシアの腕を掴んでくる手の平の感触が。
レティシアは一度だけ大きく身震いして吐き気を堪え、ミランダの背中に腕を回した。
「……心配かけてごめんなさい。私はもう、大丈夫だから……」
「無理したらいけないよ、レティシア」
その言葉と共に、ふわりとレティシアの頭上に振ってきた温かい手。優しく髪を撫でてくれる少年の手の平。
「何があったかはまた後で聞こう。君はすぐに部屋に戻って休まないと」
「だめです、クラート様。だってセレナが……」
レティシアが顔を上げると、クラートが端正な顔を歪めたところだった。クラートたちも、同じことを危惧していたのだろう。
夜風がクラートの前髪を揺らす。その奥に見え隠れする眼差しは微かに揺れていた。
「……やはり君は、セレナを助けようと思って駆けだしたのか」
「はい……あの、セレナはまだ見つかっていないんですか?」
「ああ、今皆で……」
クラートが言いかけた時。
ミランダが顔を上げ、オリオンたちもはっと息を呑む。皆、一様に同じ方向――王の庭園がある方角を凝視していた。
「……今、何か聞こえたよな」
言いながらオリオンが、腰に下げていた護身用の剣の柄に手を掛ける。
「俺の耳が正しけりゃ、あれは人間の悲鳴だ」
「間違いないわ」
ノルテが顔を上げてふんふんと鼻を動かし、そしてすっと眉を寄せた。
「……血の臭い。それも、かなりの人数の……」
真っ先に動いたのはレイドだった。いつも以上に寡黙なレイドが素早く身を翻し、一拍遅れてクラートも踵を返す。
「あっ……」
(私も行く……!)
ミランダの抱擁から解放されたレティシアが立ち上がろうとすると、それよりも早く、横からにゅっと太い腕が伸びてきてレティシアを片腕で抱え込んだ。
「っと……よし、すぐ行くぞ」
オリオンは脚が砕けて動けないレティシアを軽々と腕に担ぎ、ミランダとノルテの後に続いて歩きだした。
「悪いが、レティシアの事情を聞くのは後回しだ。……もうちょっと、我慢できるな?」
「……う、うん。ありがとう、オリオン」
レティシアが分厚い筋肉に包まれたオリオンの肩にしがみつくと、返事の代わりに、オリオンはあやすようにレティシアの背中をポンポンと叩いてくれた。




