恐怖の追いかけっこ
俺、アルフリートは廊下を全力で駆け抜けている。階段を二段飛ばしで駆け下り、二段飛ばしで駆け上がる。一階と二階、果てには庭までも走り回った気がする。同じ景色が過ぎ去っていくのをどれだけ見たであろうか。
後ろから聞こえるのは足音。その一音一音は俺からすると死の旋律が奏でられているように思える。それは俺の命を刈り取ろうとせんばかりに、ガリガリと勢いよく迫る。
やはり奴の驚異的な身体能力から逃れる事は出来ないようだ。
奴を振り切れない事に恐怖を感じながら、俺は生き残る為に思考を巡らしながら走る。
どうして走っているのか。逃げているからだ。
何から逃げているのか、それは追っ手からだ。
「待ちなさぁーいっ!」
後方からはその追っ手であるエリノラ姉さんが声を張り上げている。
「ひいいいっ! だからアレは不可抗力だって!」
「うるさい!」
震える声で弁明をしようと試みたが、聞く耳もたず。ぴしゃりと跳ね除けられてしまった。
何て理不尽なのだろうか。
いや、この理不尽さは今に始まった事ではないのではあるが。
この恐怖の鬼ごっこ(捕まったら命の保証はされない。交代もありえない)が始まったのは、ほんの少し前の出来事が原因だった。
そう。ごく普通に屋敷で過ごしていた時の事。
× × ×
冬が近づいているせいか、どんどんと空気が乾燥していき冷えを感じる最近。
これから長く寒い冬が訪れると思いながら、今日も部屋のベッドにこもっていた。
しかし、窓を開けてみると今日は小春日和なのか気温は暖かく穏やかな晴天であることに気付いた。
このようなポカポカしている日に自室にこもるとは勿体ない。
こんな日はベランダから外の紅葉を眺めたり、散歩をするに限る。トールを誘って、たまには運動をすることも悪くない。
そう決めて俺、アルフリートは自室から二階のベランダを目指して歩き出した。
廊下を歩いていると、エリノラ姉さんの部屋の扉が開いている事に気が付いた。
何となく覗いてみると、いい香りが漂う部屋にはエリノラ姉さんの姿があった。
最近手に入った鏡の前で鼻歌を歌いながら身支度をしているようだ。
今まではエルナ母さんの部屋にしか無く、ずっと前から欲しいと言っていた。
それがとうとう自分の部屋、それも大きく質の良い物ときた。機嫌が良いのも納得だ。
エリノラ姉さんは、長い赤茶色の髪の毛を綺麗に束ねて整える。それから前髪を手で軽く撫でると、全身におかしな所が無いか確かめるように身をひねる。
すると体の動きを止めて、服の裾を触りだす。
それからエリノラ姉さんはお腹が気になったのか、服の裾をぺろりと上げる。
自分のお腹が気に食わないのか、忌々しそうな目で触る。
「……むー」
「あれ、エリノラ姉さん太っ――」
「フンッ!」
「でぶうぅっ!?」
「誰がデブですって!」
「いやいや! 今のはエリノラ姉さんがスリッパを投げたからだよ!」
今のは悲鳴だって! 頬っぺたにスリッパが食い込んだだけだよ。
それにしても何て反応スピードなのだろうか。スリッパを脱いで、投げるまでの動作が全く見えなかった。相変わらず恐ろしい姉だよ。
「それはそうと、最初のセリフは見過ごせないわ」
今の暴力をそれはそうとで流した!? まあそれはいい。とにかく今は失言を挽回しなければならない。
それにしても、エリノラ姉さんはどうしてこう余計な記憶力だけはいいのだろうか。普段は物覚えが残念なのに。
「……聞こえているわよ?」
「うおおっ! ごめんなさい。だからその手に持ったスリッパを下ろして」
俺が慌てて謝罪をすると、エリノラ姉さんはゆっくりと構えを解く。しかし、まだ地へと下ろしてはいない。
スリッパ。それは女性が手に持つ事で、単なる履物から神器へと昇華する物。特に熟年の使い手による投擲は、どれほど素早い足を持つ者であろうと百発百中の代物である。それは日本で我が人類の強敵相手にも大活躍である。
「で?」
スリッパを手でパンと叩きながら、俺の釈明を促すエリノラ姉さん。
「太い大きな鏡を買ったんだね」
「本当にそうかしらー?」
疑惑のこもった眼差し。弟を疑うだなんて酷いんじゃないだろうか。
「何か服の事でお悩みでも?」
このままでは、敗北の色が濃いので話をすり替える。
ここで直球にお腹周りでお悩みでも? と言わないのがアルフリートの優しさ。
「服じゃないんだけど、最近お腹にお肉が付いた気がして……」
「ははは、エリノラ姉さんが冬になると脂肪がつくのは毎年の事じゃないか」
多分、野生の動物が冬を超える為に脂肪を蓄えるのと同じに違いない。
「…………アル?」
「嘘です嘘です! エリノラ姉さんは足も腕もお腹も胸も、全身がほっそりとしています!」
「……胸も?」
「はあ? そうだよ? 胸もほっそりと……しまったああぁぁっ! つい、本当の事を!」
「…………」
もう駄目だ! ついに言葉すら出なくなってしまった。俺は弁解することを放棄して一目散に逃げだした。
× × ×
とまあ、これが恐怖の鬼ごっこの原因となる出来事だった。今回ばかりは少し俺が悪かったかもしれないがいい加減に許してくれてもいいと思う。
「大体そんなに怒るって事は自覚があったん――うおおっ! 木刀投げないで!」
「待ちなさい!」
もうエリノラ姉さん、さっきからそれしか言っていない気がする。
俺は階段を駆け下り、一階の廊下への扉を勢いよく開ける。そしてなりふり構わず走る。走る。後方からは同じようにエリノラ姉さんも廊下へと駆けこむ。
「こら! 屋敷の中で走り回ったら危ないだろ!」
ノルド父さんらしき静止の声が飛んできた。
でも、今足を止めたら危ないどころじゃないんだ。捕まったら命の保証はない。
色違いのゲコ太君を差し出しても許してもらえるかどうか……。
お互いスリッパのまま廊下から、庭へと飛び出す。
「何で走ってもいないのに、そんなに早いのよ! また魔法なの!?」
「そう言うエリノラ姉さんこそ、どうしてスリッパで早く走れるの!?」
スリッパでどうして靴のように走れるのか意味がわからない。走る度にゲコ太君の顔に皺がよって悲鳴を上げているよ?
俺と言えば、スリッパで滑るように移動しているだけ。こう見えても中学と高校は上靴では無く、スリッパだったのだよ。効率の良い走り方など熟知している。
それにしても、全く振り切れない。
こちとらプロ顔負けの滑りを見せているというのに。一定の距離を保って追いかけてくる。
やがては屋敷の外を一周して、再び屋敷の中へ。
クソ、これではきりがない。いずれは俺の体力が無くなり捕まってしまうだろう。
こうなったら転移魔法を使うか。俺は二階へと上がり自分の部屋へと駆けこむ。
そして俺はすぐさまにカチャリと鍵を閉めた。
「開けなさい! 今なら一日稽古に付き合うだけで許してあげるわ!」
ドンドンと扉を叩き、物騒な事を言う。死刑宣告も同然じゃないか。
「絶対嫌です!」
「あっそ! すぐに開けてあげるから」
危険な台詞を言い残してエリノラ姉さんは扉から離れていく。
それに安心して俺は息を吐く。
……ふう、そのまま扉を壊して入ってくるかと思ったよ。
しかし、安心してはいられない。何故俺が最初から部屋で籠城をしなかったかと言うと、この屋敷にはスペアキーがあるからだ。だから籠城は意味をなさない。
それでも時間稼ぎが目的の俺からすれば、エリノラ姉さんがスペアキーを取りに行ってくれる時間だけで十分だ。
俺は窓を全開にして、空間魔法で取り出したロープを垂れ流す。
これでエリノラ姉さんは俺が屋敷の外へ逃げ出したと思うはずだ。
冷静さを失った、今のエリノラ姉さんならきっと騙せる。もしかしたら村まで追いかけに行ってくれるかもしれない。
そう心の中でほくそ笑んでいると、スペアキーらしき金属音が聞こえてきた。
おっと、もうやって来たのか。俺は屋敷の中のある場所を思い描く。すると魔力が俺を瞬く間に包み込み転移した。
「さあ、覚悟しなさい! 今日はみっちり稽古よ! ……あれ?」




