11.ローザは危機に晒されたい(3)
「――ここか!」
ばんっ! という激しい音とともに扉が蹴り倒され、男が踏み入ってきた。
いや、男というより、よく目を凝らせばその人物は、ローザと同じくらいの少年であった。
月明りを弾く金の髪を持ち、こちらもやはり、驚くほど整った顔をしている。
「姉様!」
彼は、素早く庫内を見渡して、ローザの姿を認めると、少しだけほっとした様子を見せた。
「まあ……! ベルた――ベルナルド! どうしてここへ?」
「姉様を追ってきたに決まっています。姉様こそ……」
だがそこで、海賊の一人に髪を掴まれている状況、そして、その手首が赤く腫れ、両足が縄で縛られたままなのを見てとると、みるみる険しい顔つきになった。
「なにを、されました?」
その声は、幼い少年のものでありながら、ぞくりとするほどの剣呑さを帯びている。
実際、多少の荒事に耐性のあるマルタでさえ、ベルナルドと呼ばれた少年の放つ迫力に、ごくりと喉を鳴らした。
「おう、なんだよ。きれいな坊ちゃんも仲間入りかぁ?」
とそこに、完全に相手を舐めきった様子の海賊が、嘲笑混じりに声を掛ける。
対するベルナルドの口調は、ひどく平坦だった。
「……姉様から、その汚らしい手を離せ」
――ぶわっ!
同時に、彼の瞳がふっと光り、凄まじい風が巻き起こった!
風は銀色の弧を描き、周囲にいた男たちだけを的確に狙ってその腹を裂いてゆく。
「ぐわぁああああああ!」
それでもなお余る風は、勢いよく庫内に吹き渡り、倒れた男たちを壁に叩き付け、樽を薙ぎ倒していった。
男たちの絶叫と物が砕ける音が、あたりに響き渡る。
やがてそれが収まると、庫内は逆に、水を打ったような静けさに包まれた。
「姉様」
こつ、と、ベルナルドが靴音を響かせる。
風に煽られ、呆然としたまま蹲るローザの手を取ると、彼はかすれた声で再度問うた。
「教えてください。……なにをされました?」
「え……っ、あ」
対するローザは、びくりと肩を震わせ、どうも怒れる弟に怯えているようである。
(ベベベベベルたん!? なななななぜあなたの方が魔力覚醒しちゃっているの!? というかなぜ追ってきたの!? なぜそんな「攻め」臭いセリフを吐くの!? というかというか、……っ、いやあああああ! 前のめりで腐敗現場を堪能しようとしていたところを、ベルたんに見つかってしまった!)
いや違う。
ローザは単に、春書を読みふけっていたところを家族に踏み入られて絶叫する、そんな心地を味わっていただけだった。
(どどどどうして!? 家で荷造りしているのではなかったの!? わたくし、まだ魔力上げも完遂していないのに! これではますますドン引かれて、ベルたんに家を出ていかれてしまう……!)
この美しい弟に、自分の汚らわしい本性を見られてしまった。
焦りのあまり、言い訳にもならない言葉たちがぽろぽろと飛び出す。
「あっ、あの……っ、わ、わたくし、あなたが家を出て行ってしまうというから、港に……。で、でも、あまりにこの方々が、あまりにその……。薔薇……使命……ええと、本当はすぐに帰ろうと思っていたのですが、その、つい、腐った現場を見届けたいと……ええ、出来心で……!」
「腐った現場?」
ベルナルドが、幼くも整った眉を寄せる。
睨まれた形となり、ますます委縮したローザを見かねて、我に返ったマルタが仲裁に入った。
「ちょっと。助けてくれたのはありがたいけど、こんな目に遭った女相手に、手首掴んで問い質してんじゃないよ。すっかり怯えてんじゃないか」
指摘すると、ベルナルドははっとしたように慌てて手を離す。
マルタは背後で身を寄せ合っていた少女たちに顎で合図し、動揺したローザの介抱を任せると、自らはベルナルドの腕を引っ張り、部屋の隅に連行した。
「あんた、あの子の弟なのかい?」
「……そうですが」
「もしやと思って聞くけど……あの子――ローザは、『ラングハイムの薔薇の天使』かい?」
押し殺した声での問いに、ベルナルドは一瞬黙り、それから頷いた。
「そうです」
「やっぱりかい……」
予想が当たっていたことで、マルタはしみじみと溜息を漏らす。
まさか、娼館勤め時代に噂で聞いた「薔薇の天使」を、本当に見られるものとは思ってもいなかった。
「……見ての通り、あたしらは海賊たちに攫われたり、買われてきた女さ。倉庫に閉じ込められて、これから売り払われようってときに、同じく攫われたあの子が、魔力で縄を解いてくれたんだ」
マルタはちらりとローザを窺いながら、ベルナルドへの説明を続けた。
「あの細っこい体で、ふらふらしながらさ。しかも、さっさと自分だけ逃げることもできたろうに、その場にとどまってたんだ。糞親父の腐りきった所業をただすために、ね」
「腐りきった所業……?」
「そう。あたしらの一部はね、ラングハイムの豚伯爵に売られることになってた。ローザの父親に、ね」
ベルナルドが目を見開く。
だが、発言内容を疑ってくる様子はない。
やはり伯爵がろくでなしだというのは事実なのだと確信し、マルタは一つ頷いた。
「あの子は言ってたよ。薔薇の使徒としての使命感で、ここに来たって。あの子のあだ名は、高潔と慈愛を司る『薔薇の天使』なんだろ? 自分の親父があくどいことに手を出してるって知って、いてもたってもいられずに、真相を確かめにきたんじゃないかい」
「それは……」
ベルナルドは眉を寄せて考え込んだ。
時系列的に、ローザが港に寄ったのはベルナルドのためであるはずだが、その途中で奴隷売買に父親が噛んでいることに気付き、正義感を燃やしたということは、十分に考えられる。
(彼女は……自分のことなんかそっちのけで、他人のために心を痛める人だから)
残念ながら、ローザはどこまでも自分のために、心を腐らせているだけなのだが、これまでの諸々で、ベルナルドはすっかりマルタの発言を信じ込んでしまった。
「姉様」
自分が十分冷静になったのを確認し、呼びかける。
「先ほどは、問い詰めてしまってすみませんでした。急に魔力が発現したものだから、僕も少しびっくりしてしまっていて」
意識的に、ローザが好む穏やかであどけない口調を取り戻すと、彼女は目に見えてほっとしたように振り向いた。
「そう……そうよね……! ええ、凄まじいほどの風魔力だったもの。体調は大丈夫? どこか苦しかったり、ふらついたりはしない?」
「それより、今は姉様のことです。ああ……こんなに汚れて」
ベルナルドは、今度こそ優しい仕草でローザの髪を掬った。
海賊の汚らしい手で触られた髪は、脂なのか煤なのかでべたついている。
ローザは怯んだように身を引くと、恥ずかしそうに俯いた。
「ご、ごめんなさい。わたくし、……こんなに汚らわしくて……」
「なにを言うんですか! 僕は姉様を責めているんではありません」
「そう、なの……? 汚らわしいわたくしでも、いいの……?」
どうやらローザは、海賊に髪を掴まれただけで、自分を穢されたように感じてしまったらしい。
いや、もしかすると、そこには長い時間をかけて蓄積されてきた自己否定があるのかもしれない。
そう思うと、ベルナルドは、彼女を追い詰めた海賊たちや父親を、八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られるのだった。
もちろん、ローザは自分の腐った本性にドン引きしていないかを確認していただけだが、それに気付くベルナルドではなかった。
「当たり前です。姉様。この海賊たちは厳重に処分しましょう。あと、あの父親も」
「え……? ええ、えーっとその……そうよね、いろいろと違法を働いているようだし……。って、父親も!? あいえ、異存はないけれど、でもその、ぜひ海賊たちのほうは、更生の可能性も残し――」
「ダメです。彼らはもう見どころがありません。即処分、しましょ?」
にこっと微笑むことで、雰囲気だけ軽やかにしながらも、ベルナルドは冷徹な判断を譲らなかった。
(もう二度と、誰にも、この人を傷付けさせない)
一度は屋敷を出て行くなんて言ったが、撤回だ。
自分はこの女性を守りたい。
そしてそのためには、それなりの権力と、彼女の隣に立てる身分が必要だ。
ベルナルドは、ローザの瞳を真っすぐ覗き込んだ。
「僕、まだ領内の裁判について教わっていません。教えてくれますか? ……裁判だけではなく、すべてを。これからも、ずっと」
「…………! ベルナルド、それはつまり――!」
「ええ。僕、姉様のそばに残ります」
きっぱりとした宣言を聞いたローザは歓喜した。
(やったあああああ! なんだか奇跡が起こったわ!)
急に「攻め」っぽくなるし、腐活動の現場を見られるしで、どうしようかと思ったが、前者は単に動揺が原因のようだし、後者は気にしないでもらえたらしい。
嗜好が汚れていても構わないと言ってもらえて、ローザは心底ほっとした。
さりげなく、自分たちで父親を断罪する流れが組まれているわけだが、そのあたりの衝撃は、ベルたん確保の喜びによって消し飛んでいた。
「よかった……! 嬉しいわ! わたくし、本当に嬉しい!」
「いえ、むしろ僕が謝る立場ですから。本当にいろいろとすみませんでした、姉様」
ぺこりと頭を下げる様子が、これまた大変愛らしい。
つむじが左巻きなのを発見して、そんなところにもきゅんとした。
(なんて寛容な、いい子なの……。はっ。ならばいっそ、わたくしの趣味をカミングアウトして、正々堂々とベルたんに「受け」教育を――)
しかし、顔を上げたベルナルドが、次に続けた言葉に、ローザはぴしっと固まった。
「でも、姉様。もう二度と、このようなことはしないでくださいね」
「こ、このようなこと……?」
それは、もしかしなくても、海賊たちにときめくあまり攫われたり、逃走も忘れて腐敗現場に釘付けになったりすることを、指しているのだろうか。
「ええと、それはつまり、海賊たちの本拠地にうかうか留まったりという、一連の……?」
「ええ。次にこんなことがあれば、僕は怒りのあまり、魔力を暴走させてしまうかもしれない……いえ、そもそも、姉様が妙な大胆さを発揮する前に、僕が止めさせていただきますが」
「ええっ!?」
ローザは困惑の叫びを上げた。
(それってどういうことなの、ベルたん……!?)
どうやら弟は、貴腐人であるローザを拒絶はしないが、いざ腐にのめり込むローザを見ると、魔力を暴走させるほどに怒り狂ってしまうらしい。
それは結局、腐を否定しているということではないのか。
そういえばベルナルドは、愛らしい外見のせいで下町で苦労したからか、「かわいい」と言われたり、見くびられることを嫌う傾向にある。
もしかしたら、勝手に男性を「受け」に仕立てあげ、カップリングを楽しむローザの嗜好は、そうした意味でベルナルドには受け入れられないのではないか。
(で、でも……! 千年に一度の逸材なのに! これを活かさぬ手はないのに……!)
だがやはり、ローザには、ベルナルドで妄想する甘美さを諦めることはできなかった。
なにしろ自分には、修道院での薔薇本執筆生活が控えている。
ここで腐活動を控えるなんて、人道にも悖る愚行だ。
(つ、つまり、今後も一切ベルたんに気付かれぬよう、こっそり腐活動を進めなくてはならないと……。でもそれって、なんというハードルの高さ……!)
ローザはその困難さを思い、眉を下げる。
困り顔で弟を見つめていたら、彼はますます目じりを吊り上げた。
「そんな顔をして見ても、ダメなものはダメです。僕を、怒らせないでくださいね?」
「は……はい……」
ぷりぷりした顔も愛くるしいのだから、ローザがベルナルドに逆らえるはずがない。
不承不承、頷いてみせると、ベルナルドは安心したように肩の力を抜いた。
もちろん彼が制止したのは、自分を擲って他人のために奔走したり、自ら傷付きにいくローザの在り方のほうである。
姉を心配する健気な弟と、弟に諭されてしゅんとする姉。
傍目には実に微笑ましく、なんら問題ない感じで、二人はこの夜の騒動を終えたのであった――。
これにてベルナルドターンを一区切りし、幕間を挟んで次の展開へと進みます。
新しい攻め(笑)キャラも出てくるよ!
こんな主人公でも大丈夫大丈夫、イケるイケる!という度量の大きい方は、
ぜひ評価やコメントなどで応援いただけますと、とても嬉しいです。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




