13 一本の道
今まで眠っていた黒髪が目覚めた。
部屋は静まり返り、皆の視線が黒髪に集まる。
悪狐に操られていたとはいえ、わたしを狙っていたことに違いはない。
警戒するのも当然だった。
しかし、それはまったくの杞憂に終わる。
「あの……ここは……?」
なにせ、黒髪には一切の記憶が無かったのだから。
入上京。
二十代半ば。
彼女にはここ数ヶ月の記憶が欠けていた。
少女が言うには名主が狩られ始めた時期と一致するそうなので、その時に悪狐をに取り憑かれたに違いない。
これは念のためにレイが噛み付いて裏付けをとったから間違いない。
入上はこれから霊峰へと向かうことになった。
記憶が無いにしても殺人をおかした事実は変わらず、それに職場も無断欠勤が続いている。
数ヶ月も徘徊していたなんて理由では復帰も難しいだろう。
また悪狐に乗っ取られる可能性もあるので、入上が拒むこともなかった。
わたしは結局入上に罰を与えることはしなかった。
だって記憶がないのだ。
今までの事件は悪狐のみの悪意で行われたことは確かで、入上の内なる心が望んだことではなかった。
なのに入上に罰を与えるということは、わたしにはできなかった。
一連の罰は少女が引き受けることとなった。
「あなたが彼女の保護に遅れたせいでこのようなことが起きたのだから、あなたご責任を取るのは当然よね」
「……覚悟はできています」
なにも悲壮がることはない。
色々と面白い話も聞けたし、少女との繋がりは大事にしたいと考えている。
「そうね……。あなたには妖狐を扱えるようになってもらいましょうか」
狐を扱うということ。
昔は多くを扱えていたのに、今では五匹までと限られていること。
わたしが思うに、それは精神的な問題なのだと思うのだ。
なんだかんだで恵まれているこの時代、心の奥深くの在り方が、狐憑きを弱らせた原因なのではと思うのだ。
少女の目の前で自らの指を薄く噛む。
滴る血液は一瞬で結晶へと変わる。
「結果的にはこうなったけれどね、わたしはあなたのことを認めていないわけではないの。こうして知り合えた縁を大事にしたいとも思っているのよ」
この結晶は簡単には溶けない。
一部とはいえわたしの存在そのものなのだから。
「これはお礼でもあるの。そしてわたしの意思でもね。あなたはわたしがどんな存在なのかを知ったけれど、他の人はそうではないわ。もしかしたら、あなたの意思とは関係なく、わたし達を討とうと考える者もいるかもしれないわ」
少女には抑止力でもあってほしい。
少女がわたしと敵対することはないだろう。
しかし周りも同じ考えになるとは限らない。
そんな時に少女に力があるのなら、わたしに敵対しないという多少のわがままも押し通せるというわけだ。
「だからあなたにはわたしの血をほんの少しだけ分け与えるわ。わたしはこうして三匹の妖狐を従えているわ。だからこの血を取り込むことで、きっとあなたも妖狐を扱えるようになるのでは、とわたしは思うのよ」
もちろん本心は語らない。
語らずとも説得は容易いことだ。
なにせ狐憑きの間では伝説とまで言われている妖狐を扱えるようになるのだ。
その魅力には抗えない。
「本当に、これで妖狐が……」
「遠慮することはないわ。……そうね、どうしても気になるというのなら、もしもあなたが妖狐を扱えるようになった時には、一度だけわたしのお願いを聞いてもらえるかしら。もちろん万が一にも扱えなかったときは、わたしのことを忘れてもらって構わないわ」
嘘だ。
わたしの血を取り込むことでいいわ、間違いなく少女は変わる。
それは本人には自覚できないほどにゆっくりとだが、しかし確実なことだ。
少女は間違いなく稀代の狐憑きとして名を馳せることになるだろう。
そうして再びわたしに会いに来るのだ。
その時には、名前を呼んであげようと思う。
わたしが少女に血を分け与えたこと。
その意味を知るレイだけがわたしを見つめていたが、わたしは何も答えなかった。
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二人の来訪者は夜が明ける前に静かに街を去っていった。
全ては解決したのだ。
入上のためにも早く移動したほうがよかった。
恵子もその日の朝には退院した。
「ご心配をかけました」
「いいのよ。恵子が悪いことなんて何もないの」
頭にはガーゼが貼られているが、体調はしっかりしている。
傷跡も残らないそうなので一安心だ。
そうそう、不思議な事に病院では一名だけ行方不明者が出たそうだ。
本当に不思議な事だった。
「これからは私もここで暮らすわ。許してくれるわよね?」
是非もない。
過保護かもしれないが、わたしが恵子を守れなかったことは事実だ。
マリアがそう判断するのも当然だった。
「構わないけれど、教会はもういいの?」
「いいのよ。私にとっては恵子と一緒に居られる方が大事なの。それと、私もレイと同じように扱ってくれて構わないから」
「……そう、それならわたしも構わないわ」
そういえばマリアは昔から恵子を気に入っていた。
マリアにこだわりができたのは、まあ歓迎できることだ。
あのまま教会にいたところで、マリアは緩やかに弱っていくだけだろうから。
この家にいる代わりにわたしに身体を差し出すというのなら、それこそ歓迎すべきことだろう。
今までマリアとことを構えたことはない。
わたしにとってマリアは対等だったからだ。
今でこそわたしがこの街の支配者だが、その前はマリアだった。
もちろん今の支配者がわたしである以上はマリアに手を出しても問題は無かったのだが、その時の状況が状況だったのでなんとなく引け目を感じていたのだ。
だから、こうしてマリアから提案してきたことは喜ぶべきことだった。
「じゃあわたしも一緒に、なんて……」
「……まあ、認めないわけにはいかないわね」
教会でのレイは、マリアからおこぼれを恵んでもらう立場だった。
レイ一人が教会にいたところで、訪れるカップルの願いは聞けないだろう。
妖狐もいることだし、同居したほうが何かと都合がいいのも確かだった。
「これからは騒がしくなりそうですね」
「でも、きっと楽しいよ」
千代とわたしで暮らしていた家。
千代と恵子とわたし、千代と恵子と琴乃とわたし、恵子と琴乃とわたし……。
今日からはマリアにレイ、さらに三人のペットも増える。
騒々しくならないわけがなかった。
その日も結局学院を休むことになった。
同居人が一度に増えたので、さすがに買い足さなければいけないものもあったからだ。
だがそれよりもまずは部屋割からだ。
さすがに全員個室というわけにはいかなかった。
「私達はどこでも構いません。狐の姿ならばベッドもいらないでしょう」
キョウ、ショウ、チョウの三人はすぐに決まった。
とりあえず三人で使う個室を与えたが、基本的にはわたしや琴乃と一緒に眠ることになる。
さすがの触り心地だった。
「私は恵子と一緒じゃなきゃイヤよ」
恵子も特には嫌がらないので、マリアと一緒になった。
わたしが恵子と眠るときは、常にマリアも一緒だった。
それはそれで悪くなかった。
数日でマリアの態度も変わっていった。
「それじゃわたしは琴乃の部屋かなあ」
琴乃は一瞬渋ったが、レイに押し切られる形で一緒の部屋になった。
その代わり、他の娘には手を出さないと約束させられていた。
レイは理不尽だと嘆いていたが、結局は守っていた。
わたしには相変わらずだったので、確かに理不尽だと思う。
部屋割を決めたその日の晩、ニュースが流れた。
警察が大規模な山狩りをした結果、大きな野犬が数匹に、これまた大きな熊を駆除したそうだ。
見つけた時にはなぜかどちらも瀕死で、ここ数日の被害者は獣同士の縄張り争いに巻き込まれたということで結論がついた。
これで表向きにも平和が戻ったのだった。
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一年後、わたしと琴乃が学院を卒業した。
同時に恵子も理事長を辞任した。
そもそも千代の親族というだけで引き継いだ立場だったから、影では教師からの反発も大きかったのだ。
そんな理由があるから、わたしも反対はしなかった。
「ねえアリナちゃん。わたしの進路ってどうしたらいいのかな」
「琴乃の好きにするといいわ。わたしも恵子も反対なんてしないのよ」
「それじゃあさ……。ずっとアリナちゃんと一緒にいたいっていうのでもいいのかな」
「……ええ、もちろんよ」
それが琴乃の選んだことなら、わたしは受け入れるだけだ。
千代が働いたのは恵子とわたしのためだったし、恵子が働いたのはわたしのためだった。
琴乃には働く理由がない。
わたしと一緒にいることを願うのは当然のことだったのかもしれない。
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「アリナちゃんはさ、わたしの子供ってほしい?」
「あら、どうしてそんなことを聞くの?」
「うん。……わたしはほしくないなって思って」
「……どうしてかしら」
数年が経った。
わたし達はほとんど家から出ずに、たた怠惰な日々を送っていた。
「おばあちゃんが亡くなった時にね、思ったの。おばあちゃんを送りたいっていうアリナちゃんの気持ちは分かるんだけど、やっぱりわたしは悲しかったの。それでね、もしもわたしの子供ができた時に、また同じ思いをさせるのかなって考えたらね……」
千代の時も、恵子の時も。
当然の認識として、子供は生むものという思いがあった。
深く話し合ったわけではない。
ただ千代と恵子は子供を生むことができ、わたしは生ませることができたというだけだ。
「それにね、ずっと思ってたんだけど、アリナちゃんがずっとこの街にいるのは、アリナちゃんのためにも良くないなかなって思うの」
「……」
「アリナちやんはさ、やっぱり今でもおばあちゃんのことが一番好きだよね。わたしもお母さんも、おばあちゃんと血が繋がっているからこうして面倒を見てくれてるだけで、心からわたしやお母さんのことを好きなわけじゃないよね」
「そんなこと、ないわ」
「うん。そうかもしれない。でもね、お母さんとも話したんだけど、それじゃあやっぱりアリナちゃんのためにならないと思うの。こうして一緒にいてくれるのは嬉しいよ。わたしもお母さんも、アリナちゃんのことは大好きだから。でも、それが続いたらどうなるんだろう」
続いたら。
もしも琴乃も娘を生んだら。
「わたしも娘を生んでさ、その娘もまた娘を生んでさ、アリナちゃんはずっと面倒を見続けるの? アリナちゃんの愛する人はどんどん増えていって、アリナちゃんの子供もどんどん増えていって、そしたらいつか、この街のみんながアリナちゃんの娘だけになっちゃうよ」
現実的じゃない。
千代も恵子も、一人しか娘は生んでいない。
だからこれ以上増えることはないけれど、琴乃が言いたいのはそんな事じゃない。
「ううん、違うね。わたしはただイヤなの。わたしが亡くなったあともアリナちゃんには好きな人が増えていってさ。どんどん増えていってさ。そうしたら、わたしのことを忘れちゃうんじゃって思っちゃうの」
「そんなこと、ないわよ」
「おかしいよね。まだ生んでもいない娘に嫉妬するなんて。でもね、わたしはイヤなの。おばあちゃんのことも、お母さんのことも好きでいていい。わたしのことを好きでいてくれたらそれでいいと思ってた。でもね、忘れられるのかもって思うと、わたしは不安でたまらないの」
永い時を生きてきた。
人に惚れたのは千代が初めてだった。
初めて生まれた娘は可愛かった。
もちろん孫の琴乃も。
でもそれが曾孫、玄孫と続いていって。
千代の血はどんどん薄れていって。
どこまでも愛されるとは限らない。
改めて問われると、愛する自信もない。
それが琴乃が一番心配することなのかもしれない。
わたしが人としての彼女たちを愛している以上、また別れも必至な以上、それはどこかで止めなければならないのかもしれない。
「分かったわ。琴乃に娘を生めだなんて言わないわ。けれど、ずっとこうして一緒にいる分には構わないんでしょう?」
「うん! だってわたしもお母さんも、アリナちゃんのことが大好きだから!」
怠惰な日々が続いていく。
外出することといえば、人に必須な食事をするときだけだ。
お金の心配はいらなかった。
今まで働いていた財産があったし、人数の割に必要な食料はごく僅かだったから。
そうしてだんだん外に出なくなって。
いつの間にかこの家は、近所でも有名な幽霊屋敷になっていた。




