10-2
病室には静けさが戻っている。
アリナ達は夜に備え、今の時間から自宅で眠るそうだった。
間宮も自分の身は自分で守れるということで、警察署へと戻っていった。
今、この場には恵子とマリアの二人だけだ。
「ねえ恵子。小さな時のことを覚えてる?」
「……ええ。私はよくあなたのいる教会を訪れていましたね。小さな時はどうにも家が窮屈で、そもそもが周囲と比べて特殊な環境でしたから、何でも相談できるあなたの存在には助かりました」
恵子は生まれて間もない時期から、母親である千代に連れられて教会を訪れていた。
その頃からの記憶をマリアはしっかりと覚えている。
まだ小さかった恵子。
喋ることもできないくせに、それとも喋れないからこそなのか、生まれた時から恵子はマリアに懐いていた。
マリアにとっては初めての感覚だ。
まだ自我を得て数年と経っていなかった。
赤子を見るのも初めてなら、無邪気に懐かれるのも初めてだった。
恵子はすくすくと成長していく。
成長しながらも、変わらず教会を訪れた。
家庭の悩み、進路の悩み、そして沢山の他愛もない会話。
そのすべてをマリアは覚えている。
「そういえば……私が街の外に進学しようか悩んでいた時、背中を押してくれたのはあなたでした」
「よく覚えてるよ。あの時の恵子は泣いていたね。アリナのことが好きなのに、アリナはお母さんのことしか見てないって、私のことはどうでもいいんだって泣いてたね」
「今思うととても幼稚な話ですよね。アリナさんは母にも私にも、今では琴乃のことも平等に愛してくれているというのに」
その時の恵子は少しばかり思い違いをしていたのだ。
アリナと千代の両親はお互いを愛し合っていた。
いつでもどこでも仲睦まじく、子供だった恵子から見ても胸焼けをするほどだった。
そのアリナは恵子にも同様に接していた。
恵子の耳元で愛を囁き、いつも過剰なスキンシップを迫るのだ。
それが恵子には耐えられない。
その時の恵子にとって、まだアリナはただの人だったのだから。
ただでさえ両親がともに母親という特殊な環境で、更に母親の一人は娘にさえ手を出そうとする。
恵子にとっては禁忌以外の何物でもなかったのだ。
『……もしかして伝えてなかったかしら』
その環境が嫌で家を飛び出した。
一晩中マリアと話したその翌朝、迎えに来たアリナが言った言葉だ。
そこから恵子の世界が広がった。
この世にはどうしても理解できないことがあるのだと知った。
アリナの過剰なスキンシップも、アリナだけが歳をとらないことも。
その全てを受け入れることができたのだった。
そこから恵子の幸せは始まった。
なにせアリナは美しかった。
言い寄られて嬉しくないわけがなかった。
しかし、アリナは千代を愛しているわけで、そこに恵子が入る訳にはいかないと思っていたのだ。
しかし、そうではなかった。
なにせアリナは人ではないのだ。
だとすれば人の道理なんて関係がない。
アリナが千代と恵子を同時に愛し、千代と恵子が同時に応えたところで問題はなかったのだ。
恵子とアリナが学院に通うようになると幸せは加速した。
なにせ四六時中アリナと一緒なのだ。
はめを外すようなことはなかったが、それでも恵子は常にアリナと共にいた。
「あなたがあの時私の話を聞いてくれなければ、きっとアリナさんとはすれ違ったままでした。本当に感謝しています」
──本当に感謝しています。
目の前ではっきり言われたことで、マリアは複雑な心境を隠せなくなる。
マリアは恵子が小さな時から面倒を見ていた。
とりわけ恵子が思春期の時は、アリナよりもマリアのほうが付き合った時間は長いくらいに。
いつしかマリアは恵子に惹かれ、そして唯一の話し相手として依存していたのだ。
そのことをはっきりと自覚することになったのは、恵子が教会に現れなくなってからだ。
街の外へと恵子が進学すると、当然教会に顔を出すことはできない。
マリアは教会で孤独に日々を過ごすこととなる。
その時になってやっと気付いたのだが、マリアは一人が嫌いだった。
なにせ自我が芽生えてからは常に隣に人がいた。
初めは千代が、大きくなってからは恵子が。
それぞれが日を置かずに教会を訪れていたため、マリアは今まで孤独を感じずにすんでいた。
恵子は来られない。
千代も恵子が大きくなってからは教会を訪れていない。
マリアはそれが寂しくて寂しくてしかたがなかった。
それでも数年だけの我慢だ。
自らにそう言い聞かせ、孤独な日々を必死に耐えた。
そして数年が経ち、恵子が街に戻ってきた時──。
恵子はマリアのことを忘れていた。
「感謝してくれるのは嬉しいわ。でもね、私は寂しかったの。いつの間にか恵子は私のことを忘れていて、でも私はしっかりと覚えていて……。何かあったのかって、ずっと心配だったのよ」
恵子は街にいるはずなのに、決して教会を訪れない。
話し相手を欲していたマリアにとっては我慢ならないことだった。
しかしマリアは教会から動くことが叶わず、ただ恵子が訪れるのを待ち続ける日々。
日々、恵子への想いだけが高まっていった。
「……今思うと不思議ですよね。どうして私はマリアさんのことを忘れていたのでしょう」
あるいは、アリナだったら分かったのかもしれない。
日を開ければ開けるほど、会わない期間が長くなるほどに記憶から抜け落ちてしまう存在なのだと。
アリナもレイもマリアも、忘れられることこそが自然の理なのだと教えてもらえたかもしれない。
しかしアリナは初めから教会に興味はなく、一番にマリアの存在を忘れていた。
マリアに楔だけを打ち付けて、記憶は忘却の彼方だったのだ。
「でも、こうして再び会うことができたわ」
一年前のことだ。
姿の全く変わらないアリナがマリアの前に現れたことは。
その時にはもうマリアの自我も曖昧で、ただアリナのお願いを聞くしかなかった。
ただ、そのお礼として恵子の前に姿を表すこともできた。
「本当は、やっと私の目の前に来た恵子に怒ってやろうと思ってたんだけれどね」
マリアは無言で恵子を抱きしめただけだ。
ずっと想っていた恵子にやっと会えたのだ。
募りに募った想いはマリアから言葉を奪っていた。
『マリア……? わたしはどうして忘れていたんだろう……』
『いいの。こうして会えただけで、恵子が無事だって分かっただけで満足よ』
それが初めて恵子に触れた日だった。
「私は恵子のことが好きよ。もちろん誰よりも、アリナよりもよ」
マリアは恵子に向かってはっきりと告げた。
今を逃すともう二人っきりになる機会もないと思えたからだ。
「でも恵子は、今でもアリナが一番なんだよね」
「……ごめんなさい」
聞くまでもなく分かっていたことだ。
大きくなった恵子はいつの間にか子供を持つ身となっていた。
相手は考えるまでもない。
一緒に暮らしているアリナが、他の相手なんて許すはずがないのだ。
「恵子の気持ちは分かってるの。……千代のことは聞いているわ。アリナ、千代を何もせずに見送ったのよね」
「……ええ。最後まで人であることが、アリナさんの願いですからね」
昨年に千代が亡くなった時、アリナはただ見送るだけだった。
アリナならばどうとでもできるにも関わらず。
それこそ、アリナと同じものにもなれたのに。
「きっと恵子もそうなるのよね。これからも恵子は歳をとって、そしてアリナに見送られるのね……」
マリアが恵子にのみ心を開いていること。
流石に恵子も理解できていた。
「……ねえ恵子、これが最初で最後のお願いよ。恵子がその寿命を全うした時、魂だけは私にいただけない?」
「……」
「もう一人は寂しいの。別に恵子を変えるわけじゃないの。ただ、私の中で眠り続けて欲しいだけなの」
どう返事をするべきなのか、恵子はすぐに答えが出せないでいた。
マリアが恵子のことを少なからず想っていることは、普段の態度から分かっている。
アリナにも琴乃にもレイにもつれない態度なのに、恵子が相手するときだけは明るい表情を浮かべるのだ。
だから、マリアの提案自体は納得できるものだった。
だが少なくとも今すぐに返事はできない。
恵子も少なからずマリアのことを想ってはいるが、それはアリナへと想いとは比べるべくもない。
恵子はいつだってアリナが第一なのだから。
「それは、どういうことなのでしょうか。あなたの中で眠り続けるとはどういう意味なのでしょうか」
「ただ私が恵子を感じていたいだけ。恵子は魂の輪廻って信じてる? 私はあんまり信じてない。でもね、やっぱり魂はあるの。そして身体を失った魂は簡単に形を変えてしまうの。私は恵子を失いたくない。生まれ変わってもほしくない。ずっと私と一緒にいてほしいの」
やはりアリナを裏切ることはできない。
マリアの想いの強さは痛いほどに伝わったが、それでも恵子に土とってはアリナが一番なのだ。
しかし応えたいという想いも確かにあった。
最終的にはアリナに判断してもらう。
そう前置きをした上で、恵子が出した結論は──。
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目覚めると既に日は沈んでいた。
今日は結局わたしも琴乃も学院を休むことになってしまった。
学院への連絡は間宮さんがしてくれたから、無断欠席とはならないのだが。
「琴乃、そろそろ時間よ」
これからわたし達は夜の街へと繰り出していく。
本当なら今でも反対だ。
琴乃を囮にするだなんて。
でもわたしは琴乃に甘いから、お願いされたら結局は引き受けるしかないのだった。
「おはよう、アリナちゃん」
「ええ、おはよう。早速出掛ける準備を始めましょう」
すぐに着替えてリビングへと降りていく。
わたしと琴乃、それにレイも一緒だ。
レイが一人では可哀想だと琴乃が言うため、三人一緒に眠っていたのだ。
「それではこれから外に出るわけだけど」
その前に準備をすることがある。
わたしもレイも、琴乃のそばにいると犯人が現れない可能性が高いだろう。
身を隠す必要があった。
「会話はいつでもできるし、わたしはいつでも琴乃のそばにいるわ。けれど、無理だけはしないでね」
「匂いは私が辿ってあげる。琴乃はわたしの指示通りに動いてくれたらいいよ」
伝えたいことを伝えたら、あとはこの身を隠すだけだ。
『今日もとても暑いわね
このまま身体が溶けてしまいそう
もう外には出たくないわ
わたしにとっては気持ちいいんだけどね
あなたは暑さに弱いから
日差しは今日も強いものだ
肌は焼け爛れ
見動きもままならない
日差しを遮る手段は一つだけ
あなたの影に隠れるだけだ
──あなたの中に』
レイが琴乃の身体に触れると、ゆっくりとその腕が沈み込んでいく。
もちろん服装に穴が空いたりなんてことはない。
そのままレイの姿が消えた次はわたしの番だ。
レイと同じように琴乃に触れると、わたしの身体も琴乃の中へと沈んでいく。
全身で琴乃の体温を感じる。
わたしの身体すべてが琴乃の中に納まっているのだから当然だ。
残念なのは触れている感覚がないことか。
『琴乃、大丈夫?』
「うん……なんか不思議な感覚だね」
『そうね。今は無理して琴乃の中に入っている状態だから、これが数日続くと気分が悪くなると思うわ。だから、今晩中にケリをつけるわよ』
「分かってるよ。……まずはどこに行こうかな」
『琴乃、わたしの声も聞こえてるかな。まだ匂いはしないから、とりあえずは事故現場まで行ってみたらどうかな』
「レイちゃんの声も聞こえる……。うん、分かったよ。それじゃ出かけるね」
あとは無事に犯人が釣られるかどうかだ。
でも間違いなく琴乃を襲ってくるだろうと確信している。
向こうは恵子の殺害に失敗し、そして今はマリアがそばにいるせいで手が出せない。
そんな中に無防備な琴乃が飛び込んだら喜んで狙ってくることだろう。
問題は琴乃の中にいるわたしとレイに気付くかどうか。
でもきっと大丈夫。
向こうが匂いで判断しているのなら、普段からわたしの匂いを漂わせている琴乃と区別はつかないはずだから。
琴乃は単身、暗い街の中へ踏み出していく。




