10-1 復讐の徘徊
瞬間、わたしの身体は恵子のすぐそばにあった。
何が起きたのかは分からない。
けれど、これから起きるであろうことは簡単に分かった。
恵子の運転している車が今にも電柱に追突しようとしているのだから。
まさに追突一秒前だ。
この状態で、恵子を抱えて車から飛び出すのは流石に無理だろう。
かといって何もしなければ、勢い良く電柱へとぶつかってしまう。
すぐさま恵子とフロントガラスの間に入り、全身にぐっと力を込める。
両足が車の底ををぶち抜いて、激しく地面と擦れ合う。
あとは少しでもクッションになるように、恵子をきつく抱きしめるだけ。
そして次の瞬間、わたしでも意識を失うほどの衝撃が体を襲った。
……。
…………。
「……っつう」
数瞬の間、どうやらわたしは意識を失っていたようだ。
まわりでガヤガヤと声がする。
近隣の住人が集まっているようだった。
動こうとして、見動きの取れないことに気付く。
車のフロントがひしゃげ、どうやら挟まれてしまったらしい。
身体が妙に温かいのは、きっと血を流しているからで……。
──そうだ、恵子は……?
閉じていた瞼をゆっくりと開く。
妙に薄暗い視界の中、確かに恵子はわたしの目の前にいた。
「恵……子?」
呼びかけるが、しかし瞳は閉じたままだ。
それどころか、恵子は頭から大量の血を流していた。
一瞬で頭が真っ赤になるが、それどころではないとすぐさま冷静になる。
何をするにしても、まずはひしゃげた車の中から恵子を取り出さなければならない。
「ふうっ!」
息を吐いて、全身へ力を込める。
こうして力を込めるのは久し振りだ。
そして、わたしの力は一般とは比べ物にならない。
潰れた車がメキメキと音を立てていく。
周囲の一部の人たちは逃げ出し、一部ではざわめきが大きくなっていく。
電柱にぶつかってヘコんだ車のフロントが、更に不自然な変形を遂げていく。
少しスペースができたところで、恵子の全身を眺めてみた。
どうやら出血は頭だけのようで、足が潰れていなかったのは一安心だ。
しかし決して余裕があるわけではないのもまた事実。
曲がって開かなくなったドアを殴って飛ばす。
驚いて逃げていく野次馬たち。
その中に、どこかで見た長い髪の女性がいた。
恵子を連れ出して、やっと何が起きたかを理解した。
車が電柱にぶつかっていた。
電柱は折れ曲がり、車へとその支柱を預けていた。
車は……これはもう廃車だろう。
火災が起きていないのが不思議なくらいの有様だ。
遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
どうやら野次馬の誰かが呼んでくれたらしい。
ならば今わたしがすることは、どうしてこの事件が起きたかを調べることだ。
恵子を静かに地面へと横たえて、わたしは周囲へと目を配る。
集まっていた人たちは遠巻きにわたし達を見るばかりだ。
それはいい。
わたしを見られたことは問題だが、恵子に比べたら些細なことだ。
事故が起きたのは七海を送ったその帰り道のようだ。
道は細く、大型トラックとすれ違うのに苦労しそうだ。
そんな中で、恵子は電柱をへし折ったようだった。
──あり得ない。
瞬間的にそう思う。
もちろん、恵子が運転を誤った可能性はある。
しかし電柱を折るほどの速度を出すはずがない。
わたしと付き合ったことで、恵子はどんなことがあっても動じなくなっている。
たとえ車が故障したところで、壁にこすりつけながらゆっくり減速するぐらいのことは造作もないはずだ。
そして見つけた。
わたしが吹き飛ばしたドア、そこに奇妙な穴が開いていることに。
被害のないはずの車の後ろが奇妙にへこんでいることに。
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「──必ず地獄に落としてやるわ」
「……アリナさん?」
「ごめんなさい。まだ気が立っているのよ」
恵子と一緒に救急車に乗って病院へと向かったわたしだが、当然のように診察は拒否した。
今は恵子の容体がどうなのか、気になって気になって仕方がない。
病院から琴乃と間宮さんに連絡をとった。
間宮さんはすぐに来てくれて、琴乃は着替えを持ってからなので少し遅れるそうだった。
恵子が無事なことは決まっている。
たとえ一般的に無事ではなくとも、マリアもいるのだからいざという時はどうとでもなる。
ただ、無事ならばそれに越したことはない。
「アリナさん、事故の原因なんですけれど……」
「車を調べなさい。吹き飛んだ右前のドアと、それとリアの部分ね。あとは地面からも獣の毛が見つかると思うわ」
「そうなると……」
「ええ。詳しくは恵子が目覚めてからだけれど、間違いなく黒髪の仕業ね。わたしが車が這い出た瞬間をしっかりと見てたわ。多分獣に車を押させでもしたんでしょうね」
ドアを押して車の向きを変え、後ろから押して速度を上げた。
おそらくはそういうことだろう。
そして、恵子を間違いなく殺すつもりだった。
「お母さんっ!」
「心配をかけたみたいでごめんなさいね」
病院まで駆けつけてきた琴乃はすぐさま恵子に抱きついた。
あのあと恵子はすぐに意識を取り戻し、今は個室へと移っている。
恵子は頭を強く打ち付けた以外の外傷はなく、このまま数日を安静に過ごすだけで退院できるそうだった。
「アリナお姉さま、大変でしたね」
「ええ、本当に」
琴乃と一緒にレイとマリアもついてきている。
これで恵子のことはマリアに任せることができる。
マリアに恵子のことをお願いしようとした時だ。
バチンという音と同時に、わたしの視界が一瞬失われた。
「アリナ、あなた眠ってたの」
頬にじんわりと熱が生まれる。
「ねえ、どうして恵子がこんなことになってるの」
往復でもう一度バチンと頬を叩かれる。
流石に痛い。
普段ならばこんなことは許さないが、今だけは甘んじて受け入れよう。
「マリア、落ち着きなよ。お姉さまは出来る限りのことはしてるんだよ。今日だって、犯人の目的が分かったから恵子のことをマリアに任せようとしてたんだから」
そしてバチンという音。
三度目のビンタはレイに向けてだった。
「任せようと思っていた、ですって? 任せる前にこんなことになっては言い訳にすらなっていないわ!」
レイはわたしをフォローしようとしたようだが、今のマリアにとっては火に油を注ぐようなものだ。
マリアは恵子のことを気にかけていたからそれも当然かも知れない。
これが恵子いがいだったならば、ここまで怒ることもなかったのだが。
「マリアさん。そろそろお怒りを沈めてください。私はこうして無事だったのですから、これ以上怒ることはなりませんよ」
「恵子……」
恵子が言うまでもなく、三度のビンタを繰り出したことでマリアは落ち着きを取り戻していた。
殴り返すようなことはしない。
わたしも反省したかった。
恵子がこのような目にあったのは、間違いなくわたしの落ち度なのだから。
「はあ……。分かったわよ。それで、何があったの」
ちょうどいい機会だ。
ここには当事者しかいないから、情報を共有する意味でも説明は必要だろう。
一日目。
恵子と琴乃の前に、獣を操る人物が警告に現れた。
その場で二人が害されなかったのは、ただ運が良かったというよりも、その時はわたしの位置を把握していなかったからだろう。
二日目。
学院の教師である山下楓が殺される。
犯人は恵子に話しかけてきた黒髪の女性。
わたしが過去に関係を持っていたことが原因と考えられる。
三日目。
同級生の平津乃衣が傷つけれる。
殺されていないことから、犯人は琴乃に接触した少女だと思われる。
琴乃は知らなかったことだが、平津は琴乃に気があった。
四日目。
生徒会長である森七海が事件に巻き込まれる。
こちらの犯人はまだどちらとも言えない。
そして今朝、一人で車を運転していた恵子が黒髪の女性によって殺されかけた。
まず間違いなく、恵子が一人になる機会を伺っていたのだろう。
車の操作を奪うように獣をけしかけたのは間違いない。
なにせ、アリナは現場を去る黒髪の後ろ姿をハッキリと見たのだから。
「……三日目の事件って、初耳なんだけど」
「些細なことだったからよ。琴乃は気にしなくてもいいの」
別に琴乃と平津は仲がいいわけでもなかったので、それ以上の追求は特にない。
わたし達の中で態度を取り繕う必要はないのだ。
「そう……この女が恵子を傷つけたのね」
その隣ではレイとマリアが額を重ねていた。
これで琴乃以外は犯人の姿までを共有したこととなる。
本来ならば恵子や琴乃の血をレイに吸わせてその姿を確認するのが一番だったのだが、わたしの独占欲が邪魔した。
そのせいで対応に出遅れてしまったのだから笑えない。
「どうやら教会に引きこもってるわけにもいかないみたいね」
「そのことだけれど、マリアには恵子のことを頼みたいの。同じようにレイには琴乃ことを頼みたいのだけれどいいかしら?」
「私は構わないけれど、アリナはどうするのかしら? レイがいなくては匂いを辿れないのではなくて?」
そう、そこが問題だ。
恵子を動かす訳にはいかないから、マリアには恵子を守ってもらう。
そこはもう確定だろう。
同じように琴乃を守ろうとするならば、わたしかレイが常にそばにいる必要がある。
しかしわたしは黒髪をこの手で捕まえたいのだ。
恵子を傷つけた相手を許してはおけないのだ。
しかし、わたし単独では犯人を追うことすらままならない。
何か妙案があれば……。
「琴乃も病院に泊まりなさいよ。それならば私は二人を守れるわ。ついでにそこの人も守ってあげてもいいわよ」
そこの人というのは間宮さんのことだ。
間宮さんは静かにわたし達の話を聞いている。
そう、マリアには琴乃も一緒に守ってもらうのがいいだろう。
そしてわたしとレイで、犯人を追い詰めるのだ。
でもそれだけではまだ足りない。
レイは一晩街を彷徨ったのに、犯人の足取りはつかめなかったのだ。
そこにわたしが加わったところで、効果はさほども期待できない。
考えがまとまらずにいると、不意に琴乃が話し出した。
「アリナちゃん。……わたしにも協力させてくれないかな」
「……琴乃?」
「その犯人って、お母さんを傷つけた相手なんだよね? だったら私も許せないよ。アリナちゃんに頼るだけじゃなくて、わたしだってその相手を懲らしめたいよ」
「琴乃……」
わたしは気付いていなかった。
琴乃はいつでも元気で、嫌なこともすぐに忘れてしまう娘だ。
誰かを恨むこともないから、恵子が傷つけられたところで、悲しむことはあっても復讐を考えるとは思ってもみなかった。
けれど、当たり前のことなのだ。
琴乃の小さな世界には恵子とわたししか存在しない。
そのどちらかが傷つくならば、それはもう世界の半分が冒されたことと同義なのだ。
八つ当たりだろうと暴れたくなるのだろう。
「決まりね。私が恵子を守る。アリナとレイが琴乃を守る。琴乃が犯人を追いかける。それでいいわね」
でも、待ってほしい。
それでは琴乃が危ないではないか。
わたしがそばにいる以上琴乃を危険な目に合わせるつもりは微塵もないが、万が一ということもある。
実際、守れるつもりだった恵子は傷ついた。
ギリギリで間に合ったのは、恵子が身の危険を感じた時は私が飛ぶようにと、レイがかけていたおかげだ。
今のわたしには琴乃を守り切る自信がなかった。
「アリナちゃん、お願いだよ。私はお母さんを守りたいの。お母さんを傷つけた相手を許せないの。アリナちゃんが心配するのもわかるけど、そこは気にしなくていいの。ううん、お母さんと同じ目にあってもわたしはいいの」
琴乃はまっすぐわたしを見つめている。
瞳は揺らぐことのない意思が込められている。
これではわたしは説得できない。
「ねえアリナお姉さま。別にいいんじゃないかな。わたしとお姉さまが一緒なら、きっと何があっても琴乃を守れるよ」
「アリナ、覚悟を決めなさい」
「アリナさん。私から琴乃を止めることは致しません」
皆が皆、琴乃を支持するようだった。
「……死体は残さないようにお願いします」
間宮さんも、わたしが皆の意見を受け入れると考えたようだ。
ならばわたしも受け入れよう。
琴乃を囮に、守りつつ相手を捕まえる。
簡単なことなのだ。
わたし一人で十分なのに、そこにレイと琴乃が加わる。
恵子の身はマリアが守ってくれる。
心配するべきことは何もないのだから。




