06-2
恵子は困っているようだった。
その気持ちも痛いほどに分かる。
理事長である恵子にとって、この学院に通う生徒は全てが子供のようなものだ。
その子が愛する愛娘に害をなす存在だった。
けれど実際に手は出しておらず、それなのにその子は傷を負った。
ただ思うだけでも罪なのか。
恵子の葛藤はしばらく続きそうだった。
午後の授業の終わりを告げる鐘がなると、幾分もしないうちに理事長室のドアがノックされる。
「どうぞ」
琴乃がやってきたのかと顔をあげるが、しかし現れたのは別人だった。
「アリナさん。あなたの生活態度についてお話があります」
高い背に肉付きの良い身体。
長い髪とともに色香を振りまくのは現生徒会長の森七海だ。
「あら? わたしは何も悪いことはしていないわよ?」
とぼけたわたしの返事は生徒会長を激高させるに十分だった。
「──っ、学院生なのに授業をサボるとは何事ですかっ! 理事長も理事長です! 目の前の生徒を叱らずに何か理事長なのですかっ!」
「そうは言うけれど、今は早く帰る必要があるじゃない? 理事長は仕事が多いから、誰かが手伝ってあげなくてはダメなのよ」
「あなたがっ──。いえ、ここでは理事長の邪魔になります。アリナさんは生徒会室まで来てください」
理事長室に入ってきた生徒会長は、問答無用でわたしの腕を掴む。
これではしかたがない。
「はあ……。あまり長くはかからないから、琴乃とここで待っていてちょうだい」
「はい。アリナさん、また手伝ってくださいね」
そう言う恵子を睨む生徒会長は、しかしこれ以上ここで騒ぐつもりはないようだった。
生徒会長に引かれながら廊下を歩いていく。
すれ違う生徒たちはわたし達に話しかけることはないが、心配する様子もない。
──ああ、またやってる。
──ほら、生徒会長は真面目だから。
そんな声が聞こえてくるようだった。
生徒会室に辿り着く。
会長──七海とわたし以外の姿はない。
七海は先程までとはうってかわって怒っている様子が見えない。
それもそうだろう。
わたしが態度を直さないということを、この学院で七海が誰よりも知っているのだから。
「それで、今日はなんの用なのかしら」
わざわざ面倒な芝居までしてわたしを連れ出した理由。
もちろんそれも分かりきったことなのだが、恵子との逢瀬を邪魔されたのだ、チクリと棘を刺すぐらいは許されるだろう。
「アリナさん、分かってるでしょう? もちろん、篠宮先輩のことよ」
篠宮先輩──篠宮怜衣。
今の名前はレイ。
昨年度にここを卒業した先輩で、その美貌でいろんな娘に人気があった。
七海もレイに憧れていて、そして未だに忘れられない生徒の一人だった。
「なあに、レイがどうかしたの」
「あなたっ……いくら篠宮先輩とお付き合いしているからって、少し馴れ馴れしすぎなのではなくて?」
これだ。
レイが卒業するにあたり、わたしとレイの関係は公のものとなった。
もちろんわたしが言いふらすわけもなく、最後の日にレイを取り囲んでいた女生徒に向けてレイが言ったのが原因だ。
あの時は見動きが取れずに困っていたとはいえ、その嘘はどうかと思う。
まあ、一から十まで嘘というのはわけではないし、少なくとも今の状況で文句を言うつもりはないのだが。
「わたしは忙しいの。文句を聞かされるだけだったらもう戻るわよ」
「ごめんなさい、そうじゃないの。ただ最近は篠宮先輩と会ってないから、どうしたのか気になっただけなの」
それならそうと初めから言えばいいのに。
口には出さないがそう思う。
これで七海もなかなかにわたしの好みだから、傷つけるような発言はしないけれども。
「レイね……。少なくとも今朝は元気だったわね」
「今朝っ!? あなた、また篠宮先輩とお泊りしていたんですかっ!」
そういえばレイはどうなっただろうか。
街を探し回っているのは違いないが、おそらく昼間は空振りに終わるだろう。
なにせ今のところ、怪しい人物は全て夜にしか現れていない。
人目を避けてのことだろうから、昼間でも頑張れば見つかるかもしれないがやはり難しいだろう。
いや、匂いを辿れるのだからむしろ期待するべきなのか。
「ちょっと! 聞いているんですか!」
「なあに? レイは元気だって伝えたじゃない。それじゃあわたしは戻るわね」
「そうじゃなくて……。ねえアリナさん。篠宮先輩ですけれど、アリナさん一人ではお相手は大変ではないのですか? 学院生だった時の篠宮先輩はそれはもう何人もの女生徒を侍らせていました。それが今ではアリナさん一人だけです」
「……それで?」
「そこでです! アリナさんも篠宮先輩と同じく何人もの方と関係を持っているようですし、たまには篠宮先輩を私に貸してほしいんです!!」
……なんともまあ、すごい言い分だ。
仮にもわたしとレイが正式に付き合っていると分かっているだろうに、よりによってわたしに貸してくれと言うだなんて。
まあ、レイとは週に一度会えたら十分なので、普段ならば七海の提案を受けてもいいのだけれど。
「……今は難しいわね」
「どうしてですかっ! 篠宮先輩の独占はずるいですよっ!」
「そうじゃないわ。そうじゃなくて……ただ、最近のレイは忙しいから、あまり人と合う時間は取れないのよ」
それにしても面倒だ。
これで目の前の相手がわたしにも興味を持っているのなら、わたしだけを見るようにするのだが。
しかし七海はレイだけを想っている。
わたしのことなんて微塵も想ってはいないのだ。
さすがのわたしもそんな七海に手を出すようなことはしない。
「さすがにずっと忙しいわけではないけれど……そうね、あと一週間くらいかしら。それだけ過ぎたら七海にレイを会わせてあげてもいいわ」
「──本当ねっ!?」
「約束するわ。確かに七海の言うとおり、レイは少し他人にも飢えているようだからね。それにわたしも七海には色々とお世話になっているからね」
口うるさい態度を見せつつも、その実七海はわたしと恵子の関係を見逃してくれているのだ。
もちろん見返りはレイの近況を伝えることだ。
少しばかり協力するのになんのためらいもない。
「ああ──ありがとう、アリナさん。お願いを叶えてくださった暁には、一日ぐらいはあなたとデートをしてあげてもいいですからね」
まったく、レイと出会えることがそんなに嬉しいのか。
……嬉しいのだろう。
レイが卒業してからもこんなにも一途なのだから。
「そう──それじゃあ、その時を楽しみに待っているわ」
七海は気付いていないが、舞い上がった七海の最後の言葉は失言だ。
本心ではなんとも思っていないと知っているが、七海は確かにわたしともデートしてくれると言った。
これで七海の言質はとった。
いくらわたしのことを想っていなくとも、口に出したらそれはもうわたしのことを想っているも同然なのだ。
わたしも、そして七海も。
二人しかいない生徒会室で、今後のことに妄想が止まらないのだった。
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その日の晩。
夕飯近くになるとレイが顔を出しに戻ってきた。
「それで、首尾はどうなのかしら?」
「お姉さまもご存知のとおりですよう」
期待はしていなかったけれど、昼間に街を捜索したレイは特に目立ったことはなかったようだ。
ただ、まったくの無駄足というわけでもないようだ。
「獣の匂いを辿ってみたんだけど、どうしても途中で分かんなくなっちゃうんだよね。でもね、獣と一緒に行動している人間の数は二人で間違いないかな」
失念していたけれど、恵子と琴乃が出会った二人だけがこの街に紛れているとは限らなかった。
もっともっと多くの数が紛れ込んでいた可能性もあったのだ。
だからレイがそう判断してくれたことはとても大きな意味を持つと思う。
「二人ね。そうなると恵子が出会った黒髪と琴乃が出会った少女の二人だけと考えて間違いないでしょうね」
「うん。わたしも同意見だよ」
しかし相変わらず何をしたいのかは見えてこない。
少女のほうについては、平津への対応からも分かるとおりに、わたし達に敵対するつもりは今のところ無いようだとは思う。
でも黒髪についてはさっぱりだ。
平津さんの時とは違い、最初の被害者である山下先生には殺される理由なんてない。
彼女は立派な教師だった。
なので少なくとも少女は関わっていないと判断できる。
そうなると、山下先生を殺したのは黒髪ということになるのだが……。
(ダメね。考えても理由なんてさっぱりだわ)
黒髪についての情報はほとんど無いのだ。
ただ恵子に少々の悪態をついたというだけだ。
そして獣の匂いがするというだけだ。
わたし個人としては悪者に違いないのだが、だからといって山下先生を殺した犯人と断定することもできない。
「あと、ね……。わたしもさすがに人間の匂いの区別まではつかないし、獣の匂いも詳しいところまでは分かんないんだけどね。……少なくとも、その二人はそれぞれ複数の獣を連れているのは間違いないみたい」
「……両方とも?」
「うん、二人ともだよ」
それぞれが、複数の獣をね……。
そうなると、やはり山下先生を殺したのは誰か分からなくなる。
少女が表では友好的な態度を見せつつも、裏では殺戮者という可能性も出てくるのだ。
いや、そもそもが早計だったのか。
それどころか、わたしが夜に出会ったあの人外でさえもどちらかに遣われているのかもしれない。
暴走と調停。
その言葉さえも、わたしの思考を何かから逸らすための嘘だったのだろうか。
情報交換が終わるとレイはまたすぐに出かけていく。
夕飯をとる時間は与えない。
今は馬車馬のように働いてもらおう。
もちろんレイもしっかりと分かっているから、お腹がすいたなんて言ってこない。
「レイちゃんはまた出かけるの?」
「うん。まだ何が起こっているか分からないからね」
「気をつけてね?」
「あはは、心配しなくても大丈夫だよ。わたし達がただの人間に遅れを取るはずがないじゃない」
レイは夜の街へと消えていった。
ここからがレイの本領発揮だ。
闇夜は誰よりもレイに力を与えてくれる。
そこで起きる出来事を、きっとレイは見逃さないだろう。
「さあ、少し遅くなったけれど夕飯にしましょう」
「うん……」
琴乃はレイのことを心配しているようだ。
たった一年だけとはいえ、琴乃は人としてのレイと関わった時間も長いからその気持ちも分かる。
分かるのだが、やはりそれは杞憂に終わるのだ。
「琴乃あなたがするべきはただ心配することではなく、レイが戻ってきた時に安心させることよ」
「……うん、分かってる」
嫉妬だけはどうにも抑えられない。
わたしのほうがレイよりも愛されていると確信しているのに、だけど嫉妬だけは抑えられない。
それでもわたし達家族も、そしてその周辺も。
女だけの集まりにしては、とても仲が良いといえるのだった。
その日の夜遅く。
日付も変わってそろそろ眠ろうかという時間になったところでレイが戻ってきた。
それも、一人ではなく血塗れの生徒会長、七海と一緒に。




