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闇姫ハーモナイズ  作者: ざっくん
第3部 孤高の姫たち
35/56

02-1 いつもの休日

「気まずいわね……」


 わたし──アリナ=ミエルクレアは玄関の前で逡巡する。

 時刻は朝、まだ早朝と言っていい時間だった。


 本当なら昨夜のうちに自宅へと戻ってくるはずだっけ。

 昨日の下級生との遊びでは、そんなに熱中するつもりはなかった。

 でも、求められたら応えてしまうではないか。


 誘われるままに下級生の部屋へと赴いて、そして気付いた時には太陽が登っていたのだ。


「はあ……」


 だからといって家に入らないわけにもいかない。

 それに今日は休日だから、まだ誰も起きてはいないだろう。

 いつもよりも重い扉を開いて家へと帰った。



「あら、アリナさん。随分と遅いお帰りですね」


「……あら、おはよう恵子。朝、早いのね」


 ドアを開けてすぐ、家主の里霧恵子(さときり けいこ)とばったり遭遇してしまった。


「もう……朝帰りは構いませんが、せめてもう少し身だしなみには気を使ってください。少し、匂いますよ」


「あら、そう? ごめんなさいね、シャワーを浴びてくるわ」


 恵子はあまり怒っていないようだ。

 ……それも当然か。

 恵子との付き合いももう随分と長いものだし、わたしのこともよく知っている。

 いまさら怒ったところで治るものではないと分かっているのだろう。


 とりあえずは言われたとおりにシャワーを浴びよう。

 なにせ急いで帰ってきたものだから、まだ昨夜の汗を流していないのだ。



------



「変質者?」


「ええ……。すれ違い際に臭いと言われてしまいました」


 まだ琴乃の起きてこない朝の時間。

 わたしと恵子二人っきりでの朝食だ。


「なあに、それ。随分と失礼な変質者ね」


 恵子が匂うだって?

 恵子の匂いはこうして向かい合っている今も漂ってくる。

 ほら、今も石鹸の匂いが……。


「……珍しく朝にシャワーを浴びたのね?」


 目の前の恵子は何も言わない。

 そういえば、今朝の恵子は普段よりも早起きだったのではないだろうか。

 いつも朝食を用意してくれるから早起きなのは知っているが、今日は休日なのに平日よりも早起きな気がする。


「……その変質者の言葉、もしかして気にしてたの?」


 やっぱり恵子は何も言わない。

 でもほんの少しだけ顔を伏せ、頬はうっすらと染まっただろうか。

 なんて声を掛けようか、そう思っているとバンとリビングの扉が勢いよく開かれた。


「お母さんはアリナちゃんの為に、昨日はすっごい長風呂だったんだから! それなのにアリナちゃんは帰ってこなくて、お母さんは自分の匂いが原因だって落ち込んでたんだから!」


 現れたのは恵子の一人娘、里霧琴乃(さときり ことの)だ。

 朝に弱い琴乃には珍しく、ハッキリとした口調だった。


「──それ、本当……なのよね。ごめんなさいね、こんなことなら昨日はすぐに帰ってくるべきだったわ」


「いえ、アリナさんは気にしないでください。私が勝手にやったことですから……」


 恵子は遠慮するけれど、わたしとしては大事なことだ。

 せめて今日は恵子と一緒に過ごそうと思う。

 そして夜にはわたしの匂いをしっかりとつけてあげよう。



「そうそう。わたしも昨日の夜に変な人に声を掛けられたの」


「あら、琴乃も? 珍しいこともあるものね」


「ふーんだ。どうせわたしはお母さんみたいに美人じゃないよ」


 休日にしては早い朝食を三人で摂る。

 珍しいって、恵子と琴乃の二人が同じ日に声を掛けられたことを言っているのだけど、どうやら琴乃は勘違いしたようだ。

 琴乃をなだめて続きをうながす。


「お母さんに話しかけてきたのは女子大生ぐらいの見た目だったっけ? わたしのほうは中学生ぐらいの見た目だったかなあ」


「へえ……。琴乃をナンパするだなんて分かっているじゃない」


「アリナさん……」


「もう……。アリナちゃんは勘違いしてるよ。話しかけてきたのは中学生くらいの女の子。また今度ゆっくり話をしたいって言ってきたの」


 琴乃のことだからてっきりナンパされたのだと思ったけれど、どうやら違うようだった。

 昨日、日が沈んでから帰宅した琴乃は途中で声を掛けられた。

 相手は中学生くらいの女の子。

 見た目からは考えられないぐらいに落ち着いた物腰だった。

 そして、琴乃に言いたいことだけ伝えるとものすごい勢いで去っていったと。


「……オバケ?」


 これはあれだ。

 次に会うと琴乃もオバケになっちゃうとか、そういう怪談ではないだろうか。


「やめてよ……。わたしだって怖かったんだから」


「ああ、ごめんなさい。でも気になるわね」


 オバケというのは冗談として、すごい勢いで去っていったとはどういうことだろうか。

 ただ走り去った、ということでもない様子だ。

 琴乃が言うには、見えない何かにまたがって去っていったのだそうだ。


 見えない……バイクとか?

 それじゃあ本当にホラーだ。

 そりゃあ絶対に有り得ないとは言わないけれど。


 それに、琴乃は荒い息づかいを聞いたと言っている。

 見えない何かにまたがる少女と荒い息づかい……。

 どこかで聞き覚えのあるような、初めて聞くことのような。


「まあ、ここで考えてもしょうがないわね。話を聞くとその女の子はまた琴乃に会いに来るだろうし、その時に聞けばいいわ」


「ええ~。なんか怖いよ」


「今日は休みなんだし、家から出なければ安全でしょう」


 家まで訪れてきたらわたしが対応すればいいわけだし。

 何も心配することはない。


「それよりも、わたしは恵子のほうが心配よ。ねえ、最近夜遅いじゃない? ストーカーとかに付きまとわれたりしていないの?」


「どうでしょうか。昨日のようなことは初めてだったのですけれども……」


 恵子はしっかりしているから、恵子が気付いていないなら今までストーカーはいなかったのだろう。

 けれど、こういうのはいきなり現れるものだ。

 わざわざ声をかけるだなんて、わたしにはあなたを標的にしますという宣言にも思えてくる。


「……ねえ、まだ忙しいの? そろそろ早く帰れないのかしら」


「アリナさん……。でも、早く帰ると休日まで出なくてはならなくなりますから……」


 ……ああ。

 それならしょうがないのだろう。

 慣れない仕事を頑張っている恵子を邪魔するわけにもいかない。

 なにより、休日をわたしのために開けようとしてくれているのが嬉しかった。


 恵子は新たに学院の理事長となってからは忙しい毎日を過ごしている。

 今はまだ仕事が多いのだろう。

 私も遊んでばかりいないで、放課後は恵子を手伝ってあげるのもいいかもしれない。

 それなら帰りは一緒なのだし。


「学院生の中でストーカー被害にあったという子はいないのよね?」


「ええ。今のところは特に」


 それならば何も言うまい。

 わたしは恵子を尊重すればいいのだ。



 穏やかな休日を三人で過ごしていく。

 三人で買い物に出かけ、三人でご飯を食べて。

 理想的な休日の過ごし方ではないだろうか。


 午後になると琴乃は机に向かう。

 なにせ今年は最上級生、もう受験生の年だった。


 琴乃の進路について、わたしは何も聞いていない。

 わたしからは聞くつもりもない。

 勉強をしている以上は進学をするのだろうとは思う。


 恵子の時は、丁度この最終学年のタイミングでわたしのことを伝えた。

 でも琴乃はもっと小さい頃からわたしのことを知っている。

 恵子の進学先にわたしがついていった話もきちんと伝えているが、それでも琴乃は何も言ってこない。


 琴乃も街を離れるのだろうか。

 誘われたらわたしはどうするのだろうか。

 そろそろわたしも考えておかなければならないかもしれない。



------



「琴乃はまだ勉強ですか?」


「そうみたいね」


「まったく、普段から勉強していたらこんなに焦らなくていいものを……」


 夕飯の時間になっても琴乃は部屋から出てこない。

 最近ではいつもの光景だ。


「恵子は優秀だったからね」


「違いますよ。あの子が不真面目なのです。真面目に授業を受けていたら問題ないはずなのに、あの子はいつもいつもアリナさんと一緒で……」


 確かに、恵子の必死になって勉強していた姿は見たことがない。

 休みの日こそ毎日のようにわたしにべったりだったけれど、そういえば授業中は真面目だった。


「……その、ごめんね?」


 その点、琴乃は確かに不真面目といえる。

 なにせ授業中もわたしにべったりで、わたしが授業をサボるときは必ず琴乃もついてくる。

 恵子と琴乃で教育方針を変えていない以上、違いはそれぞれの個性か、それとも時代の流れなのか。

 ……そもそもわたしが真面目だったらということは、わたしも恵子も考えない。


「アリナさんが謝る必要はありません」


 そうは言うけれどね。

 でもわたしがもっと真面目だったら、琴乃の頭も今よりは良かったのではないだろうか。

 卒業までもう一年もない。

 これからはわたしも真面目に授業を受けようと思う。

 ……自信はないけれど。



 就寝の時間。

 思うところがあって今日は一人で床につく。

 考えるのはもちろん昨夜の出来事だ。

 恵子と琴乃の前に同時に現れた不審な人物のこと。


 ──とっても匂うわ。


 ──不思議な匂いがします。


 これが個別に、日を開けて起こったのならここまで悩むこともないだろう。

 二人には言わなかったけれど、確かに恵子も琴乃もいい匂いがする。

 わたしを惹きつけて離さない魅惑の香りだ。

 もちろん普通の人なら気付かない。

 そしてわたしが知る限り、この街に普通の人以外は存在しない。

 わたしの知り合いを除いては。


(気にしすぎ……じゃあないわよね)


 二つ重なった偶然を、偶然と片付けるほどにわたしは愚かではない。

 だから、そこには何かしらの理由があるはずだ。


(なんだったかしらね)


 自らの記憶を探っていく。

 そう、わたしには確かに記憶がある。

 いつか、似たような出来事があったはずだ。

 あれは一体いつのことだったか。

 遙か昔、住み慣れた街を離れてこの街に向かって旅をしていた頃だとは思う。

 だけど、それ以上のことは思い出せない。


 わたしは遥かな時を生きている。

 だから、記憶に欠落があるのはもうしょうがないことだ。

 ハッキリと覚えていないということは、少なくとも当時のわたしにとってはその程度の出来事だったということ。


 でもだからといって、今回も無視していいとは限らない。

 なにせ当事者はわたしではなく、恵子と琴乃なのだ。

 わたし一人ならなんとでもなることも、二人にとってはなんともならないことかもしれない。

 だから、なんとしても思い出したいのだけれど。


(ああ、コレはダメね……あら?)


 それでも思い出すことはできなくて、もう諦めようとした時だった。

 閉めているはずの窓の向こうから、嗅ぎ慣れない匂いが漂ってきた。


(この匂い……)


 気になったわたしは窓を開けて外の様子を眺める。

 もちろん外は真っ暗で明かりはわずかしかないのだが、すぐそこ、庭に佇む人影をわたしの目はしっかりと捉えた。


「あなたは……」


 そこに立っていたのは長く明るい髪を持った女性だった。

 嗅ぎ慣れない匂いを放つ、明らかに人ではない女性。


「我らが主が定めし王よ。今この街には二つの災厄が迫っている。ひとつは暴走、ひとつは調停。しかし案ずるには及ばない。我らが主は我らが守る。無論、それに連なるものも全て」


「一体何を……」


 一体何を言っているのだろうか。

 そう問いかけようとした時、すでに庭にはなんの人影も見えなくなっていた。

 そして匂いも。

 一瞬だけ感じた強烈な獣の匂い。

 その残滓すらも残っていなかった。


 あとに残ったのは、ただ呆然と誰もいない庭を見つめるわたしだけ。


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