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3 大陸の東側

 わたしは大陸をまっすぐ東へと歩いていた。

 ただ東へ、東へ。

 道中、大きな街へは一度たりとも立ち寄っていない。


 一人の時間を存分に堪能した。

 そういえば、長く一人でいるのはいったいいつ以来だったろうか。

 わたしは長いことある人のお世話になっていて、そばには常に誰かがいた。

 旅をすること自体が久しぶりだった。


 ある人たちの最後を看取ってから、その言葉に従い東へと旅を続けている。

 街に寄らないのは、人混みの中では以前暮らしていた街を思い出してしまうためだ。

 別れは覚悟していたことだが、最後の別れというのはこれっきりにしてほしい。

 不意に浮かんできた彼らの顔を振り払うように頭を振る。

 まだまだ吹っ切るには時間がかかりそうだった。



 山を超え、谷を超え、わたしは文字通りまっすぐ東へと歩いていく。

 時たますれ違う人たちは、驚くほどに軽装のわたしを見て軽く目を見開いたりもしていた。

 それでも話しかけられなかったのは、訳ありだと思われたのか、それともわたしの目を見張る美しさのせいなのか。


 そして今、わたしは丘の上から大地を見下ろしていた。


「……綺麗な光景ね」


 眼下には黒い大地が広がっていた。

 山肌に緑はほとんどど無く、ほぼ一面が黒い土で覆われていた

 それと黒土に侵食されつつある、人影のない古い建造物も。

 ここは名も無き遺跡だった。


「ここは忘れ去られたバリク。誰も近付くことのない土地」


 いきなりの声に振り向くと、そこには一人の少女がいた。

 虚ろげな視線をわたしに向ける、見知らぬ少女。


「はじめまして。オンゴットの導きにより、あなたをお迎えに来ました」


 驚いた。

 いきなり頭を下げられたこともだが、それよりもいつの間にそこにいたのか。

 気配は間違いなく人間で、わたしが気付かないはずがないのにだ。


「……あなたは?」


「わたしはただのオットガンです。道に迷っているあなたを連れてくるように言われています」


 それは全く答えになっていない。

 バリク、というのは多分この遺跡のことなのだろうけれど、オンゴット、それにオットガン。

 こうもよく分からないことを当然のように話す少女だが、しかしわたしは後をついていくことにした。

 ……別に迷っていたわけではないのだが。


 少女はこの国の子供にしては多少裕福なのだろう。

 遠目に見た遊牧民の子どもたちは誰もが質素な服装だったが、目の前の少女は多少の飾り付けをしている。

 頭には何かの動物の毛で編んだ帽子に鳥の羽の飾り付け。

 首からは小さいながらも宝石も下げていた。


 少女はオットガン。

 わたしを迎えにこさせたのはオンゴット。

 案内に従ったのはただの気まぐれだ。

 ただ少女からは邪な感じは見受けられなかったし、人里離れて過ごしていたわたしにとっては久しぶりの会話でもあったからだ。

 自らは人を避けていたくせに、こうして近付かれると話してしまうのだから笑ってしまう。

 この道中が寂しいものではなかったとは言えなかった。



 少女はバリクの中へとわたしを案内する。

 やはりここは遺跡なのだろう。

 すべての民家は壁が崩れ、誰も住んでいないのは明らかだ。

 国によってはこれも大きな観光資源になるのだろうが、この国の場合はもう少しかかるのかもしれない。


 初めは目新しい物も、朽ちた民家ばかりなのですぐに見飽きてしまう。

 少女のゆっくりな歩みに合わせながら、分からないことを聞き出すことにした。


「オンゴットというのはどういう方なのかしら?」


「……?」


 少女はわたしの問いかけの意味が分からなかったのか、可愛らしく首を傾げるだけだった。


「ごめんなさいね。この国に来たばかりだから、オンゴットやオットガンという言葉を初めて聞いたの」


 ああ、もしかしたら飾り付けをしている人をオットガンと呼ぶのだろうか。

 ただのお金持ちのファッションというよりは、何か儀式的なものを感じる。


「……オンゴットは先祖のことです。オットガンは、先祖の声を聞けるものです」


 ……よく分からない。

 つまりはお祖父さんやお祖母さんということだろうか。

 この国は未だ発展途上であり、平均寿命はおしなべて低いものだ。

 だから少女の年齢でもまだ存命の祖父母というのは珍しく、その為に溺愛されるからこその格好とか。


 ……違うだろう。

 前提として、わたしの存在に気付けることというのが抜けている。

 少女はわたしを案内することが目当てであって、あの丘にわたしがいると分かっていたようだった。

 少女は遣わされただけだから、そのことを少女の祖父母が知っていた。

 確かに有り得なくもないだろう。

 わたしは道中身を隠していたわけではないから、遠目にわたしの姿を捉えることはあったはずだ。


 しかしどうにも納得できない。

 近付く少女の気配を感じなかったことがどうも引っ掛かる。


 少し前提を変えてみよう。

 少女はどう見てもただの人間だ。

 それが間違っているとしたら?

 だったらわたしにも気付くだろうし、わたしが気付かなかったことも納得できる。


 そしてわたしを呼びつける存在。

 実は一人だけ心当たりがあった。

 わたしが以前に住んでいた街を離れることになったきっかけ。

 『彼女』は一族の一人が東へ向かったと言っていた。

 どこかからわたしのことを聞いていて、あの街での最後を聞きたいのではないだろうか。


 これは納得できる推測だった。

 わたしは知らないことだったが、人と子を為すとこのような少女か生まれるのかもしれない。

 限りなく人に近い、けれど存在の希薄な子供に。

 容姿も美しいし。


 納得できる推論も立ったところで、大事なことを聞いていないことに気付いた。


「そういえば、あなたのお名前は?」


「……トヤー」


 自分の名前をいう時だけは、少女が輝いて見えた。



------



 バリクの中、ひときわ大きな建物の中へと入っていく。

 ただの大きな建物というよりは、どこか神聖なものを感じる。

 この国の宗教は知らないけれど、それに関連した建物だろうか。

 場所もバリクの中央と、それらしい場所にあるのだし。


 建物の中に入ったことで、今までの煙っぽさが少しだけ和らぐ。

 手入れのされていない建物は得てして埃っぽいものなのだが、ちょっと風が吹くだけで砂埃の舞う外よりはだいぶマシなのだ。


「こっち、です……」


 少女は迷わず奥へと進んでいく。

 まだ日の差す時間とはいえ建物の中は薄暗い。

 そこを迷わず進んで開くということは、少女にはこの薄暗い中もしっかり見えているということで、わたしの推測はまた一歩正解へと近付いていく。


 入ってすぐに大きな広間。

 そしていくつかの小さな小部屋。

 その中を通り過ぎていく。


「トヤー、ここが案内したかった場所なの?」


 入り口から一番通りだろう小さな部屋、そこで少女は歩みを止めた。

 もちろんわたしと少女以外に人影はない。

 オンゴットなる人物がいると思っていたのだけれど。


 少女は立ち止まったかと思ったら、小さな歩幅で部屋を練り歩いた。

 何をしているのかは分からない。

 ただ、少女はその小さな足で何かを踏み潰そうとしているように見えた。


 ある一か所で少女は動きを止めた。

 その床だけは木で出来ていたので、踏んだ感触で分かったのだろう。

 でも気になるのはそこじゃない。


「トヤー……目が、見えていないの?」


 不思議だった。

 少女は暗い中でも迷わずここまで歩いてきたのだから、目はいいほうなのだと勝手に思っていた。

 でも違ったのだ。

 あの虚ろげな視線で気付くべきだった。

 少女の瞳に光は映っていなかった。


「見えなくても、オンゴットが導いてくれます」


 これだ。

 オンゴットとは一体何なのだ。


 少女は目が見えていない。

 オンゴットの導きとは、恐らく道中の案内からあったのだろう。

 しかしわたしは少女のそばにいたのにオンゴットの声も聞いていないし気配も感じていない。

 周囲を探っても感じるのは目の前の少女だけなのだ。


 初めは少女の祖父母だと思った。

 次は『彼女』の一族だと思った。

 『彼女』の一族だとわたしも気付くはずなので、どうやらどちらも違うと思っていたほうが良さそうだ。


 見つけた木床の部分をどうするのかと思ったら、少女はその部分を足でもって動かした。

 それには少々驚いたが、目が見えない以上は物を動かすのに手よりも足を使うほうが確実なのだろう。

 それよりも、動かした床に驚いた。

 木床は蓋でもあったようで、除けたことでそこには一人分ぐらいの穴ができていたのだった。


「……この奥です」


 少女はこの一人分程度の穴の奥が目的地だと言ってくる。

 ここに入れというのか。

 怖いものがほとんどないわたしだが、さすがにこれはためらってしまう。


「わたしだけが入るのかしら?」


「いえ。でもわたしは目が見えないので、連れて行ってもらえないでしょうか」


 隠されていた床の穴は人工的に掘られたものだ。

 中は真っ暗闇だがわたしにはよく見える。

 だいたい五メートルほど降りたところでどこかへと繋がっているようだ。


 まあ、少女も一緒なら問題ないだろう。


「分かったわ。ちょっと衝撃があるかもしれないから、しっかりとわたしを掴むのよ」


 少女を抱きかかえると、少女もわたしを抱き返してくる。

 相手が見えていないのをいいことに、目の前でマジマジと少女の顔を見つめる。

 なかなか可愛らしい少女だ。

 わたしの目的地がここだったら、もしくは目的のない移動だったのなら、少女と静かに暮らしていたところだ。


 少女を抱きかかえたまま床の穴へと飛び込んだ。

 目測通りに少し落ちたところですぐに地面となる。

 ああは言ったが衝撃はほとんどない。

 そして、前面には暗闇が広がっている。


「そのまま進んでください。それと、もう降ろしてもらっても……」


「あら、ダメよ。この通路は狭いのだからね。安全のためにわたしがこのまま運んであげるわよ」


 それは本心からの言葉だったが、本音はもちろんこのままでいたいからだ。

 ただ温もりに飢えていただけで他意はない。


 一人が通るのがやっとという幅の空洞を進んでいく。

 当然ながら真っ暗闇で、わたしでなければ歩くことも難しいだろう。

 空洞は人の手によって掘られたことは間違いないようだった。

 壁も地面もある程度均されているのだ。

 その気になれば走ることもできるだろう。


「この空洞はどこまで続いているのかしらね」


 結構な距離を進んだ気がする。

 初めに入った建物はとうに遥か背後だろう。

 もしかするとバリク自体からも離れるぐらいには歩いたかもしれない。

 それこそ、わたしがバリクを見下ろしていた丘ぐらいまで……。


「この先に部屋があります」


「部屋? そこに行くとオンゴットとやらに会えるのかしらね」


 少女は答えない。

 危険な気配がしない以上はこのまま進むことに問題はないのだが、そこはかとない不安は少しずつ大きくなっていた。



 そして小部屋へと辿り着く。

 小部屋といってもちょっと開けているだけの空間で、机なりが置いてあるわけでもない。

 もちろん岩肌も見えているままで、部屋と言われなければ分からないぐらいだ。

 だがここが終着で、続いている道がない以上はここが目的の部屋なのだろう。

 明かりも何もない部屋だ。

 少女を降ろして壁に触れてみても通路が隠されているわけでもない。

 ここに案内して何をしようというのだろうか。


「……ねえトヤー──」


 しかしわたしの疑問は口に出すことができなかった。


「オンゴットの導きが……」


 わたしが問いただす前に少女が呟いたからではない。

 激しい轟音とともに、今まで歩いてきた空洞が崩れだしたからだった。


 ……。

 …………。


 空洞が崩れるのが唐突ならば、激しい轟音が止むのもまた一瞬だった。

 気付けばわたしは少女を組み伏せていた。

 もちろん少女を守るためにである。

 ちょうど少女の頭がわたしの胸に挟まっているのはただの偶然だ。


「驚いたわね」


 揺れが収まったことで、立ち上がって周囲を見渡す。

 この突き当りの小部屋こそは無事だったが、通路は軒並み埋まってしまったようだ。

 一瞬で音がやんだからてっきり一部が崩れただけだと思ったのだが、どうやら通路の全てが同時に崩れたようだった。

 生き埋めになったことで特に焦る必要もないが、多少面倒なのは事実だった。


「大丈夫? もう揺れは収まったみたいよ」


 しかしなんという不運だろうか。

 滅多に起こらない地揺れがこんなタイミングで起きるだなんて。

 でも少女にとっては幸運だろう。

 わたしと一緒ならば生き埋めになる心配はないのだから。


「……どうしたの?」


 わたしはしっかりと少女を守れたはずだ。

 それなのに少女はうずくまったまま立ち上がらない。

 どこか怪我でも……そう思って無理に抱きかかえると、なんと少女は泣いていたのだった。


「どうしたの、大丈夫よ。目が見えないせいでいきなりの音に驚いたでしょうけれど、怖いことは何も起きていないわよ」


 そうか。

 少女は洞窟の崩れる轟音しか聞いていないのだ。

 何が起きたのかさっぱり分からないのだろう。


 しばらく時間を置く必要があるだろう。

 こういうのは自力で立ち直ってもらうのが一番早い。


 少女を優しく抱きしめながら、わたしの頭は少し過去へと向かう。

 この国に入る直前に、聞こえてきた会話が思い出される。


『今は東へ向かわないほうがいい。どうやら大量に北に拐われているようだ』


『誘拐か。いや、戦争か。最近はどこも騒がしいな。しかし北か。これは本格的に南に進行するつもりなのかもしれないな』


『間違いなくそうだろう。拐われているのは神官共ばかりらしい。宗教から進行するのが手早いからな』


『神官……ああ、あいつらか。先祖の声が聞こえるとかいう奇抜な格好をした奴らだな。確かオンゴットとか言ったか』


『それは先祖の霊の方だ。声を聞く奴はオットガンだろ。……まあ、胡散臭い奴らだよ』


『おいおい、滅多なことは言うなよ。……気持ちは分かるが大事な取引相手なんだからな』


 どうして今思い出したのか。

 忘れていたのは何気ない会話だったから当然としても。

 その原因は分からないが、しかし重要なことだった。


 少女はオットガン。

 祖霊の声を聞く者。

 頭に羽をつけ、大きな宝石の首飾りを身につけ。


 確かに少女の特徴そのものだ。

 しかし一点だけが明らかに違っている。

 オットガンには通常その集落で発言権のある、つまりは高齢の者がなるらしい。

 その点少女はまだ十になったばかりというところだろうか。

 事情が……目が見えないことが関係しているのだろうか。


「あの……」


 そこまで考えたところで、どうやら少女は気を取り戻したらしい。


「疲れました。少し眠りませんか」


「……ここで? 今すぐに?」


 地面に座り込んだまま小さく頷く少女。

 さて、どうするべきなのか。

 どう考えてもおかしな話なのだが、これまたおかしなことにわたしは一緒に眠ってもいいと思ってしまう。

 認めよう。

 わたしはこの少女を気に入っていた。


「……そうね。これじゃ見動きも取れないから、眠るぐらいしかできないものね」


 少女が眠ってから、こっそりと地面から出たらいい。

 地上までは大体五メートル。

 わたしにとっては訳ないことだ。



 少女の呼吸はすぐに落ち着いた。

 小さな身体だ、きっと疲れていたのだろう。

 そう思いつつ少女の寝顔を見つめていると、少女の呼吸は次第に浅く荒いものへと変わっていった。


 ──空気だ。


 一本道の洞窟が埋まってしまったのだから、空気がこもるのは当たり前だ。

 どうして気付かなかったのか。

 すぐにこの地下から脱出しようと少女を抱きかかえた。

 そして、わたしは自分の意思とは裏腹に、なぜだか少女の柔らかな首筋へと噛み付いたのだった。


 ──どうして、私は……。


 疑問にと思う間もなく流れ込んでくる覚えのない会話。


 ──見よ。あやつが侵略者じゃ。

 ──肌の色も髪の色も我らとは違う。

 ──我らの大地を汚すものだ。


 わたしを遠くから見ている少女。

 これはトヤーの記憶なのだろうか。


 ──こやつともやっとお別れじゃの。

 ──せいせいするわ。

 ──うむ。使えぬ子供は異人と共に尽きてもらうに限る。


 この会話はトヤーは知らない。

 少女の中で、彼らだけで話していた。

 でもどうして。

 わたしは『彼女』と違い、記憶は読み取れないはずなのに。


 ──何を遠慮しているの?


 記憶の中の『彼女』が語りかけてくる。


 ──わたし達は孤独なの。だからこそ仲間を増やすのも当たり前なのよ。


 『彼女』の最後を看取ったあと、わたしは『彼女』の全てを取り込んだ。

 決して悲しかったわけではない。

 ただ、その身体が野ざらしにされているのが許せなかっただけだ。


 『彼女』はわたしの中で今も……。

 まったく、そんな訳がないのにね。


 それよりも今は少女のことだ。

 記憶を見てわかったが、どうやらこの少女、この閉ざされた地下の空洞でわたしと心中しようとしているらしい。

 なんて可愛い娘だろうか。

 無意味に健気な無垢なる少女。

 それがわたしの好みなのだろうか。


 しかし、どうするべきか。

 これでは少女を連れ出すのはまずいのかもしれない。

 どうやら少女は祖霊に見捨てられたようだった。


 目が見えないからこそ才能もあったのだろうが、意思あるオンゴットから見ると、やはり目の見えない少女というのは扱いが悪かったのだろう。

 そこでさらに心中にも失敗したと知られてしまったら、もう残る使い道なんてのはわずかしか残っていないのではないだろうか。


 更に、どうやらわたしにはオンゴットという存在を認識することはできないようだ。

 確か『彼女』が昔言っていた。


『人の世界は一つだけだけれど、私たちはそれぞれが違う世界に住んでいるのよ。人の形を為していて、噂も似たようなものだからこそ私たちとアリナはこうして知り合うことができたの。それってとっても素敵なことよね』


 その美貌で人を誑かすという共通点があったからこそ、わたしは『彼女』と知己を得ることができた。

 そして霊という一点において、わたしはオンゴットと明らかに存在が違うのだ。

 向こうから一方的に知られるというのは納得がいかないところではあるのだけれど。


 この少女をどうするべきか。

 いや、本当は分かっている。

 今のトヤーを確実に救えるような、わたしが取れる手段はただ一つだけなのだから。


 少女を今の立場から開放してやればいい。

 人ではない、わたしと同じ存在になればいいのだ。


 しかし少女は眠っている。

 説明をしようにもここから連れ出せない以上、同意を得るのは難しい。

 でも、問題ないのではないだろうか。

 今の立場は良くないものだと、少女も十分に理解できているのではないのか。

 だからこそこうして言われたとおりに命も投げ出すのではないのか。


 そう、きっとそうなのだ。


 そう思うと決意も固まる。

 捨てた命ならば、拾ったわたしの自由にしていいのだから。


 わたしは自らの唇を噛み切って血を流す。

 迷わず少女と唇を重ねる。

 わたしの血が少女に取り込まれていく。


『あなたを羨ましいと思ったのはいつからだろう

 あなたを妬ましいと思ったのはいつからだろう

 代われるのなら代わりたい

 成れるのならばそう成りたい

 そう伝えると

 あなたは僅かに悲しんだ

 ああ

 そんなつもりはなかったのに

 ただわたしは

 あなたの隣にいたかった

 ──混血(メタモルフォーゼ)


『嫌なことがあった

 忘れたいことがあった

 でも記憶はこびりついて

 わたしの夜はうなされてばかり

 眠ったらすべて忘れるよ

 でも時間が足りない

 遥かな時間が必要だ

 こびりついたこの記憶

 何度眠れば消え去るのだろう

 大丈夫

 今度目覚めた時には

 きっと解決しているから

 ──悠久の眠り(スリーピング)



------



 わたしは一人、東を目指す。

 目的地である、海を超えた東の国を目指している。

 わたしの隣には誰もいない。


 あの閉ざされた空洞の中、少女は一人で眠り続けている。

 わたしが眠らせたのだ。

 あの年齢では、いくらわたしでも全てを納得させることは難しいから。


 そう、少女が現状を受け入れるためには時間が必要だ。

 だからわたしは眠らせたのだ。

 永い永い眠りの中で、少女は自身を受け入れる。

 今までのことも、これからのことも。

 時間をかけて、ゆっくりと受け入れたらいいのだから。


 そうしてわたしは海を渡り、新たな国へとたどり着いた。

 ここに落ち着くかどうかはまだ分からない。

 『彼女』の勧めでもあったのである程度は居着くつもりだ。


 少女を迎えに行くのはその後だ。

 その頃にはきっと、可愛らしさと淫靡さを兼ね備えた素敵な姿に生まれ変わっていることだろうから。


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